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第三話 伊賀越えの偽装と東征の神事


 織田信長を討った明智光秀は、天下人になるために方々へ協力要請の伝令を送っていた。要請の手紙は光秀の気持ちを正直に綴っている。自分でもどうしてこのような事態になったのかわからない。ただ都を戦禍の炎で焼きたくないことや、残った織田家中をまとめて天下安寧の為に働く事に邁進するつもりである⋯⋯手紙にはそう告げていた。秀吉の検閲にかかっても、問題のない光秀の窮状を見せる足掻きっぷりだ。光秀が自ら信長を襲ったと公言するようなものだった。信長や光秀の人柄を知るものほど、その真意がわからなくなり、静観を決め込む。真意はともかく都を大火に巻き込みたくない⋯⋯そこは皆、光秀に同意だった。


 光秀は帰蝶と共に公国から預かった男、本多正信を伴い家康のいると思われる堺方面に向けて馬を走らせていた。秀吉が軍団を率いて都へと戻る前に、どうしても会っておかねばならないものがいる。それが信長に招かれて都見物まで来ていた、徳川家の一行だ。家康は武田を滅ぼした戦勝祝いの名目で都までやって来たのだ。信長の歓待を受けた後は、都見物や堺へ赴き石山本願寺跡を改修し新たな城を造る現場の視察などを行っていた。


 ◇


 ────徳川家の面々が、信長の凶報をどこで受けたのかはわからない。ただ倒錯した情報がいくつも早馬で出回っている。当然のことながら堺にも情報は届いており、徳川家にとって危険な状況になりつつあった。本能寺襲撃者の名前には、何故か家康の名も含まれているようで、織田家中による徳川一行の捕縛命令も出ていると噂が聞こえたからだ。


「堺にいるわしが、十数名の家臣だけで、どうして本能寺にいる信長殿を討てようものか」


 同盟者である家康の存在を良く思わぬ織田家中の者が、祝宴を利用して毒殺を謀った。毒見役の申告で家康は無事だったものの、饗宴の責任者である光秀は、信長に酷く叱られ役目を解かれたと聞いていた。


「忠勝よ。いま思うとあれは予兆だったのだな」


「はっ。真偽は分かりませぬが、光秀殿の失態には違いありません」


 家康の上京の目的は、今後の方針についての確認も入っていた。信長の明智光秀へという男への信頼関係は主従の域を越えているように見えた。何かと家康にも気を配って来た光秀が公の場で毒殺を計る理由がなく、あったとしたのならしくじる事はなかっただろう。


「織田家中の動きは分からぬ。だが、わしの知る光秀殿が信長殿を害し天下を思うままにという話は、ちと無理があり過ぎる」


 家康の首が欲しいのは、光秀を罠に陥れた者。織田家中以外の実力者であり、同盟者として家中の者より強い立場で報復に動ける。簒奪が成った所で目障りになるのが徳川家康という存在だった。


「さしづめ殿は目の上の瘤。取れる時に取っておきたいのでしょうな」


 忠勝はカラカラ笑うが、家康としてはそんな理由で首を持っていかれるわけにいかなかった。近臣を派して情報を集め次第逃げねばならないのだ。

 

 集まる情報から戰場での仇討ちを喧伝しているのが伝わる。いくらなんでも早すぎて見え透いている。おそらく想定以上に混乱が起きたのだろう。見世物とするために光秀は生かされているのも感じられた。同時に家康は将来の禍根を残さぬ為に、殺せる時に殺すつもりなのだ。


 この機会を利用して都にうまく呼び出したのは、決して偶然ではない。家康への疑いの噂も、当然ながら黒幕側の秀吉らの仕込み。半兵衛の天下取りの案に、黒田官兵衛孝高あたりが手を加えたと思える。それに秀吉が手を下さずとも、血気に逸った織田家の誰かが動く可能性は高かった。


 現在の堺には、四国攻略軍が編成中である。信長在命ならば外敵を阻む、頼もしい味方だ。しかし信長がいないとなると、家康にとっては不安定な軍団でしかなくなる。名目上の率いている大将が大将なのが懸念される。疑わしきは始末せよと、四国攻略軍団総大将の織田信孝あたりなら言いそうだ。いや既に命令を出していてもおかしくはない。織田軍の主力が集結している中で、ろくな武装も兵もいない家康を守るのは難しい。それは火を見るより明らかだった。


