第二話 天才軍師の置き土産
本能寺にて信長公が襲撃された報告は、瞬く間に都の人々に広がった。それもそのはず、早朝から都の空に鳴り響く大轟音に久しく見る事のなくなった兵達による喧騒。ただし初めはそれが謀反によるもの⋯⋯信長公の討たれた音だと、すぐに想像出来たものはいなかったと思われる。
何故なら四方八方敵だらけと言われた織田家────それは過去の話だからだ。実際、現在の都付近は周囲の外敵を排し安定していた。四国へ逃れた三好とは因縁を捨て同盟を結び直している。その三好が敵対していた長宗我部との戦いに向けて、軍も派兵されている。自力では何も出来ないくらい落ちぶれた三好と、力をつけた長宗我部とでは、どちらが天下を脅かすのか。それが基本的な対長宗我部への方針転換の理由だった。武田、上杉など都周辺の敵対勢力の影響力を片付けたのも大きい。
長宗我部元親に妹を嫁がせていた斎藤利三は猛反対したが、受け入れられなかった。信長が元親に四国の切り取り自由を許可したのは、織田家中として、元親が臣下に降るのが前提だった。長宗我部が四国を乱す事で、三好や本願寺の勢いが削がれたのはある。長宗我部側も、勢いのある織田家の影響力を借りつつ、自力で四国を統一に前進出来た。
両者の不幸は利害があまりにも一致し過ぎ、相対することがなかった事だろう。腹心とする利三の為に、光秀も長宗我部家に何度も使いを送ったが、関係が修復される事はなかった。 四国征伐のために、堺方面には丹羽長秀、織田信孝が軍を集めている最中である。信長殺害の共犯と思われるにせよ、長宗我部側が軍を動かすには流石に無理がある状態だった。
そのため本能寺への襲撃者として考えられたのは、波多野の残党や比叡山延暦寺の僧兵らになる。また雑賀衆など、足利義昭に焚き付けられての半ば嫌がらせの攻撃も考えられたくらいだ。すでに浅井、朝倉は消え、毛利元就も没した。武田が滅び、上杉謙信も亡くなった今、将軍家の軍事的な求心力は低下している。織田家に対抗しうる一大勢力を築くことの出来るものなど、外敵で名のある勢力は存在しない状態だと言えた。
本能寺から逃げ延びた帰蝶は、三条西家に身を寄せている。父──道三の代から縁のある家でもある。三条西家の血筋を遡ると、三条西実澄と正親町天皇は祖母が姉妹という関係だった。貴族や公家といっても家格というものがあり、三条西家は正確には大臣家になれる家柄である。
道三が懇意にしていた実枝は、二条流の歌道伝承者でもあった。父である三条西実枝が亡くなり、三条西家は公国が跡を継いでいる。継承当時、公国は幼すぎて継承を見送られた。そのため一子相伝の古今伝授の儀は弟子の細川藤孝が継承することになったわけだ。公国か、その子に再び藤孝が継承の儀を行う約束になっているのだった。
道三と実枝は身分の垣根を越えた仲だった。その縁は戦国乱世の中では珍しいくらい深い。斎藤家の重臣である稲葉良通の正室は実枝の娘であり、二人の間に生まれた娘は光秀の配下の利三の妻となっていた。藤孝と光秀が義昭を奉じ、帰蝶の夫である信長を頼ったのも、そうした縁がもとになっているとも言えるだろう。
武家と商家であった道三とゆかりの深い三条西家。だからこそ常に武家の情勢には敏感だ。織田家の勢力が強まっても、その姿勢は変わらない。古くは平氏が⋯⋯鎌倉から足利へ主権が移り、細川、大内、三好など天下に手をかけながら身を滅ぼすさまを見てきた。諸行無常とはよく言ったものだ。注視を怠ることなく観察を続けて来た⋯⋯その甲斐あってのことだろうか。三条西家ではすでに、本能寺近辺で起きた異常事態を知り、軍勢の旗頭から明智光秀の謀反と判断して対応を考えていた。
「────光秀の預かり知らぬ事です」
公国を前にして、帰蝶はキッパリと断言した。敵勢は時間をかけて用意周到に計画を練っていた。信長の正妻とはいえ、公国との身分違いに対しても臆することはない。常日頃と同じ、顔色一つ変えない帰蝶。その彼女の毅然とした物言いに、公国の方がかえって気をつかうくらいだ。べつに帰蝶が不遜なわけではない。父と道三が懇意であったように、帰蝶と公国の親しい間柄に遠慮は無用なだけだった。
