第九話 立花の雷娘と忍の獅子娘、そして‥‥
「母上、戦に敗れ領地を奪われた私にたかるような真似をしないで、蒲生で饗応受けて下さいよ」
「嫌よ。氏郷はわたしがいくと畏まっちゃって話にならないもの。信雄の負け顔を見ながら粟飯を頬張る方が楽しいわ」
帰蝶の奔放ぶりに信雄は舌打ちする。ここへ帰蝶が来たのは、三条西家や徳川家で話せない愚痴を吐き出すためだ。信雄は面倒そうにしながらも、嬉しそうに話を聞く。理由をつけては帰蝶と光秀は信雄の身を気遣ってくれるのだ。
徳川の事は光秀に任せて、帰蝶はあちらこちらに駆けずり回っていた。
「揃いも揃って臍曲がりの頑固者ばかりで嫌になるわよ」
秀吉が家康と遊んでいる間に、帰蝶は長宗我部、大友、毛利、北条、上杉、伊達など、有力な勢力を巡り話し合って来ていたのだ。同盟の瓦解した時点で中央に詫びを入れておけば、戦わずに済んだ所も多い。本人を前に言葉は悪いが、うつけの織田信雄の気まぐれのせいに出来たからだ。災害の被害があったとはいえ、家康ですら秀吉は赦したのだから。藤原を名乗り豊臣を名乗った背景には、豊国の再興の願いも込められていた。
帰蝶は秀吉陣営の図々しさを苦々しく思いながらも、南蛮勢力に対抗する為には必要と判断したようだ。信雄も光秀のように、いつしか日の本の国を守るために働くようになっていた。信長が帰蝶を抑える軛だったかのようで、信雄では抑えが効かず振り回されているともいえた。まさか九州にまで足を運んでいるとは思っていなかったが、秀吉軍に蹂躙される前に人材を集めておきたかったのだろう。
「遊び‥‥まあ、母上からはそうなのでしょうな。大友は雷親父が没して、島津らに負けていると聞きましたが」
「そうね。ただ雷娘とその婿が健在だから、救援を急がせたわ」
「噂の女城督────立花誾千代か。私も会ってみたかったな」
「喰い殺されても良いなら、好きになさいな」
帰蝶の冗談に聞こえない言葉に信雄は震えた。秀吉に恭順を誓った者は女房子供を人質に供出する暗黙の約束が出来ていたが、立花統虎、誾千代には子がいなかった。また人質となることを誾千代が頑なに断ったため、秀吉の近臣が騒ぎ立てたが、統虎は己の武功を持って応えてみせた経緯がある。雷娘の噂を知る毛利の小早川などが取り出さなければ、豊臣軍は立花家を滅ぼしていかもしれなかった。
それでも赦されたのはこの誾千代を慕う民の多さを考えての事だろう。人質として大阪送りにするよりも、残して治めさせた方が安定する。もちろん中央へそう噂を広めたのは帰蝶だ。武人として働く統虎はともかく、誾千代を秀吉の玩具になどさせたくなかった。
「お誘いは感謝する。帰蝶さまに選ばれるのは嬉しいものだ。‥‥が、我はあの粗忽者のかわりに立花の者としての務めがあるのだ」
帰蝶としては統虎よりも、誾千代の才能に惚れたので断られたとしても構わなかった。最悪の場合はねねか、茶々の側に置き、秀吉が手を出せなくするつもりでいた。ただ実際に会ってみて考えは変わった。雷娘は、話し相手や護衛にするには惜しい才覚があったからだ。自分の誘いに関して断ったものの、協力を約束してくれただけでも充分だと思った。
その誾千代が少し憂いを帯びた表情になる。才能を認められながら、女たからと不遇の扱いを嘆くのか。
「────あの者は頑固で意地を張り、我の言葉は聞かぬ。帰蝶殿に迷惑になるようならば、構わず首を討ってやってほしい」