 ◇


 三条西家から帰蝶たちは堺へ向け馬を走らせていた。早馬が行き交う中、武家の馬を一々誰何するような状況でもなく、道中は野盗まがいの野伏せりにだけ注意すれば良かった。


「明智様──先に言っておきますぞ。殿は儂をみるなり、手打ちにするやもしれません。ですが⋯⋯殿の気の済むようにして欲しいのです」


 堺まで馬で駆け通しだったため、途中の三条西家ゆかりの宿で、馬を変えがてら休息を挟むことにした。そこで正信が現状の自分の立場と気持ちを吐露したのだ。公国から家康のために駆り出され、光秀達と一緒に行くように本多正信は伝えられている。光秀とは本願寺の戦いで敵対していた事もあったのだが、流石に光秀も知らないだろう。


 本多正信は、かつて三河の一向一揆において一向宗側についていた。当時の家康は今川から独立をしたばかり。そんな大変な時期に敵対し、出奔した経緯があるのだ。武田の謀略とも言われていたが、敵対してしまったのは事実。和睦後に家康のもとへ戻る者達ばかりの中、正信は門徒に紛れ三河を去った。それから一向宗の方針に従って各地を彷徨い、三条西家に身を寄せる事になったのだ。


「ふふ、光秀。あなたに似た男がここにもいましたよ」


 良く言えば、一途で恥を知る者。悪く言えば、頑固で乱世に向かない不器用な者だ。ならず者も逃げ出す怖い顔が、笑われて渋面になる。


「姫⋯⋯お戯れを申されますな。正信殿、その約束は私には出来ない。あなたには何が何でも家康殿を、自領まで送り届けてもらう役割を果たしてもらわねばならないのだから」


 明智光秀による謀反は羽柴秀吉の謀略であると、正信は公国から知らされている。槍を振るうよりも、兵粮米を手配したり、策謀を立てたりする方が得意な彼は、織田家の事情も公国の手の者から聞き及んでいた。どんなに巧妙に人の動きを誤魔化しても、飯を食うもの、薪や油を燃やすもの。市場の物の動きで、見えてくるものがあるのだった。


 三条西公国が光秀を信用した背景には道三への信義などなく、帰蝶の言葉と、そうした下調べによる背景があったからに他ならない。現実的な男だからこそ、化け物だらけのような宮中でしのぎを削る事が出来る。本多正信のそうした推察能力を惜しみ手放すのは痛いと嘆くのも公国自身だ。ただ本当の主君の危機に、駆けつけてこそ真の忠臣だと、嘆く公国に諭された。それに⋯⋯謀反の罪を着せられながら天下静謐の為に、殺される為に動く明智光秀という男がどんな男か、見ておきたかった。かつて主君を裏切り逃げ出してしまった正信のような者にしか、この心境はわからないだろう。


「────わかりました。ですが同胞の門徒はともかく、伊賀者が儂の話を聞くかどうかは賭けになりますよ」


「それは家康殿の運に頼るしかないだろうな」


「今後の事を思えば、伊賀越えの運試しなんて可愛いものよ」


 信長の凶報を受けて、家康がどこまで先の事を考えて行動に移しているのか⋯⋯帰蝶は、それが家康の強さを測る目安になると微笑む。光秀は額に手をやり深くため息をついた。女の身で一日馬を駆けて来るのは、キツいだろう。それなのに⋯⋯昔よりじゃじゃ馬ぶりが増しているような気がした。


 信長がいたから抑えていたのか。尾張の大うつけと呼ばれた男が、帰蝶というじゃじゃ馬をしおらしくさせる良い重しになっていたのだ。世間の評判からすると真逆の夫婦の姿であろう。改めて信長の存在の欠如を惜しんだ。


「失礼ね、光秀は」


 光秀の仕草一つですぐに感づくのも帰蝶の特技だ。光秀はまた一つ息を深く吐いた。


「あの、明智様。急ぎ旅で聞きそびれていましたが、そちらの御方はいったい⋯⋯」


 公的に訪れ、家康と親交のある光秀と違い、三条西家で帰蝶が長々と滞在する事は少なかった。私的に訪ねて来る帰蝶は、正信と接見する機会がなかったらしい。


「⋯⋯この方は、私の従妹だ」


「はっ? いや、明智様の従妹と言われると織田様の奥方の⋯⋯?」


「帰蝶です。よろしくね正信殿」


 仏頂面で有名な本多正信が赤面した。美濃の美しい姫とは言われていたものの、能面のように化粧で固めた顔しか知らぬものばかりだ。正信も、そうした噂の顔の話しか知らなかったのだろう。化粧を落とした素の顔はあどけない乙女のようだった。天下の茶器を集めた信長公が本当に自慢したかったのは、このいたずら好きな──いつまでも美しい姫だったのではないだろうか。