「柴田殿との確執か? いや⋯⋯下へつけられた事かね」
公国は織田家中の怪しい人物を、集めた情報の中から特定している。はっきりと誰⋯⋯とはまだ言わない。しかし帰蝶の様子から真の謀反人の心情と、実行に至る背景を見事に読み当てていた。反りが合わないのもあるが、長年苛立ちを感じていたのは想像出来た。柴田の下へつけた、それはかつて叛逆を行ったものと同じ扱いに等しく思うかもしれない。
「⋯⋯勝家へつけられた事への不満は、単なるきっかけでしょうね。夫の直感が当たったとも刃を磨かせたとも言えるかしら」
「ふむ⋯⋯そうなると信長の動きを警戒する近衛家の入れ知恵や、蘭奢待の遺恨もあるのかね。尊き御方の上に立ち神たらんとするものは、己を差す光で足元が見えなくなるというのは本当なのだな」
公国の皮肉な言い方を帰蝶は黙って聞いている。露骨に悲しむよりも、抜かりを指摘し罵倒してやった方が、夫が喜ぶ事を知っているからだ。ただ貴族らしく回りくどくて、普通なら罵倒とわからないだろう。
「あぁそうだ、光秀には早馬をすでに出しておいたよ。帰蝶の言葉が事実なら、都をはじめ、方々が火の海になりかねないからね」
織田信長の天下により、ようやく都からは戦禍が遠ざかっていた。再建されたばかりの建物が、戦によって出来る煤や矢傷に、汚れ傷つく機会はなくなったばかりなのだ。
「光秀は私が説得します。汚名を着せられ生き恥を晒す事になりましょうが、己の天下など露にも思っておらぬ男ですから」
光秀が愚図々々しながら都に留まって羽柴と刃を交えて戦ってしまうと、堺や越前から丹羽や柴田の兵が殺到してしまう。そうなると三好以前の大乱の様相が起きる。織田家家中による覇権争いに突入し都が再び戦場になる恐れがあるのだ。もちろん仕掛けた側の羽柴勢は、そうはさせないために、光秀が比較的自由に動けるように手を打っている。天下簒奪にも手間がかかることを⋯⋯秀吉に限らず、織田家の人間は松永久秀から学んでいた。
「彼らは謀反人なれど協力者が協力者ですから⋯⋯都での戦闘をきっと避けます。手の込んだ見世物のようなもので、兵は犠牲になるのでしょう」
「⋯⋯裏切った敵をあえて信用するというのか。大胆な用兵術だね。君達父娘は相変わらず楽しいよ。藤孝らには私から情勢を見て、光秀の無実を助ける真似をしないように伝えておくよ」
帰蝶の話に、公国が笑う。時折御茶会に招かれ話をしていただけあって、公国は光秀とも親しげに話す。帰蝶の言うように、光秀という人間は知っているつもりだ。だから彼女の頼みも聞き入れて、光秀の縁者や家臣の縁者の保護も、引き受けた。それは合戦になることを公国が考えている証だともいえた。
「それと公国様。道をつけるために囲っている男を一人、徳川殿につけたいのですがよろしいでしょうか」
三条西家は道三の残した財産を元手に、使える人材を多数囲っている。虐げられたり、訳ありだったりする人々が保護されていたのだ。かつての知己、道三がそうだったように、囲った人間が役に立つこともある。そしてその中には三河の地で、一向一揆の際に出奔した本多正信もいた。各地を巡り彷徨う彼を、公国が拾い身を養っていたのだ。表向きは一向衆の参謀格だが、正信は宗徒の頭領たちの有様に憂いと嫌気を持っていた。旧主であり親友でもある男のもとへ戻り、役に立つのならば断りはしないはずだ。
「空駕籠とはいえ、お抱えの伊賀者や商人だけでは心許のうございますよ」
「なるほど⋯⋯敵ながら天晴な考えだね。たしかに織田殿の一番の盟友を放置するはずがないか。正信に伝えるのは、光秀からという事にしていいのかい?」
「構いません。もともと家康殿は光秀とは仲が良いですから」
