第一話 本能寺の別れ
天正10年。織田家により長らく続いた戦乱の世が終わり、日の本の国は泰平の世を迎えるかと思われた。
しかし天に現れた度々起こる異常な様相に、人々は苦難の続く事を感じ取っていた。
そしてその時は訪れた。京の都で日食が起きたのだ。あらかじめ予期されていたとはいえ、迷信に惑う人々の方が圧倒的に多い世。転機を伺うものたちが、この日を待っていたのは決して偶然ではなかった。
静かに偲び寄る兵達の足音。虫の鳴く声が随分前から止む。せまる兵の数が、一人二人ではないとわかる。大人数が夜闇の中を歩こうものならば、草木の枝や葉を踏む。静かに歩もうとしても無駄だ。それでも粛々と進むのには理由があるのだろう。このような時刻に行軍するなど怪しまぬ者は夜番失格というもの。
即ち門番達は篝火に薪を足し灯りを強める。門衛を任された織田の番兵達は、気の短い主人に仕えて来ただけあって手慣れた様子だ。一人境内へと使いを走らせて上役まで確認に走らせる。、一人は門扉を固く閉ざし、一人は近づく部隊へ誰何にゆく。
いまこの本能寺境内には、織田家の当主が茶会を終えそのまま御寝所として休んでいた。招待された客人達の大半は帰路についており、境内は静まりかえっている。寝所を守る兵は百数十名程。その内三十名程が寝ずの番についていた。
「そこのもの、何奴。止まれ」
近づく兵は徒士のものが多い。誰何にやって来た番兵の声に素直に従う。兵を率いる頭なのだろう、その背に括り付けられた旗は、手に持つ松明の微かな灯りのもとでも間違いようのない紋が記されていた。
「波多野の残党共が動く噂を聞き、主の命にて退治に参ったのだ。大殿様の眠りを妨げたくはないのでな。斯様なように、雑兵共の口は塞いでおるのだ」
門兵達も、かの御仁の細やかな気遣いにかけて、丁寧過ぎる話は聞いていた。あまりにも堅苦し過ぎて、笑い話にされていたものだが、なるほど‥‥こうして実際に対峙してみると流石は明智様と感心してしまった。
────旗印に浮かぶのは水色桔梗の紋。心配症の彼が、毛利攻めを前にして主の身辺に最大の警戒を払う……何もおかしくは感じなかった。
「それにしても随分な念の入れようで‥‥」
明るみ始めた夜空のもと、本能寺を囲う兵の数の多さに、番兵は息を呑んだ。波多野の残党が信長様や明智様を恨む理由は聞いている。しかし毛利侵攻が本格化し、四国への派兵も決まる織田家の大軍が行き交う中で、残党が暴れる余地がないのが現状だった。
頭に“糞”が付くほど真面目な明智様が、数千‥‥いや万を超える部隊を残党狩りに繰り出すのは慎重ではなく臆病風に吹かれたようなものだ。姿の見え始めた兵を見て番兵は、背筋に嫌な汗が流れ出すのを感じたまま声を上げることも出来ず、静かに喉を突かれ絶命した。
◇
────番兵の話を聞いた境内で警備を務めていた上役の男は、顔を顰めた。波多野や別所など、織田家へ恨みを持つ残党はいる。ただ信長公の本能寺へ滞在が決まった時点で、念入りに掃討を行っていた。討ち漏らしがあるとしても、千を超えるような数を必要とする残党など残っているはずなかったのだ。
「確認する。ただし、門は閉じておくようにせよ。それとお前はそのまま近習の方々に、不穏な動きを知らせるのだ」
本能寺を取り巻く異様な殺気。誰へ? 信長公に決まっている。御方様がお越しの理由もまさにその危惧あってのこと。客人の手前、信長様も豪快に笑い飛ばしていたのだが果たして⋯⋯上役の男が門の格子から外の様子を伺う。
「明智様が大殿を御心配され、自軍の兵を寄越してくれたようですぞ」
決まり通りに門扉を閉ざしたものの、応援に友軍を閉め出すような形になるので、門兵は気まずそうだ。彼らは何も聞かされていない。知らされた所で今更何が出来ようか。白み始めた空のもとに、本能寺を囲う多数の兵の姿が確認出来た。
────旗印は水色桔梗の紋。
ここにいるはずのない兵。下知はあったにせよ、これほどの人数が近づく前に触れが届いてないのがおかしい。
「────これは敵襲だ」
明智勢がどこから現れたのか。それはわからない。境内を守る兵に応戦を促すにしても、迫る包囲の様子から、賊は一万以上の兵。数が足りない。