「すまぬな、正信殿。帰蝶様はこういうお方なのだ。家康殿の前でも同じ無礼をするやもしれん」


「止めないでね、正信殿?」


「はっ。あっ────もしや⋯⋯!」


 先ほどの正信の言葉をそっくり返されたようで、正信はブワッと汗を吹き出した。織田信長が天下にその名を馳せた影には、帰蝶という姫がいたからではないか。彼女の機知に富んだ思考があって、躍進出来たのではないかと正信は思った。そしてその帰蝶が認めた夫の信長と、帰蝶から信頼を得て、常にからかわれ弄ばれている明智光秀という怪物の存在に震えた。


「貴方の主君の家康殿だって大した男よ。あの夫が頼りにする男を謀殺させないための盾になりなさいな」


 行き場を失い、ただ日々を過ごすだけの毎日。そんな男に、敬愛する主君の為の盾になって死ね───そう帰蝶は告げたのだ。光秀が天下の為に死を厭わぬように、正信にも家康の為にそうあれと微笑むのだ。皺の入った正信の目尻に枯れたはずの涙が浮かぶ。


「儂の役目ですか⋯⋯わかりました。天下安寧の日まで、精々殿をからかい耐え忍び、屈辱の中で節制に努めるように促しましょう」


 帰蝶の考えは、いまも家康という男を高く買っている証左になる。それに家康自身がもともと、明智光秀という男を信頼していると遠目に眺めていてもわかるのだ。親交が一段と深まったのは朝倉攻めの時だろう。信長が窮地に陥り退却した時に、共に殿を務めて互いに励ましあって生き延びた仲だった。秀吉がさも自分の手柄と得意気なのに対して、光秀はそれが至極当然の役目と誇ることさえしなかったという。


 光秀は律儀で謙虚な男だ。それからというもの、生命を救われた恩があるからと、何かと徳川家を気にかけてくれた。家康は自分の方が助けられたと光秀の好意に困っていたと伝え聞いた。今回も謀略絡みだったとはいえ、光秀は己の主よりも丁寧な接待をした。それを信長が咎め饗応役を外したという噂もあったくらいだ。本能寺に連なる謀略の流れを考えると、必要以上に家康に都に居座られて協力されては困る者の仕業だったと今になってわかる。


 光秀の真摯な態度や、正直さは好感が持てるし信頼されるに決まっている。恥をさらして主君のもとから逃げでしまった自分と光秀とは違う。一緒にされるのは面映ゆい。だが帰蝶は恥を忍び、信長と光秀のような関係を、正信につくれと言っているのだ。


「困った事があれば光秀か私に相談するとよいわ。家康殿の側に、私のようなおなごがいれば、なお良いわね」


 なんなら自分が側女としてでも行くと言い出しかねない。正信は次に何を言い出すやらわからない帰蝶の奔放さに充てられ、気を失うように眠った。公国から買われた才能など、この帰蝶の前では赤子のような扱いだ。本能寺の異変からまだ二日足らずでこの有様だった。


「姫⋯⋯あまり他国の臣をからかうものではないですよ」


「何を言われる。あなたこそ夫にいつもからかわれていたからと言って、正信殿にいらぬ重圧をかけるものではありませんよ」


「そういうつもりではないのだが、期待してしまうのは当然だ」


「糞真面目な光秀が、堅苦しく話せばそうなるのです。家康殿の前では腹踊りでも見せるつもりでいなさいな」


 信長に教えた真似をして、帰蝶は自分の額にまたペチッと平手で音を鳴らした。滅茶苦茶な事を言い出す帰蝶に光秀は呆れた。従妹の姫の言いたいことはわかっているつもりだ。疑心暗鬼に警戒を強めている相手に、緊張を強いるのは逆効果だ。信長や帰蝶はそのあたりの機微がよくわかっていた。


