第十四話 果たされた約束 ※ イラストあり
大阪城は異様な空気に包まれていた。南蛮人達、宣教師達による奴隷売買や、価値観の釣り合わない品々の売買による金銀の流出。そうした悪事の末に植民地支配が始まるとあって、伴天連追放令、切支丹禁止令による混乱の余波だ。棄教しない武将の解雇。それに関ヶ原以降、大きな戦もなくなり、浪人達があぶれていた。
行く宛のない彼らが目指したのは江戸ではなくて、大阪だった。所領は削られたとはいえ、秀吉時代に各地から集めた黄金がいまだに大量に眠っている、そんな噂を聞きつけて群がって来るのだ。
天下はすでに徳川の世。そんな中で今更豊臣方が戦を起こした所で、協力する大名などいない。有力な武将はみな他界し、代替わりするか、所領を失ったものばかりだ。油断ならない伊達や島津などの大藩は駆けつける間に戦が終わる。
戦いを起こした所で勝てないと分かっていても、大阪城に行けは飯が食える、そうしてあぶれ者達が集まって来てしまったのだ。
「お金をばら撒く事で人を集めた、秀吉の名残りね」
お江の使いとして、城内に案内された帰蝶は、浪人の溜まり場と化したかつての堅城の有様を見て呟いた。陰鬱さと、不衛生な臭いが立ち込める。これはたまらないだろうと、帰蝶は鼻をつまんだ。
「ようこそお越し下さいました」
秀頼と千姫に挨拶を済ませた帰蝶を、甲斐姫が出迎えてくれた。相変わらず勇ましく凛とした姿だ。すっかり人の多い奥にも慣れ、客である帰蝶のために、あれこれ指示を出していた。
淀の方との面会が許される。淀の方との対面の場には、数名の男女が付いていた。淀の方は歳は経たが、身体は健康そいに見える。一瞬目が合う。それだけで淀の方の現状が伝わった。驕慢な態度。何人もの浪人と対面させられうんざりした表情に見える。帰蝶の素性については淀の方と甲斐姫しか知らない。淀の方が態度をあえて変えないので、側仕えの者達も自然と態度が傲慢になる。帰蝶がお江の使者として来たことを、彼らはすっかり忘れているようだった。
「甲斐。二人だけで話したいの。皆をさがらせてくれる?」
感情を押し殺すように淀の方が告げると、側仕えのものが反対する。
「控えよというのが聞こえぬのか!!」
かつては戦場で、兵を鼓舞し敵と切り結んだ女武者である。淀の方の側仕えをしているが、甲斐姫は秀吉の側室でもある。普段は大人しくしていたが、必要な時は有象無象を大喝出来るだけの胆力を持っていた。淀の方も震えだしている。感情が見えず怒りをぶつけられてはかなわぬと、側仕えの者達は退散した。
甲斐姫は侍女からお茶と茶菓子を受け取り、室内への立ち入りを禁じ、自ら門衛の如く部屋の入り口を守る。誰にもこの対面を邪魔させたくなかった。たとえ城主であり息子である秀頼が来ても追い払っただろう。
「⋯⋯ぷっ、クスクスクス」
「⋯⋯ふっ、アハハハハハ」
甲斐姫に追い立てられ、きょとんとする側仕えの驚いた様のおかしさに耐えきれず、二人は笑い出した。
「茶々。わたし、あなたを心から尊敬するわ。あんな飾りたてただけの見栄っぱりの威張りんぼう、初めて見たわ」
「ふふっ、帰蝶様おかわりないのですね。三成を十に割ったような小者達が、一丁前に天下を語り、家康様を討つと毎日のように騒ぐ姿にうんざりしていたのですよ」
淀の方の経緯を知る者ならば、その凄まじい半生に敬服し、意見すら出来ないだろう。戦の事しか頭にない浪人達と、本物の戦の場を知らない連中が、豊臣家という大きな火薬庫に巣食っている。帰蝶が思っていた以上に酷い有様だった。自分だったら気が狂いそうだ。この姪っ娘は信長の一族だと改めて感心した。
「ただ⋯⋯もう限界ね?」
「はい。さすがに疲れました」
仇の秀吉がいる間は闘志を燃やす燃料に出来た。徳川の天下となった今は、ただ無為に過ごす日々が辛く感じた。
「あの能面みたいに無感情のお福が泣いたの。だからあなたが泣いてないか心配になって来たのよ」
「お福の事なしに、もっと早く来ても良かったのですよ」
我慢の限界を越えた淀の方は帰蝶に甘えながら、いじけた。気を許せる相手が甲斐姫しかいないのだから仕方ないのだろう。
「この様子だと、最後の戦は早まるわね。逃げ出せる内に逃げてもいいのよ」
「それは約束が違います。私は最後の一瞬まで憎い仇の、滅びてゆく様を見届けるのが役目ですから」
「強情ね。それとごめんね。でも最後くらいは、茶々⋯⋯あなたの好きにするといいわ」
想定していた滅び方よりも、あまり綺麗に終わる事は難しい様子だった。帰蝶は淀の方の気が済むまで頭を撫でると甲斐姫を呼ぶ。
「茶々と千姫とあなたと、あなたの子らを逃す手配はしておくわ。城と共に滅びたいのなら、天守にでも詰めていなさい」