「ここが我らの死に場所か⋯⋯」
圧倒的な兵力を秘密裏に動かし、用意周到に囲まれた時点で、敵の決して逃すまいぞ⋯⋯という決意が伝わる。退路も全て封じる‥‥それは信長公を始め、一人も生きて逃さない蹂躙の構えだった。
◇
馬の口を縛り、具足にボロ布を噛ませ音を極力鳴らさないようにしても、人が漂わせる緊張と、汗や吐息まではごまかせない。
どんなに静かに行軍しようとしても草木の枯れ葉や枯れ枝を踏む音、集団から流れ出る臭いは風に乗って広がる。前日の雨で洗浄された大地に混じる戦いの匂い。風が逆に吹き続けぬ限り、匂いに敏感なものや空気を伝う音に敏感なものにはわかってしまう。
織田信長という男は締め切った襖の内にいても、いまだにそうした匂いには敏感だった。無理もない。朝廷に対する彼の強硬姿勢に反感を持つものや、追放した将軍家、討伐を果たし滅ぼした武家や坊主たち。近頃は南蛮の者たちも不穏な動きを見せていた。
数えあげてはキリがないくらい、信長の身近な所に敵がいた。刺客に襲われるのがもはや日常的になっていたくらいだ。
────ふと目が覚めた。
宴の酒がまだ残っていて、ズキッとこめかみをつつく。妙な胸騒ぎがする。
「誰ぞある」
控えているであろう側小姓を呼ぶ。それだけで主の意図を読み、言わずとも新しい水が運ばれて来る。
寝所の枕元に用意された水の器は空っぽだった。年甲斐もなく久しぶりにはしゃいだようだ為か、気分が高まっているのかもしれないと思い直す。
臥所を共にするのは於濃‥‥いまや皆から安土殿と呼ばれ慕われる女だ。
「……迫る殺気の渦を前に、呑気に暁の星を眺めに行くつもりでございますか」
目を覚ましていたのは信長だけではなかったようだ。注意を促しにやって来ておいて、戦の最中に眠っているような女子ではない……か。
目を覚ました帰蝶を座らせ膝枕にする。歳を重ねたにも関わらず、いまだ柔らかで整った臀部を軽く撫でた。こうして妻の膝に頭を乗せて鼻の穴でも穿っていれば、昔はいくらでも危機を脱する手が浮かんだものだ。
「帰蝶⋯⋯此方の言うように、禿鼠が動いたようじゃ」
取り囲むのは戦仕度を済ませた一万を超える数の兵。いかに近衛が精鋭といえども、二百に満たぬ供廻りでは大軍相手に敵わぬであろう。ご丁寧にも数の利を活かし、三重にも包囲の輪を広げ、襲撃に有利な夜闇に紛れず、夜の帳の開くのを待って攻撃するようだ。逃さず確実に主君である信長の首級を挙げ、滅ぼすために。
「水の好きな禿鼠らしいのう。水も漏らさぬ⋯⋯で、あるか」
「わかっていたのであれば、お逃げになれば良かったものを」
「是非に及ばず。禿鼠だけに、窮鼠の抜け出る隙間もないわ」
「ふふっ⋯⋯変わらないおひとですね」
「帰蝶」 という呼び名を呼ばれて、帰蝶自身は少し懐かしそうに信長の頬に手をやる。禿鼠とは羽柴秀吉のことだ。秀吉は上杉攻めの最中に、織田の軍を率いる柴田勝家との喧嘩別れして戻って来た。敵前逃亡の罪に問われて打首になってもおかしくなかったが、敵に囲まれた織田の支配地、有能な将の死に場所はいくらでもあった。
信長を前に悪びれる様は、城持ちとなっても秀吉は変わっていない姿を見せたわけだが、信長は笑って許した。信長に対する相変わらずの抜け目のなさを逆に買ったのだ。その後秀吉には毛利攻めを任せたわけだが⋯⋯主君信長ただ一人を討つために、随分と手の込んだ真似をしていたと感心していた。
水色桔梗────明智光秀の旗印を用意するあたり、信長の身内をまとめて始末する算段を整えていると知れる。光秀が謀反を起こした所で、さもありなんと皆が納得するであろう。そうした空気を作り出して来たのも彼の者の仕業だ。
あの真面目で熱い男。今更彼が信長の首を取ろうなどと思うのならば、くれてやるつもりだった。堅物のきんかん頭と散々からかってやった。それでもあの男は信長に‥‥いや姫である帰蝶には忠実だった。だから⋯⋯帰蝶が信長を見捨てない限りは、光秀が信長を裏切る事はない。だからあの堅物が信長を斬る事になるのは、信長が帰蝶の期待を裏切る真似をした時だけだ。それは信長自身斬られても仕方無しと思う、十分な理由であった。