 光秀は、実直に策戦を遂行する能力には長けている自負はある。人も民もそうした姿勢を好みついて来てくれる。しかし⋯⋯そうした姿を理解してもらうには時間がかかるものだ。才能を求めて、今更ないものねだりをしても仕方がない。帰蝶を先に休ませ半目で仮眠を取りながら、光秀はこんな役割を押し付けて先に逝ってしまった信長の事を初めて恨んだのだった。


 ◇


 肝心の家康はというと近臣から早馬の報を集めて回り、織田家の用意した堺の寝所を脱していた。情報があてにならない中、自分の首が狙われているのを知ったからだ。織田家を刺激しないためと、信長在命中は安全だったために、ろくな人数も具足も武器もない。それならいっそ討ち死に覚悟で家臣達と都へ戻って、光秀の首を取ってみせると向かって来たのだ。もちろん真意は別だ。光秀を討つと口にすれば、味方が多いと読んだだけだった。


 宿の者から血気に逸った集団がやって来たと知らせをもらった光秀は、一瞬驚く。そして眠る帰蝶の顔がニヤついているのを見て、ふぅっとまたため息をついた。帰蝶の顔で来客の人物を察して騒がしい客室を訪れてみる。他の宿客などに威嚇も兼ねているのか、声の大きさに遠慮がない。こんな事態でも主を中心に変わらぬ一同の姿。光秀はそれが微笑ましく思えた。


「武田を凌ぐ大身になったというのに、相変わらず果敢なのだな家康殿」


 騒がしいのにも関わらず、来訪者への警戒はしっかりしていた。光秀が一人先にやって来て丸腰だったのを見て、男達はホッとした。そして目を丸くして、つい最近見たばかりの男の姿に驚く。


「────光秀殿!! 何故このような所に!?」


 家康達が驚くのも無理はない。謀反人を討たんとする織田勢と、外患を排除しようとする明智勢らしき軍に追い詰められて、彼らは突貫を決意した後なのだ。困難を突きつけた要因、謀反を起こした張本人が、街道の旅籠にいるなど誰が想像し得たことか。


 縁というものは不思議なもので、人と人を結びつける。光秀達が休んでいた宿に、馬を求めて家康達がやって来たのだ。光秀達も予想以上の出会いに驚きを隠せなかった。帰蝶が目を覚まし、荷物をまとめて正信とやって来た。うるさくて眠れなかったらしい。三条西家に縁ある場所とはいえ、帰蝶がどこまで算段して、この出会いを築いたのか⋯⋯あとで問い詰めるつもりだ。


「弥八郎⋯⋯戻って来てくれたのか」


 家康がもう一つ驚いたのは、袂を分かったかつての親友の姿がある事だった。正信は年老いて、仏頂面に涙をためて酷い顔だ。家康も自分の顔が正信のように、みっともなく鼻を垂らして、クシャクシャになっているだろうなと思った。


「積もる話は中でしましょうね。忠勝殿、人払いをよろしくお願い出来るかしら」


 機縁を当然のように受け止めて、帰蝶が感涙する主従に声をかけた。探す手間が省けて良かったと呟く。光秀はその嘘臭い呟きはひとまず聞かなかった事にした。忠勝は女人の言葉の意図を察して家康と目を合わせると、配下のものに警戒を促した。


「貴女様は、もしや⋯⋯」


 家康は帰蝶に気づき息を呑む。いるのがおかしい存在が二人も揃えば、信長がどうなったのかはっきりしたようなもの。放心している時間は互いになかった。


「家康殿、中へ。この旅籠は三条西家のものが使っているそうだ。それでも人目は互いに避けたいであろう」


 クスクス笑う帰蝶を睨みつけると、光秀は家康を伴って部屋の中へ入る。家臣達は警戒するものを残し、隣の部屋にゆく。光秀は襖を取り払い、家臣達が安心出来るように配慮した。ただ会談の邪魔をしないようにと本多忠勝らに任せて、各自交代で休息を取るように伝えた。


 部屋の中には、光秀と帰蝶、家康と正信と家康についてきた商人の茶屋四郎次郎が入った。隣との間の襖は光秀が蝶板を外し開け放たれていたので、会談の様子は家康の家臣達にも聞こえる。光秀にまったく敵意がないことがわかると、家康も家臣達も警戒心を弱めた。家康は光秀のそうした配慮に、昔から変わらぬ性根を見た。そして光秀の首を取る⋯⋯その言葉に隠した自身の本心の正しさと判断を喜んだ。