自身の立場など気にもせず、夫の身を案ずる言葉は、物騒なものだった。帰蝶が自分と同類とみての発言なのだろう。帰蝶としても、そう言われては、統虎が敵対してもなかなか首を刎ねるわけにはいかなくなる。先を見越した賢しさも、秀吉相手に一歩も引かず噛みつく胆力も、いちいち帰蝶の好みで思わず抱き締め、盛大に喚かれた。
類稀なる戦闘能力を、もちながら一国一城の主として致命的なくらいお人好しな弱点を誾千代が補う。だから連れて来る事は叶わなかった。
「敵対する事になっても、立花夫妻を害する事は厳禁ね。家康殿にもそう伝えておくのよ」
この邂逅の結果は、後の歴史に大きな影響を及ぼす事になる。朝鮮との戦での統虎の無双ぶりは言うに及ばず。留守を預かる雷娘の存在一つが黒田孝高や鍋島直茂や加藤清正など、名だたる戦国の英雄を恐れさせ采配を狂わせた。誾千代に手を出し害するような真似をすればどうなるのか、彼らは知っていたのだ。
自由に動く羽を得た帰蝶が次に飛んだのは、関東の地だった。徳川と同盟を結び、所領を着実に増やし続ける北条家の所だ。北条家は代を重ねるごとに強くなる。今川義元、武田信玄、上杉謙信など有力な武家と矛を交えた三代目の氏康ばかりに目がいくが、武田を打ち破った織田家の強さに注目し、恭順の構えを見せながら版図を拡げてみせた四代目氏政はもっと高い評価を受けるべきだと家康が豪語していた。鎌倉で潰えた東国政権。真の日の本を復活させるべく、北条家は動いていたからだ。
ただ信長在命当時の織田家は、それに反対する立場にあり、武田に次ぎ北条も滅ぼす予定だった。信長がそう思っていたのではない。朝廷の意向が強く含まれていただけだ。帰蝶や、家康のもとにいる光秀も知っていた。帰蝶の話に耳を傾ける信雄は、逆に知らされておらず、武田の暴挙は天下への野望などではなく、織田、徳川への不信感が増したのが理由なのではと、初めて理解した。
「母上。それでは家康殿や光秀がいかに止めた所で、北条が滅びるのは決まっているようではないですか」
大国に挟まれた真田を使って、巧妙に北条は敵対者として追い込まれている。信長の時代は滝川が間に入り、不信感への壁役を務めていたものだが、いまは信長も亡く、滝川も落ちぶれた。氏政は元来強硬派でも好戦的でもない。彼我の戦力を冷静に分析し勝てぬから臣従を申し出た。しかし東国に対する過剰反応が戦の機運を後押しする中、帰蝶は氏政の説得に向かったのだ。
「帰蝶様が間に立ち、信長公との最悪の事態を避けてくれた事には感謝しております。明智殿が信長殿を害し、天下を奪われた報を受けた時、複雑な気持ちになりましたわい。出来得るならば、東国復権の夢をあなた様の為に果たしたかった……」
「滅びる覚悟が出来ているのなら、封鎖される前に、武田の旧臣諸共家康のもとへ移しなさい。出来れば氏政、あなたも‥‥」
「儂は最後まで城へ残りまする。家臣に非はない。大兵を動かそうと北条が滅びようと、儂は北条のために最期まで見届けねば、父上に顔向け出来ませんから」
「真面目で頑固ね。そういうの光秀で充分よ」
「確かに。明智殿からも使者が何度も届いてましたな。儂が無視しておったから乗り込んで来そうだ」
「わたしと違って、諦めが悪い男だからね。あなたが潰えた分を家康に託すつもりよ。だから安心して逝きなさいな」
関東の雄、北条氏政とはそれが最期に交わす言葉となった。家康がどこまで約束を守るのかは帰蝶にも分からない。それでも夢を継ぐものがあると知れば、氏政も心残りはなくなるだろう。
