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帰らぬ蝶と、果たされた約束 (完結済)  作者: モモル24号


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第十二話 坂東の姫と光秀の娘


 江戸に着陣した徳川家康率いる上杉討伐軍は、大阪城で毛利輝元が挙兵したという情報を耳にする。逆臣徳川家康を討つために、すでに十万近い兵が集まっているという。大阪城には上杉討伐軍に加わった諸将達の妻子が住んでおり、刃向かえば人質とされる危険な状況にあった。上杉討伐に向かう前に開かれた軍議の場では、当然ながらどちらへ進軍すべきか、または解散すべきか話合いとなる。

 

「おかしいではないか。叛逆も何も逆臣は上杉家。徳川殿は上杉討伐を秀頼様直々に命じられたのだぞ」


「左様。我らもそのために兵を集め、こうして遠征軍に加わったのだ」


「三成めが裏で躍動しているという噂は真であったか」


 諸将は激昂しているものの、頭は冷静に算段を働かせている。秀吉亡き後、家康が積極的に動いているのは周知の事実だからだ。秀頼が幼いために起きた政権争いであるため、家康の配下はともかく豊臣恩顧の将達は、上杉討伐を回避出来る可能性が出てホッとしていた。上杉からしてみれば言いがかりに近い。もっともこうなってみると、言いがかりを向けさせて家康を釣りだした疑いがあるので、全軍で叩かれても文句は言えなかった。


 紛糾する軍議の中で、家康はずっと押し黙ったままだった。こうなる事の予見はしていた。いや、そうなるように誘導していたのは家康の側だった。家康の予定では、上杉勢に背後を突かれぬように後詰めを残し撤退するつもりだった。その際、秀頼から与えられた書状を読み上げ、自らの正当性と大義名分を掲げ、大阪城の秀頼のもとへ帰還する。秀頼への害意など微塵もなく、むしろ自分の留守に幼い秀頼様を誑かし、政権を奪おうとする輩を逆に征伐してくれん⋯⋯そう熱く芝居を打つ気でいた。


 すでに福島正則、黒田長政、細川忠興など勇将達には意見合わせを行っている。政権を奪うつもりならば、わざわざ三成を助けもしないし、大阪城の西の丸へ入った時点で自軍の兵を入れて制圧すれば済む話だった。何より秀吉の正室だったねねや、秀頼の生母の淀の方からも争い事を諌め、天下泰平に向けて手伝いをするよう懇願されていた。長年織田信長の盟友を務めた男なのだ、実力をつけたとはいえ、秀吉の恩恵あっての小僧達が文句を言える胆力はなかった。


「なのに⋯⋯何故ここにいるのですかな、帰蝶様」


 三条西家や信雄の邸宅で悠々と暮らしているはずの帰蝶が、家康の愛妾となったお梶の方と戯れていた。


「光秀の見舞いのついでよ。それとねねと、誾千代から手紙預かって来たわ」


「ねね様はわかるが‥‥誾千代とは立花の?」


「夫を説得しきれず申し訳ないっていう詫び状よ。大局は動かないにしても、厄介なのよね、あの男は」


 大阪に集結する対徳川連合軍を実際指揮するのは石田三成、大谷吉継らが中心となる。毛利輝元は飾りだ。秀頼を守るためにと、淀の方が必死で出陣を止める事になっている。


「なるほど。あの男を扱う三成の度量次第では、必勝の策も崩れかねませんな」


 どういうつもりかわからないが、三成の側には戦上手の島勝猛、大谷吉継がいる。立花宗茂(注1)まで加わっては、上洛すら危うくなる。


「もうひとつ悪い知らせがあるわ」


 悪い知らせと言いつつも、何故か帰蝶は楽しそうに見えた。予想外の出来事も、この少女のような姿の巫女姫には予見出来てしまうのだろう。


「真田の親父がまた立ちはだかる腹づもりよ」


 嫌な知らせの中でも最悪の知らせだ。先に知れただけ良いのか、家康は苦笑いで口元を引きつらせた。大軍を進めるには進軍経路を分散させるのが効率的である。あちらの狙いは上杉、真田などを使い、戦力の分断と時間を稼ぐ目的だ。上洛する戦力の集結を遅らせる間に、都周辺の徳川方の城を落とし、先行部隊を個別に叩いてしまえば勝てると考えたのだろう。