「⋯⋯なんと、全ては羽柴殿の差し金か」


 光秀の姿を見て、なんとなく察していた。家康自身も思い当たる節があるからだ。日の本の平定が終わったわけでもないのに戦勝祝など、信長らしくなかった。やるにしても、もっと派手に演出をしたがるはずだったからだ。天下が定まってからでは遅いのだ。光秀の言葉に、家康も納得した。


「乱を起こしたくないという光秀殿の思いは分かり申した。しかし光秀殿、帰蝶様。信長様ならいざ知らず、羽柴を相手に遠慮していては我が方の面目が立ちませぬ」


 何度か面会し、帰蝶の事を覚えていた家康は、懐かしむ気持ちを抑えて反論する。真偽を確かめるために、直前まで謀反人明智光秀を討つ気でいたのだ。帰蝶に策があるとはいえ光秀を討つというのならば、家康こそがその役目を果たしたかった。家康が明智勢になりすました軍へ近づけば、十中十返り討ちに合うのだが、家康はそれでもいいと思っていた。


「本当に似た者同士ね、光秀も家康殿も。討ちたいのなら好きになさい。ただし⋯⋯まずはその身の安全を確保し三河の地に戻ってからの話です」


 そんな悠長な時間がないのを承知で吐く帰蝶の言葉。気持ちは否定しないが、家臣達に現実を見させてくれた。家康は頷くしかない。気ばかり逸る姿の主君を説得した事で、家臣達が感謝の目を向けて来た。弔い合戦をするのなら、真の謀反人の首を挙げたい。この窮地から助かるかもしれないのなら、より強く反撃する手段を取るべきだった。


 光秀だけなら家康も話は聞かなかったかもしれない。のこのこと首を晒しに来てくれたようなものだ。親交深い家康に首を預け、羽柴勢の偽りを糾弾する事も出来ただろう。しかし家康は、帰蝶の言葉には逆らえなかった。この姫と呼ばれる女性の一言が、家康を何度となく破滅から救ってくれた事を信長自身から聞かされていたからだ。信長には恨みの一言くらい言ってやりたいが、光秀や帰蝶には今こうして駆けつけてくれただけでも誠意を感じる。


 家康は義理のある信長よりも、大恩ある今川につき、大敗した過去の戦を思い出した。いわば敵対した。田楽での敗戦で今川義元が討たれた後、信長は家康を赦した。表には伝えられていないが、帰蝶の口添えがあったという。彼女のいう事に間違いはないと、家康は信じていた。


「あら、あまり盲信されても困るわよ。秀吉の下風に立つという事は、家康殿はともかく家臣団も舐めてかかられるわけだから」


 今川時代──人質当人だった家康よりも、人質の家臣として、ついて来た者達の苦労は計り知れない。今川に蔑ろにされて見下されて、最前の戦線に立たされて来た家臣達のほうが辛い日々を送っていた。あまり思い出したくない者もいるだろう。その当時に近い苦労がまたやって来る。そうなると、家康自身よりも家臣達の抑えが効くのかどうかが鍵となりそうだ。


 家康が家臣たちに目をやると、先行きに不安を感じるものが多い。忠勝でさえ、秀吉や秀吉の家臣達から侮られる未来を想像して唸っていた。


「それをさせないために私がいる。名目上では討たれてやるが、信長様の首も私の首も手に出来なければ、秀吉の中にいつまでも疑心が残るからな」


 光秀の言葉通りだった。光秀が偽兵をあえて放置していたのは策略を巡らせている事に気付かせない理由もあるが、秀吉側にも明智勢に偽装した兵を解散出来ない理由は帰蝶の策の成果と、信長公の首級がまだ上がっていない為であった。


「それまで家康殿らしく戦いつつ、あなたたちは耐えられる? 不安なら⋯⋯秀吉との戦いは全力でやるといいわよ。羽柴軍には全力で戦えないように、私と光秀が手を回すから。その後は嫌でも顔に出さず秀吉に協力して、なるべく徳川方の戦力は温存するのよ」