別れ際に、帰蝶は氏政から二人の娘の未来を託された。かいとおはちの二人だ。九州の仕置きと違い、北条攻めは見せしめだ。小田原城に残るよりも帰蝶に預けることで、今後に役に立てるとみた二人だった。
「帰蝶様、大殿はああ仰いましたが、私は父に代わり忍城へ戻りとうございます」
一緒にいた、おはちよりも年は上。誾千代に似た空気を醸し出す成田の姫に、帰蝶はそっと頭に手を乗せた。
「自分で道を選ぼうと言うのなら止めはしないわ。戦い抜く事で開ける道もあるというもの」
「はい。戦を見世物にしようなどという傲慢さ、私が打ち砕いてみせます」
「ならばあなたは甲斐姫を名乗りなさい。黄泉の旅路に誘う虎ならぬ獅子の魂を見せてあげるといいわ」
帰蝶の、巫女姫の力が宿るかのように、甲斐姫に機知と怪力が備わる。領民合わせても三千程度の忍城。帰蝶の助言で堀の強化を行い、城からの抜け道を用意した。城を囲う豊臣軍の指揮は秀吉お気に入りの将、石田三成。およそ二万三千もの大軍。
「怯むな。我らが彼らを引き付けるほど、北条の家人が救われると思え」
例え奇跡が起きて三成を退けたとしても、豊臣勢は二十万を越える大軍。勝ち目など端からない戦いなのだ。忍城の人々もそれはわかっていた。それでも抗うことで、北条方の味方の逃げる時間を稼げると信じていた。
神がかった能力を発揮する甲斐姫。小勢と舐めてかかった三成は、秀吉を喜ばせるために、大掛かりな水攻めの仕掛けを築くなど、無駄に時間と労力をかけていた。そのあげく城を落とす事に失敗した。三成にとっては大失態である。小田原城が落城した後も、忍城の籠城戦は続いく。小田原で捕まった城主の成田氏長を降伏を促す使者に立てる事でようやく、忍城は開城されたのだった。
成田氏の一族郎党は蒲生氏郷に預けられた。この頃になると流石に秀吉も、明智の残党がどこにいるのか答えを導き出していた。北条を見せしめに滅ぼしたように、討伐するよりも、圧倒的となった実力差を見せつけてやることにしたようだ。
蒲生氏郷を会津へと転封し、油断ならぬ伊達の抑えに回したのは口実だ。伊達、上杉、堀、佐竹、徳川など、秀吉に恭順を示したもの達に囲ませ蒲生の叛意を削ぐのが目的だった。明智の残党を取り込んだ蒲生氏郷がどんなに優秀でも、天下を制するには程遠い地に置かれては何も出来ない。
成田氏はその氏郷について行き、抗戦したにも関わらず丁重に扱われた。
「茶々様ののもとに行く事になりました」
三条西家に戻っていた帰蝶のもとに、甲斐姫が挨拶にやって来た。名目上は秀吉への輿入れ。徹底的に三成を叩いた手腕を買われ、茶々の警護と側仕えを任されたのだ。
「三成の首を繋げるための苦肉の策ね。茶々はなんと言ってるの」
「気に入って下さいました。最後まで城を落とさせる事なく、ようやったと」
帰蝶の事を話すと増々気に入り、秀吉に掛け合い自分の身辺に置くように懇願したのだ。
「あなたが来てくれたおかげで茶々も助かったようね。あの娘の力になってやってもらえるかしら」
「はい。それともう一つご報告が。どうも秀吉は唐入りを目指して軍備を整えております」
「そう。おそらく夫の⋯⋯信長との世迷い言を追うくらいしか、あの男には価値あるものが残されていないのね」
北条家滅亡により、ほぼ豊臣秀吉による天下泰平の道は終焉した。成り上がり、天下へ号令する身となって初めて孤独な事に気づいたのだろう。秀吉には天下を治める大義などない。あるのは登り詰めたい願望だけ。それを果たしてしまった今、その身を持て余しているのだろう。
「あなたも滞陣先に連れてかれるのね」