「真田は稲姫を息子と結ばせたことで、遺恨は手打ちになったと思うたが⋯⋯」


「掲げる旗は同じだもの。不安要素の多い徳川家よりも、将来性を毛利方へ見るものが出て当然ね」


 信長、秀吉時代に生きた英傑達は皆黄泉路へと旅立った。伊達や黒田など、まだ虎視眈々と天下を睥睨する男達はいたにしても、所領は都より遠き地にある。何より彼らと家康とでは格が違うのだ。帰蝶や光秀といると、家康はつい自分も我武者羅な一武将に戻りがちだが、人々は生ける伝説の人物の動向に畏れ注視せざるを得ない。


「強がっているけれど、秀吉子飼いだった彼らも怖いのよ。だから弱気は禁物。阿茶やお梶を見習いなさいな」


 光秀に代わり、彼の着ていた法衣に身を包む利治を見て、女達は持て囃す。老いた光秀のかわりに、利治が家康の補佐につく事になったようだ。頭巾を被り、口を布で隠せば体格も目つきも光秀に見えなくはない。本能寺の戦いの後、死んだはずの二人が、一人の僧として入れ替わるのもおかしな話だと笑いあっているようだ。


「帰蝶様には敵いませぬな。儂に資格がないだけかもしれぬのに、奮い立たせに来て下さったわけか」


「長い付き合いだもの。それに家康殿に尻込みされては、ねねや淀の方の努力が水の泡になるわ」


「殿。だから言ったではありませんか。帰蝶様を信じて進めば道は開けると」


 家康の周りで、一人若い小娘のお梶がフフンと笑う。家康の居城となった江戸城は彼女の祖、太田道灌が開いた地だ。水利に恵まれ、良質な塩田を持ち、北条家に吸収されてからは、坂東武者達の姫のように扱われていた。氏政が帰蝶に託した後は、利三の娘らと共に英才教育を施し、家康の家臣に一度預けられた。いま家康の陣に連れられているのも、家康の愛妾としてより、気の荒い坂東武者の士気を高める役割が大きかった。


「儂も若き頃は怖いもの知らずじゃったが、若さとは無謀と紙一重なのだな」


 家康がぼやくと、お梶は帰蝶に抱きつきながら、にやりと笑う。


「私に勝利と結びつけて、お梶(お勝ち)と名付けておいて、何を洒落臭い事を仰るやら。ねえ、帰蝶様」


 お梶は、辛気臭い会話より、憧れの帰蝶が来てくれて楽しくて仕方ない様子だった。さすがに阿茶が呆れていたが、彼女も少し羨ましそうに帰蝶とお梶を見ていた。


 家康は悩んでいたのが馬鹿らしくなった。帰蝶が勝利を運びに訪れた以上、負けはない。帰蝶がねねや淀の方から預かった手紙を、豊臣方の将達も受け取り覚悟が決まった。特に明智光秀の娘の玉を妻としていた細川忠興などは、手紙に添えられていた妻の辞世の句を見て激昂した。


 織田、豊臣政権の中で、細川家の存在は欠かせない。現当主である忠興を翻意させようと、石田三成が大阪武家屋敷の細川邸を襲撃したのだ。この人質強硬策は細川忠興の妻の死により失敗に終わる。光秀の娘である玉が卑劣な策に応じるはずがなく、苛烈に抵抗した後、屋敷に火を放って亡くなったのだ。


 忠興も妻の覚悟を何度も聞いていたし、自らも厳命していた。しかし、いざその時となって女子がそのような手段を取るなどありえないだろうと思っていたのだ。忠興は同輩達に妻の辞世の句を見せて回った。そして家康に軍議の再開を求めて、秀頼を傀儡とし、豊臣家を掻き乱す奸賊石田三成を討つべし、そう声をあげた。


 見舞いと言いながら、帰蝶が江戸まで来た理由も、光秀の娘の事を伝えるためだった。江戸城にある光秀の居室。その寝所で横になる光秀にも、娘の辞世の句は伝えられた。


『ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ』


 花は散るべき時を知っているからこそ、花。人もまた散るべき時に散る。解釈はいかようにも取れるが、光秀の娘らしい、人生観が詰まっているように思えた。病床の光秀は、娘の散り際に「見事なり」 ただそう呟く。自分が父親だった時よりも、武家の妻として過ごした年月の方が長い。父より先に逝く、その覚悟と生き様を悲しむよりも、信念に身を投じた姿に天晴と褒めてやりたかった。


