第十三話 竹千代問題
関ヶ原において、反徳川連合軍ともいえる敵軍を破り、家康は豊臣秀頼の後見人としての座を完全に掌握した。まだ天下を手にしたわけではない。しかし、幼い秀頼に代わり全国へ号令出来る立場を得たのは間違いない。主家の豊臣家を残しつつ、家康は政権の基盤を西から東へと移してゆく。
絶対的な実力を持つ君主の登場は、乱世において必要な武威を示すのに適する。秀吉と違い、家康は慎重に実権を握ってゆく。征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開き、日の本の主権は完全に徳川へと移る。大阪城に詰める多くの豊臣家の臣達は歯噛みして悔しがる。
西軍に加担したものの大半が所領を没収されたり、減封されたりで勢力を弱めていた。新しい世の中を築くために、適切な領土替えを差配したのは本多正信だ。功績のあったものには惜しみなく所領の加増しつつも、そこには明確な棲み分けが施されていた。
征夷大将軍に任命されてから二年後、家康は息子の秀忠に将軍の座を譲る。権力の座を子息に譲る事は、主権を豊臣秀頼へ戻す気のない宣言でもある。淀の方から形ばかりの抗議が届くが、武力に訴えるような事はなかった。家康が駿府に移り大御所政治を行い万全の体制を築いてゆく事で、徳川の未来は安泰になると誰もが思った。
「大御所様。江戸からお福が参っておりますが、いかがなさいますか」
寝所で休んでいた家康の耳に、側室のお梶の方から、声がかかった。普段ならば、こんな夜更けに聞く名前ではない。お福とは、明智光秀の家臣、齋藤利三の娘だ。本能寺の戦いの後、三条西家に預けられ、帰蝶や公国による英才教育を受けた娘だ。淀の方には成田甲斐姫がついたため、お福は淀の方の妹のお江につけられた経緯がある。秀忠とお江が婚姻した後も、かつての縁で江戸に招かれお江に仕えた。嫡子、竹千代の乳母まで任されたお福が、単身駿府までやって来るなどただ事ではなかった。
「構わぬ、通せ」
お福に関しては、身分云々で会わぬなど礼儀を気にする仲ではない。頼りない秀忠をお江と共に支え、家康の側室阿茶達に代わり、徳川家を切り盛りしてくれる気丈な女だ。お梶に連れられてやって来たのは目を血走らせ、今にも死にそうなくらい青い顔色をしたお福だった。
「何があった。話せ」
家康は控えていた側仕えの侍女に、白湯を運んで来るように目配せする。冷静で感情の薄い才女、それがお福の印象だったが、今の彼女は髪を乱し何かに怯えている。
「た、竹千代さまの病が治まらないのです。段々と症状が悪うなるばかりで、このままでは生命も⋯⋯」
跡継ぎについて、秀忠とお江とで見解が分かれ揉めた話を聞いた事がある。竹千代は徳川の、家康に良く似た子であり、お江の密通やお福の腹の子だと、あらぬ噂が立っていた。跡継ぎ問題の要因となった弟の国松は、お江似の美しい子だった。お江はかつて秀吉が跡目を継がせる予定だった秀次にした仕打ちを良く覚えていて、跡継ぎ問題には敏感だった。世継ぎ問題の失敗で、落ちぶれてしまった豊臣家を見れば、道理を無視してまで跡継ぎを選ぶのは許されないと考えていたのだ。
秀忠は逆に国松を選びたがった。三男の自分が、将軍となれたのも厳しい父家康が決めたため。傀儡にするのならば、才能のある次男結城秀康よりも秀忠の方が扱いやすい。秀忠としては見た目も悪く才能に不安のある竹千代よりも、有能で自分になつく国松を選ぶべきだと主張したのだ。情もあるが、秀忠なりに筋は通っていると思っているのがわかった。
「秀忠のうつけめ。あれの意を汲んで毒でも盛られたのではあるまいな」
「申し訳ありせん。奥の体制が不十分でした」
「状況はわかった。だが、何故そなた一人駿府まで来たのだ」
毒にしても病にしても、竹千代が生き残れる確率は極めて低い。手を尽くして駄目ならば諦めもつくだろう。お福が一人必死になろうと、幕閣はそう決めて動く。お福もそれがわかっての行動なのだろうが、跡継ぎの事も、病状の事も、大御所だろうと何もしてやれない。
「お福は帰蝶様に会いたいのだと思います」
