第29話「ハゲ・コンプレックス!!」[6]
「今日はどんなスタイルにされますか?」
葵の柔らかな声が耳に届く。その声は、まるで天使の歌声のようだった。
「あ、えっと……その……少し整えるくらいで……」
緊張のあまり声が裏返りそうになるのを必死に堪えたが、実際にはかなり震えていた。
「わかりました。それでは軽く触らせていただきますね。」
彼女が柔らかい手つきで髪に触れようとする。その瞬間――。
「(ダメだダメだダメだ!触られたらバレる!)」
俺の中で緊急警報が鳴り響いた。
反射的に身を引いた俺の動きは、まるで電車に挟まれた猫のように不自然だった。
ガツンッ!
背中が椅子の背もたれに勢いよくぶつかり、店内に微妙な音が響く。そして――。
ポトリ。
何かが頭から落ちる音がした。
頭が軽くなった感覚。
そして――何かが視界の端に落ちた。
「……えっ?」
頭が軽くなった感覚。そして視線を下げると、そこには――。
俺のウィッグが無惨にも落ちていた。
「ぎゃああああああ!!!」
本当に叫びそうになるのを必死に堪えた。いや、叫んでいたかもしれない。心の中で。
「(なんで!?どうして!?俺のウィッグ、ここで俺を見捨てるのか!?)」
「(いや待て、拾えばバレない……いやいや、目の前で転がってる時点でアウトだろう!!)」
視線を上げると、葵さんの目が静かにウィッグに向けられている。
その目は驚きに満ちているか――いや、これは分析か!?
もはや俺の人生はここで幕を閉じたも同然だ……!!
店内は、静まり返った。
いや、むしろ時が止まったようだった。
「えっと……これは……その……」
頭の中が真っ白で、まともな言葉が出てこない。いや、こんな状況で何を言えばいいのか?
(『これは俺の新しいスタイルの一環です!最近こういうの流行ってますよね~』とか言うか?いや、余計に怪しいだろ!)
視線を必死にさまよわせる俺の目の前で、葵は静かにウィッグを両手でそっと拾い上げ、その目はまるで小鳥を守るような優しさに満ちていた。
そして――。
「ウィッグなんですね」
その一言は、あまりにも穏やかで温かくて、むしろ俺には効きすぎた。
「(いやいやいや、そんなに普通に言われたら、逆にダメージでかいって!)」
「(『えっ、ウィッグなんですか!?』みたいに驚かれた方がまだマシだったのに……)」
葵さんの穏やかな微笑みに、俺の中で別の警報が鳴り響く。
「(これ、優しさで包み込むタイプのダメ出しか!?『もっとちゃんと隠せばよかったのに……』みたいな!?いや、それは俺の妄想だろうけど!!)」
顔がますます熱くなる。いや、これは限界だ。
人生の第2章がここで始まるかと思いきや、すでに第1章で詰んでる感が半端ない……。
俺は完全に茫然自失状態だった。
顔が熱くなり、心臓が爆発しそうな勢いだ。
だが、葵の次の言葉がその状況を少しだけ変えた。
「実は、薄毛に悩むお客様も多いんですよ」
「……えっ?」
耳を疑った。まるで何事もなかったかのように続けるその言葉。
いや、なかったことにはできないだろ!?俺のウィッグが落ちたんだぞ!?
その言葉が耳に届いた瞬間、俺の中で渦巻いていた嵐が一瞬だけ止まった。
「(えっ……悩む人、多い……?そうなのか?俺だけじゃないのか!?)」
頭を上げると、葵さんの微笑みが視界に飛び込んでくる。
その微笑みが、まるで「大丈夫ですよ」と言っているように見える。
だが、その優しさが逆に俺を追い詰める!
「(いや、こんなに優しくされたら、俺もう言い訳できねえじゃん!むしろ全部吐き出すしかないじゃん!?)」
俺の中で残っていたプライドが、粉々になりながら消えていくのを感じた――いや、むしろそのプライド、ウィッグと一緒に床に転がっているだろうけど!
「気にしないでくださいね。こういったご相談もよく受けますし、皆さんとてもオシャレに変身されていきますよ。」
笑顔で言う葵の姿は、まるで菩薩か何かに見えた。
俺の中で複雑な感情が渦巻く中、ついに口を開く決意をする。
「……あ、あの……実は……若ハゲなんです」
勇気を振り絞って打ち明けると、どこか心が軽くなった気がした。
葵はその言葉を聞くと、少しだけ真剣な表情になり、そしてゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます。教えてくださって。では、これからもっと素敵な髪型をご提案しますね」
「素敵な……髪型?」
「はい。薄毛を隠すのではなく、活かしてみませんか?」
「活かす……?」
一瞬その言葉の意味が理解できず、頭の中で考え込む。
「(活かすってどういうことだ?まさか、この状態を『トレンド』とか言って逆手に取るってこと?)」
「え、もしかしてこう……『清潔感を目指した髪型』みたいなイメージですか?要するにスキンヘッドってやつ……」
と、思わず口を滑らせた俺に、葵さんは少し驚いた顔をして多少の間をはさむ…がすぐに微笑んで答えてくれた。
「……それも素敵かもしれませんが、今回はもう少しオシャレな形にしましょうか」
「(あっ……俺のセンス、今ここでオワタ)」