「姫、私も娘の所へ行きます。後の事、頼みます」


「姫って年齢ではないと、いつまで言わせるつもりよ。後の事なんか気にしないでゆっくり眠りなさい」


 帰蝶がそう告げると光秀が目を閉じ深く寝入る。


「頑張ったわね、光秀。ゆっくりお休みなさいな」


 光秀の皺の刻まれた額にそっと手をやる。徳川家が急速に勢力を伸ばせた背景には、光秀の陰ながらの支援が大きい。もちろん中心にいるのは帰蝶だ。しかし今川、武田、北条などの旧臣達を徳川家に引き込んで、徳川に尽力していたのは光秀だ。バラバラだった家臣団にまとまりが出来たのも、光秀の功績は計り知れない。



「帰蝶様、儂らは出陣致しますぞ」


 家康も再び覚悟を決めたようだ。お梶の強気な明るさに力を得たようだ。上杉への抑え、真田への迎撃。石田三成らの策略通り、徳川勢の兵力は備えに減らされた。しかし歩みは止めない。


 家康のもとには、続々と徳川に好のある勢力の敗戦が伝わる。秀吉が亡くなって二年、世の中は再び切り取り自由な戦国乱世に戻るかに見えた。いつしか徳川方を東軍、豊臣方を西軍と分けて呼び、互いの陣営を攻撃しあっていた。


 徳川の進軍の速さに、西軍は慌てた様子が見てわかる。徳川方は家康の子、秀忠率いる軍が中山道を進んでいるが、真田親子の足止めに遭い合流が遅れている。西軍も近隣の城を落とし、徳川を包囲の網に捉える予定が、予想より早い着陣に予定が狂った。


「源平合戦もこんな感じだったのかしら」


 久しぶりの美濃の国へ着陣しても帰蝶の態度は変わらない。陣備えを見る限りでは徳川の劣勢。家康の本陣は帰蝶と阿茶やお梶がいるのもあって、緊迫感に欠けていた。


 戦力では劣っていても、野戦に持ち込めた時点で勝ちに等しい。もっともこの関ヶ原を抜けると、後続に大軍が控える徳川勢が有利に動ける。壬申の乱、承久の乱といった戦いも、この地で起きた理由は地形的に各街道が集結しやすいためだ。また各陣地が小高い山にあるため、待ち構える側が有利な陣立てをしやすい。対峙した兵力を見た時、誰もが西軍の勝利を疑わないだろう。


 しかし、それはまともな戦力であっての話だ。家康を警戒し、ついには各地の武将を巻き込み大軍を集めた石田や大谷が準備にかけた時間は、いかほどのものか。早くとも秀吉の容態が悪く成り始めた頃だろう。まだ外征による混乱もあって、不測の事態に備えるどころではなかった。


 徳川家はというと、この日のために備えたのは本能寺の戦いにまで遡る。準備にかけた年数が違う。天下を簒奪した真の謀反人を討つために辛抱を重ねた時間が違うのだ。


「天下を簒奪せし者共に天誅を下す時が来た。恐れるな。我々には日の御子の加護がついておるのだ!」


 東から西へと攻め入る、多くの将兵はそう受け止めた。しかし真実を知る者たちは。それが合言葉として響いた。徳川軍を包囲する敵陣は見事に袋の鼠を捕らえていた。しかし、会戦まもなく異変を感じる。戦場にあるいくつかの部隊が微動だにしないのだ。いや動いていても積極性に乏しい。はじめは勝ち馬に乗り、労力を極力減らして美味しい目をみようとするしたたかな算段をしていたように考えられた。激戦の中心にいる石田、大谷両勢が援護を乞うも、様子を見るばかりだった。


 決定的なのは背後をつける南宮山の吉川広家の陣や、桃配山に陣立てする家康の横合いを突ける小早川秀秋の陣の動きがないことだ。秀秋に関しては、ねねが可愛がっていた将の一人であり、配下についている稲葉正成は帰蝶がつけた将だ。清正からもねねのために働くように依頼もあったようだ。西軍として軍を率いて来たのではなく、初めから徳川方として参陣したのだ。吉川広家が動かないのは、勝敗の趨勢は徳川に傾いたと判断したに過ぎない。


 秀頼の恩為という名分もあり、関ヶ原における戦いは、あっけなく徳川方の勝利で終わったのだった。


 

注1 立花宗茂は名前がこの頃良く変わるため、宗茂で統一。

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