「はい。大陸へ渡る遠征軍の女房や子供は皆人質として新しく新設中の名護屋城へ連れてかれるようです」
「それならあちらには誾千代がいるから、会ってみると良いわ」
「わかりました。噂の雷娘‥‥会うのが楽しみです」
「茶々の警護も頼むわよ」
律儀な娘だと帰蝶は微笑ましく甲斐姫を見送った。覇気が有り余り過ぎて秀吉も夜伽を諦めた女偉丈夫と、雷娘の対面は見物だったろう。その秀吉が関白を辞し、秀次へと譲った話は帰蝶のもとにも届いている。秀吉に協力的だった朝廷は、国外への外征には反対していたため、軋轢が生じたのかもしれない。
三条西家に頻繁にやって来る使いが増えたのも、当家が家康と繋がりが強いと知っての事だ。秀吉がしくじれば天下は再び争乱の世に逆戻りしかねない。彼らは秀吉と一蓮托生とばかり戦いに身を投じる気はなかった。
「さて⋯⋯また忙しくなるわね」
家康は北条攻めの武功を讃え、北条家の旧領の大半を与えられている。そのかわり、家康と結びつきの強い三河や遠江の地は没収されている。これは油断ならない家康を封じる豊臣政権の画策だった。北条家と関わりをもちながら、滅亡を手助けした怨みが家康へと向かう算段なのだろう。
彼らは徳川の旧領を信雄に与えようとした。発想は家康に対するのと同じだ。同盟を結びながら真っ先に秀吉と和議を結んだ事で、徳川の怨嗟は信雄に向かっていると推察したのだ。しかし信雄は自身の旧領の復帰を要求し、秀吉を激怒させ豊臣政権から追放された。
「頭でっかちな近江の小坊主達の考えそうな事ね」
「母上もわかっていたであろうに人が悪い」
信雄は豊臣政権から、三法師に代わり織田家当主と扱われていた。だが尾張内府なんて持て囃されても、天下の事が成れば主筋織田家の看板は邪魔でしかなくなる。再び討伐の対象に戻され挑発を受けたが、信雄自身はうつけの本領を発揮して上手く躱す。
結局は蒲生家預かりになっていた成田氏に代わり所領を与えられるなど、のらりくらりと現政権の攻撃を回避し、徳川との親交を深める。
「光秀も歳であまり派手に動けないの。王朝復古はあなたの手腕にかかっているのだから、しゃんとするのよ」
「わかってますよ。だから徳川勢の派兵をうまく止めたではありませんか」
「光秀、それに秀吉も老いたわ。家康殿も気が塞ぎ込み、病にかかりやすくなっているそうね」
「それは家康殿とて高齢ですからね」
「そうね。だからおはちを家康殿に預けるわ。お福と一緒にわたしがみっちり仕込んだ娘よ。甲斐姫を見て思ったけど、家康殿に必要なのは若さからくる覇気よ」
「そんなものですかね。それにおはちとは氏政殿より託された娘でしょう?」
「彼女の存在は家康の統治を助けるはずよ。それに、わたしがついているもの」
秀吉も家臣団も、北条氏政から帰蝶のもとに託された娘の存在を知らない。おはち⋯⋯後にお梶の方やお勝の方などと呼ばれる娘。彼女の存在は、北条以前からこの地に残る坂東武者の希望になり得るとわかれば、家康に協力する地侍は増えるだろう。
信雄は大きく息を吐いた。帰蝶がその名を東国へ広めるだけで、家康を中心に多くの人々が集まるだろう。しかし帰蝶は信長と共に夢は果てたと、表に出ようとはしない。豊臣政権により固まり始めた天下。時が過ぎれば人の心も移ろいゆくと、信雄は知っている。帰蝶とてわかっているのだろうが、彼女はそれでも信を試す。
秀吉の二度に渡る大掛かりな唐入りの戦により、国内は疲弊してゆく。信雄は自分が光秀に代わりその舵取りを担う事になり、再び大きくため息をついた。