 自分の夫を謀殺し、従兄に罪を被せ、主家の乗っ取りを図ろうとする男に協力しろという帰蝶。その心情を察すると、自分達の窮地など大した苦難でもなくなる。感じやすい家臣達もその気丈なる女ぶりに泣いた。彼女がどこまで見通しての考えなのか、実は光秀も知らない。家康は帰蝶が気が触れたと考えるやもしれない。


「しかし、帰蝶様を疑うわけではありませんが⋯⋯秀吉が自分に刃向かった我々を、そんな簡単に許すとは思えませぬが?」


 予想通りに家康は懸念を抱いていた。策のついでに始末しようとした危険な相手を、秀吉が生かすはずがない。


「信雄が動くから、大義名分に利用しなさい。あの子は利発なのに父親の真似をして馬鹿をやらかすのよ。うつけの思考は家康殿の良い堤になってくれるはずよ」


 織田の縁者の大半は殺されると帰蝶は見ていた。どうせ始末されるならば家康を生かすために使うしかない。家康を義理を重んじる武将として印象づけるのに、信長の子らには役に立ってもらうつもりだった。


 信雄は大うつけだから、うつけのフリが得意だ。信忠を立てるために、何度か泥を被りやらかしては信長に叱られている。信雄のうつけぶりを見てきた秀吉も、逆らったからとあえて首を刎ねる事はないだろうと読んでいた。しょせんは信長の庇護下のうつけ、そんな男に秀吉が興味なかっただけとも言える。


「ならばわしらに異存はござらぬ。来る時に備え力をつけるとしよう」


 家康が吠えた。信長がいた時は天下のことなど考えもしなかった。光秀の首を取れば天下人の機会は巡ってくるかもしれない。しかしそんな事をすれば乱世に逆戻りになる。南蛮人のきな臭い噂も耳にしている。悠長に覇を競う時間がそれほど残されているとも思えなかった。


「覚悟が決まったのね、家康殿。そうと決まればあなたは私と船で神武の東征の如く、信雄に会いに行きましょうね。お供は忠勝殿がいれば充分よ」


「────えっ? ちょっ⋯⋯お待ち下さい。我々は一緒ではないので?」

「殿と忠勝だけ? 危険過ぎだ」

「結局我々を排し、殿を討つつもりなのだ!」


 帰蝶の急な言葉に、正信始め、家康の家臣達が騒ぎ出した。帰蝶は全く動じることない。何故か童子をあやす母親のように、家臣達の頭を撫でて回り鎮まらせた。


「何のために正信殿を公国から貰い受けたと思っているの? このまま上洛し貴方と四郎次郎で伊賀者を説得して、皆で()()に伊賀越えをして帰ってらっしゃいな」


 わかりやすい理屈に、正信と四郎次郎が頷いた。伊賀路で護衛を増やし三河の帰路を強く訴えるほど、別の路をゆく家康が目立たず、潜みやすい。


「姫⋯⋯それは私が承服しかねる」


「光秀、あなたの死に様の方がよほど大変なのだから、そちらに注力なさいな。私の護衛は蘭と利治がつくわ。忠勝殿には家康殿を守るのに集中してもらうの」


「なるほど⋯⋯それならば」 


「それに、明智側の家臣の親類縁者を紛れ込ませるのに役に立つわよ」


 船で一気にという案は、光秀も家康も考えていなかった。瀬戸内海における制海権が、三好や毛利から織田家に移った現状がある。都合の良い事に、四国攻略のために集められた船が山程あるのだ。謀反騒ぎでしばらく使われる事がないのは確実で、客がいるのなら喜んで運んでくれるだろう。敗北前提の作戦であるのだから、戦えないものたちを逃がす必要もある。そのためにも伊賀越は必須なのだと皆が納得した。


 本多正信、茶屋四郎次郎は伊賀者を説得し、家康の帰路を確保することに尽力する。依頼料を弾み、家康ここにありとばかりの人数を集めた。それに対する世間の噂は辛辣だ。落ち延びる情けない姿を見せぬための虚仮威しだと揶揄した。明智勢に扮した羽柴の部隊が家康襲撃を試みたが、あっさりと返り討ちにされたという。守るべき対象がいないのだから、家臣団が派手に動き徳川の強さを喧伝したからだ。



 帰蝶と家康は進軍して来た織田信雄と協力し、明智側の家臣の保護を希望する縁者を率いて、無事に三河へ戻ることが出来たのだった。

 

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