簡単な理屈だが、信長の死という衝撃的な事象の直後に、考えつける視野ではない。公国は思わず身震いする。蝮の娘⋯⋯道三という後ろ盾がなくなり、織田家中のものは帰蝶を蔑ろにしていたが、忘れてよい存在ではなかった。天下簒奪をはかった連中もいずれその報いを、その身で受けることになりそうだ。公国は信長というわかりやすい象徴の大事さを今さらながら悟った。
すでに信長が討たれ⋯⋯事は成った後だ。帰蝶と公国は、光秀が来るまでに細かい取り決めを交わしておく。用意周到な敵はすでに練り上げた計画に従っていくだけ。用意された策を微修正を加えながら、淡々と実行してゆくだけだ。後手に回っている以上、帰蝶たちの陣営は敵の計画を予測してあえて乗り、布石を一つ一つひっくり返さざるを得ないのが現状だった。
謀反人の汚名を着せられたとしても、乱になるくらいなら、光秀はきっと現状を受け入れる。信長が亡きいまとなっては、帰蝶に面目ないとばかりに、ここで幕を引きかねないのだ。我が従兄ながら面倒臭い性分だと帰蝶は思った。そんな光秀の心情は分からなくもない。だが光秀には腹を切る前に、天下泰平のため、もう一仕事請け負ってもらわねばならなかった。
────青白い顔をした光秀が、三条西の屋敷までやって来た。光秀の宿所には、有力公家や商人達から事実の確認の使者がひっきりなしにやって来ていたためだ。本能寺を襲撃し、謀反を起こした本人がのうのうと宿所にいるのもおかしな話だが、水色桔梗の家紋は目立った。その対応中に帰蝶の使いがやって来たのだ。
何が起きているのか、光秀自身が一番知りたい所でもある。対応は家臣達に任せ光秀は馬に乗り、慌てて三条西家まで走らせた。
「────姫⋯⋯いや帰蝶様。信長様が討ち死に致したと言うのは真のことか!?」
ここがどこなのかも忘れて、帰蝶の顔を見るなり光秀が叫んだ。この堅物の男にしては珍しい狼狽えぶりだ。生きていたのなら、夫が一番ニヤニヤと楽しんだであろう光秀らしからぬ大慌てぶりに、帰蝶は夫のかわりに笑う。ほんの数刻前に最愛の夫が死んだとは思えない無邪気な笑いに、光秀の顔が引きつった。世の無常な事を知る、実に帰蝶らしいと光秀は嘆息した。
情報が倒錯する中⋯⋯光秀が慌てて飛び出して来た理由は、使いのものが蘭丸だったからというのもある。このような場所にいないはずの者。蘭丸はくたびれた顔を隠そうともせず、宿所にやって来て光秀を呼び出したのだ。信長お気に入りの側小姓が光秀の滞在する京屋敷まで来ること自体、当時の情勢からあり得ない話だった。
自分にかけられた謀反の噂や主君への嫌疑。丹波攻めの難航や、長宗我部攻めへ急な方針転換など────信長とうまくいっていない状況は確かにあった。しかし謀反を起こし都を灰燼に帰すくらいなら、直接掛け合ってぶん殴られるなり、ぶった斬るなりする。それが織田家中の⋯⋯信長のやり方だ。信長とはとくにそういう信頼関係があった。しかし次第に信長自身ではなく、織田家の方針が変わった。功労ある者への冷遇の原因は、跡継ぎ問題に頭を悩ませていたのでは⋯⋯光秀は単純にそう推測していた。信長でも帰蝶でもない、信長の家臣団あたりが。相撲を取らせて騒いでいたうつけの大将は、不惑を過ぎてもいたずら小僧のままなのだから。
光秀自身の不満は、すでに信長には直接告げていた。聞き入れられなかったからと大軍を差し向けて殺すくらいならば、無防備な話し合いの場で斬っているだろう。実際癇癪を起こそうと、信長はそんな馬鹿な真似をしないが。信長と話し合った結果、軍備が整うまでに交渉が成立したのならば不手際の全てを不問にする約束だった。だから次々とやってくる凶報と、謀反を起こした明智の家紋の入った旗印の理由がわからなかった。
「帰蝶様。この企みはもしや⋯⋯」
「さっき公国様とその話をしていた所よ。才覚ある知恵者が、最期の時を前に何を考えるのかについて⋯⋯ね」
「それは現在ではなく⋯⋯」
そもそもこの毛利侵攻────はじめから不審な点が多かった。それに秀吉から信長への援軍要請自体、光秀は端から反対していた。そもそもの違和感は、柴田勝家と喧嘩をして勝手に持ち場を放棄した秀吉の行動だ。勝家や利家などかつて信長と揉めた家臣達の所へ放り込まれ疑心に陥るような秀吉でもない。光秀は、帰蝶達よりも秀吉の器量を上に見積もってみていた。