広大な大阪城も、改良された国崩しなどの新しい武器に砲撃されてはたまらないだろう。豊臣方が蜂起すれば全国から討伐軍がやって来る。仕掛けた側に初戦の優位があるだけで、豊臣に味方する軍が現れる事はない。秀忠を廃して将軍の座を奪おうとする画策も、首謀者達が軒並み捕らえられ頓挫した。
「盛大に散る姿を見られないのが残念ね」
大阪を後にした帰蝶は、久しぶりに三条西家へ立ち寄り、三条西実条と、織田信雄と対話を楽しむ。
「どういう事ですか、母上」
「どうもこうも、わたしだって死ぬってことよ」
「はぁ? その若さでですか」
「見た目は若かろうと、結構生きたわよ、わたし。言わせないでよ」
死期を悟ったのか、帰蝶の見た目があまりにも変わらないので、信雄は困惑した。
「王朝の復興はどうされるのですか」
「竹千代が、三代将軍となる事で、ひとつの形になるわ。お江の娘も入内が内密に決まったわ」
「陣地の取り合いならぬ、血の注ぎ合いですか。蝶は蜜を吸うだけではないのですね」
「あらあら、大人になったわね信雄も。この国はね、そうやって共生して上手くやって来たのよ。日高のことも富士の事も、お梶がうまく紡いでくれる」
豊臣家の滅びは、淀の方のための付属のような扱いだ。信雄は帰蝶の変わらぬ姿勢にため息をもらす。軽口を叩いているけれど、母と呼ぶ目の前の女性の年齢がいくつなのかわからなかった。
何より明智の姫とは、かつて滅ぼされた日高王朝の生き残りで、その大もとは富士を中心とした旧大和連合になる。歴史を紐解けばわかる事実も、秀吉が行ったように時の権力者が事実を歪め、自分に都合良い事ばかり残し改竄してゆくなかで忘れられていた。
思えば父、信長も自分も舞が得意だった。どこかにその血脈が流れていてもおかしくない。そうやって信雄自身も子孫に蝶のように花のように舞いながら互いに生き続けるのだろう。
「なにを泣いているの信雄」
その母と今生の別れとなるとわかって、信雄は泣いた。たまらなくなった。人の死などいくつも見て来たというに。幾人もの人を手にかけて来たというのに、この母との別れだけは訪れる事はないと、勝手に信じたがっていた。
「氏郷や光秀が密かに逝っても涙一つ零さなかったくせに。甘ったれた性分はもう治らないわね」
悲しむ事を嫌がるように帰蝶は信雄の頭を優しく撫でた。尾張の大うつけの息子は、この厳しい乱世を飄々と生き抜く達人だった。そして彼自身もどうしようもない想いが募る。信雄は血の繋がっていない母⋯⋯帰蝶の事が好きだった。誰もが彼女に褒められたがる。だから厳しい事を言われても、頑張って克服したくなる。
本能寺の戦いで放たれた蝶は、役目を終えて天へと帰っていった。美濃の地には明智の郷の他にも帰蝶の出自を示すかのような蝶ヶ岳と呼ぶ山がある。日高の巫女姫は、いくつもあった大和古代王朝の一つ。また光秀と関わりの深い丹波の地は、古代王朝出雲と繋がりがある。帰蝶が帰蝶の名を名乗ったのは、王朝に帰る‥‥そんな言葉遊びを含ませていたのかもしれない。
徳川家康の果たした約束は、奪われた天下を正しき者に戻す事だった。それは織田家ではない。何度となく窮地を救ってくれた明智光秀こそ、天下人にふさわしい。家康のその思いは変わらない。事実は光秀を謀反人として終わらせてしまったが、家康の命令で、その名は各地に刻ませた。いつか徳川の世も滅びを迎えることだろう。後の時代に歴史が正しく明智光秀の功績を讃えてくれる事を願って。
────信雄に見守られながら、帰蝶は眠るように天へ召されたはずだった。
「盧生の夢‥‥邯鄲の夢だったかしら」
凄く楽しい夢を見た気がした。家康の天下は夢の中の幻で、本当はまだ本能寺の戦いすら起きてない、ひと時の平穏の中なのかもしれない。
「驚かせないで下さいよ、母上。あなたを頼りとする人々がまだいるのですよ。だから⋯⋯勝手に死なないで下さい」
眠りから覚めても息子が見守っている⋯⋯良い気分だと帰蝶は思った。ふてぶてしい信雄を二度も泣かせた涙が、夢ではなく現実だと教えてくれた。
「せめてむさい連中に囲まれて難儀している茶々を、大阪城から救い出してから死んで下さいよ」
「なによ、信雄のくせに生意気ね」
帰蝶は、泣きながら生意気な事を口にする信雄のおでこに指を当てた。
「わたしのもとにも舞い降りるのね」
日高の巫女の力は、自分自身にも及ぶらしい。今までは自分で見る事が出来なかったので少し驚く。きっとここからは蝶の見た夢のように、あり得ない未来を紡ぐ事が起きるのかもしれない。予見出来ない将来がこんなにも不安なのに楽しいなんて言ったら、また信雄に呆れられそうだ。あぁ、そうだ、約束を果たす為に頑張った家康も褒めてあげないとね⋯⋯。
──────帰らぬ蝶の物語、これにて終わり。
※ 帰蝶イメージイラスト
お読みいただきありがとうございました。
※ 2025年10月28日、帰蝶のイメージイラストを追加掲載しました。