お梶の方がお福の様子を見て、彼女の秘術に縋りに来たのだと察した。帰蝶は家康の好意で駿府城に邸を持っていた。
「お忘れですか? ご高齢の光秀様や、大御所様自身まで、あの方が力を授けた方は生命の灯火が長く灯る」
三条西公国のように短命のものもいるので、帰蝶にそんな力があるのか怪しいものだが、お福は帰蝶を敬愛していたため、信じきっているように見えた。
「帰蝶様に告げる前に、跡継ぎに関して大御所様もはっきりすべき事があります」
お梶にじっと睨まれ、大御所たる家康とお福が震えた。聡明な彼女の目には、噂の立つ理由や、お福がここまで必死な理由がわかるのかもしれない。
「全て話さずとも、帰蝶様なら察するでしょうね。呼びに参ります。その間にお福、身を清めてらっしゃい」
慢心とは言わないが、お江はお江で淀の方とは違った何かを胸に秘めていたのかもしれない。
「こんな夜更けに何があったの。こうみえて、わたし結構歳だから辛いのよ?」
こう見えて、と念押ししたのは見た目がお梶よりも若く見えるからだろう。肌の張りや艶は若者ほどではないが、帰蝶の姿は殆ど変わっていなかった。家康の侍女達に手伝ってもらい身ぎれいになったお福は一度は平伏するも、堪えきれず帰蝶にしがみついた。
「家康殿。放ったらかしは良くないわね」
「はっ⋯⋯」
「お梶、あなたの見立て通りよ。阿茶に知られていれば、きっと処分されたわね」
家康や秀忠の女房衆を取り仕切る仕事は本来ならば阿茶が行う。ただいまは家康に代わり、対外的な仕事を任されているので忙しい。実際の奥の仕切りは、二代将軍秀忠の正室であるお江とお福が行っていたので、二人だけの秘密はいくらでも隠し通せるだろう。バツの悪そうや家康とお梶の方の静かな怒りを見れば、帰蝶でなくても何があったのかわかるというものだ。お江の生んだ男子は早くに亡くなったのか、初めから存在してなかった可能性はある。お江の血に、盟友だった織田の血が流れていなければ騒がれる事もなかった。織田、そして豊臣に縁があるとそれだけで難癖をつけたがるものはいまだに多かった為だ。
家康を見る限り、お福に手をつけた可能性は高いが、懐妊した事は知らされてなかったのだろう。理由は何であれ、お江が自分の子として認めたのならば、秀忠の子供でもあり、世継ぎとして育てねばならない。
「深く追及しても出来ちゃったものを、お江が認めたのなら仕方ないわね。竹千代の病は、家康殿が噂を盾に巫山戯てみれば治るわよ」
面倒そうに帰蝶は告げた。毒の可能性がないのなら、竹千代自身の心の問題なのではないかと感じたのだ。城内の噂は竹千代の耳に嫌でも入るのだろう。優しい子だから、自分が生まれた事で、母や乳母が貶められ傷つけられるのが悲しいのかもしれない。
「お福。お梶がいるのに、わたしに頼っては駄目よ。それに今度はあなたが竹千代の心の支えになるのよ。泣き言を言いたくなったのなら、お梶に吐き出しなさいな」
「帰蝶様、酷いです。それなら私は誰に頼れば良いのですか」
「お梶は頼るより甘えなさい。そうね、子供達の養育をあなたがすると気が紛れるでしょう」
改めて役割分担をした。お福がそれでも心配するので、結局皆で江戸へ向かう事になる。
「江戸の後は大阪‥‥それで最後ね」
お福がこの有様では、ねねはともかく、淀の方の心も揺らいでいそうだった。家康は約束を守ってみせた。秀忠は渋ったが、秀頼に娘の千姫を嫁がせて、大乱を十年抑えてみせた。滅ぼさねばならない相手に大切な孫娘まで差し出した家康が、豊臣家を潰す気でいるなどと誰も思わなくなった。律儀で公平な家康の振る舞いは世に語り継がれる。
淀の方が最後まで暴発しなければ⋯⋯。
徳川の世継ぎ問題は江戸に上京した大御所の「竹千代をいらぬというのなら、儂がもらうぞ」 剽げたその一言で、解決した。家康が認めた子なのだから、病弱だろうと関係なかった。帰蝶が与えた薬によって竹千代の体調も目に見えて良くなった。お福の異様な信心深さや、竹千代の家康を父と崇める強い憧れはこの時に生まれた。大御所に付いて上京するたびにお福に縋りつかれて、お梶の方だけが少しうんざりしていた。