なにより昔から秀吉と勝家が仲の悪い事を信長も知っている。だから勝家を北部方面軍の総大将に任命し、上杉攻略の命令を出していても、共に戦えとは言っていない。戦線に出て共闘するよりも、秀吉の兵站能力の高さを活かして戦線を支える役目で充分だからだ。秀吉に長浜を預けたことからも、信長が秀吉に求めた能力が伺い知る事が出来た。
その秀吉が期待を知りながら、敵前逃亡に等しい勝手な撤退を決行した。縛り首になってもおかしくない行いだ。他者の目には、慎重さに欠ける秀吉らしくない短慮な判断に見えた事だろう。
そして口の達者な秀吉は、自分から毛利侵攻を志願した。汚名を雪ぐと息巻いていたが、自分から役目を放棄したものが放つ言葉ではないと光秀は言いたかった。
腑に落ちない理由はまだある。援軍を求めるほど毛利に対して秀吉は苦戦していなかったからだ。武田の後に北条攻略へ挑んだ滝川とは違う。兵の数がまず違い、秀吉勢は多かった。堺衆や織田家から供与される豊富な資金を使って、米や味噌を買い漁り、敵対地域の食糧事情を操っていた。飢えてゆく敵を前に宴会を開く余裕すらある戦い。
それに梟雄毛利元就はすでに亡くなっていたのも大きいだろう。本願寺への救援戦では海賊大将九鬼水軍により、虎の子の水軍が破られている。現状⋯⋯毛利勢の士気もかなり低下している。毛利側からの内通者が後を絶たず、とても苦戦とは言い難い戦況だったのだ。
失敗すれば首が危うい状況で、秀吉という男が何度も失態を重ねるはずがない。そんな男が半ば賭けのように、越前から撤退した以上、狙いがあるに決まっていた。
光秀も腑に落ちないまま、毛利侵攻の兵を集めて送り出している。今回の襲撃の主犯と疑われている波多野攻めなども、明智勢は手伝いをさせられていた。攻略はなったが犠牲が大きくなったものだ。事がなったいま、あれも疑えば疑えた。
敵の根回しにより噂が真実として広まり、都に住まう人々が不安がるのも無理はない。警護の兵が間引かれて、治安が悪くなる心配をしていた直後にこの有り様なのだから。
「────落ち着くのだ、光秀」
静かに響く公国の声に、光秀は我に返った。案内された部屋には上座に三条西公国がいて、光秀の対面には帰蝶、下座には光秀の配下の斎藤利三も呼ばれていた。帰蝶を守って本願寺から脱して来た弥助や、使番をした蘭丸は湯浴みを促され別室にて休んでいるようだ。
「ふむ⋯⋯落ち着いたか。まずは茶でも飲め」
「忝ない。それと⋯⋯まずはよくぞご無事であられた、帰蝶様」
「姫でよいわ。⋯⋯もっとも姫という齢でもないから、恥ずかしいわね」
夫の信長を討たれ、天下を簒奪されようとしているというのに、先ほど光秀を見て楽しむ素振りを見た様子から⋯⋯帰蝶自身は昔と変わらない。似たもの夫婦というべきか、肝の座り方はまさに道三譲りと言える。相変わらず堅苦しいとばかりに、光秀の額を見て、自分の頭をペシペシと叩いてみせた。信長も光秀をからかう時にこの仕草をしていたものだ。発端は帰蝶なのは言うまでもない。
「秀吉らの策は、光秀を謀反人に仕立て上げてから、信長殿の仇討ちだね。跡継ぎたる信忠も、自害をしてしまったよ。いやこれは自害するように、誘導されたかな」
公国から状況を伝えられた光秀は眉間に皺をよせ項垂れる。信長の息子で現織田家の当主の信忠も、毛利攻めに参戦する前に景気づけにと饗宴へと呼ばれていた。信忠は近くの妙覚寺で宿泊していたのだ。本能寺の防備はまさに簡易の出城そのものだったが、いままで滅多に使われる事はなかった。秀吉側の周到さを思うに、信忠へも正確な情報が伝わってなかったのだと考えられた。
本来ならば隠し持つ、大量の鉄砲による火力で賊を抑えている間に、信忠の手勢が賊を囲うことになっていた。本来の防御機能も、敵の大軍とさらに増援が押し寄せる様子が伝えられて、信忠の側近たちも衆寡敵せずと判断したようだ。近年囁かれ続けていた流言と、水色桔梗紋の効果も大きい。
信忠は二条御所まで退き、本能寺の爆発の後に首を取られる前に自害したのだ。
「そうか⋯⋯羽柴秀吉という男も黒田官兵衛という男も知恵は回る。だが彼らの策謀は、大局を見て策謀を巡らせる類のものではない。おそらく亡き半兵衛が指図を残したのだろうな」
帰蝶と公国の言葉から、光秀は半兵衛の姿を思い浮かべた。羽柴秀吉という男は人たらしと言われているが、実際は人を信用していない。信用していないから人の行動を注視し、手玉に取れるのだろう。秀吉の策戦遂行能力は高く、織田家になくてはならない人材だった。竹中半兵衛重治は、そんな秀吉を抑制するために付けられた人物でもあったのだ。
「帰蝶よ⋯⋯信長殿も光秀も、盤上の駒と知らぬままに半兵衛めに乗せられたという事になるね」
「あれは真の天才なので、策のもたらす影響力までは考えてはいません。うつけも天才も人の及ばざるものとしては同じですから」
「つまり半兵衛はうつけでもあると言いたいわけか。何とも迷惑な男よ。だが末期の⋯⋯戯れに出したであろう策の流れに、信長殿が出し抜かれて討たれ、光秀も窮地に陥っているのは事実」
「はい。だから光秀には策に乗り、抵抗していただきます。死せる半兵衛にはもう、時流の動きを変える力はないですからね。まずはお味方に救援を要請して、光秀が織田家の跡を継いだ事を天下に知らしめましょう」
楽しそうに笑みをこぼす帰蝶と公国に、二人の話を聞いていた光秀の表情がみるみると青ざめた。
「ま、待て姫。私は天下取ろうなどと考えたことはない。恨みあって事に及んだとして、我が軍を叛逆の徒に仕立て討たれさせるなど了承出来ぬ。姫といえど戯れが過ぎます」
混乱する頭を整理しながら、光秀は公国と帰蝶に勝手に話を進められるのを慌てて止めた。ひとまず治まりかけた天下を乱したくない気持ちはわかる。だが⋯⋯策に乗った事で、叛逆の輩が無実の徒に汚名を被せて斬るのは見過ごせない。負けるとわかっている上に、汚名まで蒙るような戦いに生命を費やすなど馬鹿げていると思った。
「やれやれ、そうなるとわかっていたよ光秀。それで帰蝶よ、頑固者の光秀はこう言っておるがどうするのかね」
はじめから光秀の説得は帰蝶の役目と言っていた通りになった。頭ではわかっていても⋯⋯いつか真実を詳らかにし、名誉が回復されるかもしれない。そうだとしても正しきを罰して、悪しきを活かす命令を光秀は下せない。一向宗や本願寺の事も、切支丹や比叡山の事も、正しきをせず悪逆を尽くしていたから徹底的に叩けた。
「粗忽もの、少しは話を聞きなさいな。何も貴重な明智勢を、秀吉のために使う必要はないのですよ。ちょうど旗印から具足まで明智に成り代わった兵がいるではありませんか」
偽兵をそのまま光秀の軍として使え⋯⋯頭をペシペシしながら、そう帰蝶が告げた。策に乗り、策のままにそっくり敵の手勢を使え、そう帰蝶は言うのだ。
「利三に命じて、光秀の供回りと部隊頭は明智のもので固めるの。秀吉のために死を賭して挑む役目は、秀吉のため、生命をかけるために集められた秀吉側のものを使えばいいの」
「そんなややこしい理屈、簡単にまかり通るものなのか?」
「光秀の真の手勢が減っては大義を持って挑む戦いの場が整えられないわ。死んでくれるものが必要なのはあちら。裏切りものもあちらってことね」
知りすぎた兵達の処分をついでに考えている⋯⋯帰蝶はそう読んでいた。犠牲を最小限に抑えて光秀の心配は杞憂に終わらせる。光秀を説得も何もない。すでに帰蝶は公国に頼み手を回していた。そして信長を襲撃した一万の兵の身を確保していたのだ。帰蝶は己の従兄の面倒な性分を理解して、先手を打つように夫にもよく進言していたものだ。
信長や光秀や秀吉の性分を利用して手玉に取った亡き半兵衛も、真の主筋である帰蝶が己の策に乗っかることまで考えが及んでいなかったようだ。
「────わかった。羽柴秀吉の天下取り⋯⋯不本意ながら私も協力しよう。それで良いのだろう、姫」