「天下静謐‥‥そなたの父の果たせなかった夢は成った。日の本をまとめ、唐を討ち、南蛮人どもを蹴散らす予定だったのだが⋯⋯儂には時間が足りぬ」
「手が届かぬと申されて、国崩しをはよう作れと急かしておりましたなあ」
「そう言うな。そなたや儂の親父殿達が生き急いでおった訳が、この歳になってようわかったわ」
「寂しい事を申されますな。全てを失ったのなら、また駆け上がればよいだけ⋯⋯そう仰られたのはどなたでしたか」
「ふふ⋯⋯歳を重ねてもなお恐ろしいおなごよ。道三殿が本当に跡を継がせたかったのは、儂でも光秀でも義龍でも半兵衛でもなく、そなただったのだな」
「御冗談を申されますな。あなたさまだからこそ、蝮殿も後事を託そうとなさったのです」
「で、あるか。ならば儂も親父殿に負けてはおられぬ。秀吉めの勢いは他ならぬ儂への反発もあって、存外長く続くであろう。あれはそうやって焚き付けるのが得手ゆえな」
戦禍のもとを断つために、信長は荒療治をやり過ぎた。使える時間が有限であると、もっと早く実感していたのなら、今頃は日の本の争乱を収めていただろう。
是非もなし────そう呟いたのは信長自身だ。いまさら悔いた所でどうにもならない。滅びゆく信長が出来るのは、光秀と家康に後事を託すことだ。天下簒奪を図る秀吉には、精々自分にかわり乱を鎮めるための走狗になってもらう。
再び忍耐の日々を過ごすことに、癇癪持ちの家康がどこまで辛抱出来るのか。秀吉の世になれば、かつてのように癇癪を殺し、節制を続ける今川の時代に逆戻りとなろう。飼い殺しの狸、それはそれで見物だと信長は思わず笑う。帰蝶や光秀の補佐があれば、火に焚べた栗のようなあの者にも、逆転の日は必ずやって来る。あの男が勝ちを拾うにはもう一つ、二つ信頼出来るものが欲しい所だ。
「一万を越える軍勢があなたさまの首を狙って動き出そうというのに、長年連れ添った目の前の女の心配より弟分に心を馳せるのですか」
「そなたこそ、一刻後には首と胴が離れているであろう夫に、ずいぶんな物言いだな」
「勝手にお守りを申し付けようなどせずとも、冥土までお供するつもりですよ」
「ならぬ。そなたはこの信長の妻となったのだ。成すべき事を成し遂げてから追ってまいれ」
膝枕から起き上がり、於濃と正対して座る信長。自分の親父にも、天子に対してさえ下げたことのない頭を、妻に向かって下げた。
長年共に連れ合い、今際の際まで変わらずにいてくれる気概に対して、感謝と敬意を払って。そして海外進出を果たして日の本の国へやって来た傲岸不遜な南蛮人達のいる現在、信長の死後の混乱を広げて百年時代を前に戻すような真似は出来ない。手綱を誰が握ろうが、天の示す主は変わらないのだから。
ここで帰蝶を死なせずに残す事で、光秀も家康も動きやすくなる。秀吉も帰蝶がいる限りは、好き勝手にやるのは難しくなるだろう。信長最後の頼みは、自分よりも帰蝶に生きてもらうことだった。
「どこまでも勝手なおひとですこと。ならばわたしが逝くまで、お一人で寂しくあの世で待っていると約束していただきます。吉乃との逢瀬で待たされたあの寂しさを味わい尽くしてくださいませ」
優しく微笑む妻の迫力。今生の別れになるというのに、出て来た言葉がそれだ。どこまでも気丈で情の怖い女だ。
「ううむ、やはり此方は許してはおらなんだか。最期まで儂を楽しませることの出来た女は帰蝶しかおらぬ」
思わぬ告白に信長が呻いた。もう少し帰蝶と話す時間を作っていれば、秀吉に出し抜かれる事はなかったのかもしれない。長宗我部の事も、秀吉の思惑に任せず、光秀に任せたままにしておけば大事なかったはずだ。
「ほらほら、尾張の大うつけの終わりが湿っぽくなりますよ。盛大な送り火のなか、最期はあなたさまらしく敦盛でも舞って、悔いなく旅立ってください」
別離の舞。この期に及んで要求するものが、熱い抱擁でも共に生き延びよと懇願するものでもなく、舞であるか。夫である信長の姿を目に焼き付けようと、その眼差しは真剣だ。別離の涙など二人には不要のもの。
子を成すことがなかったためか、帰蝶の容姿は出会った頃とあまり変わらない。当時と同じ目で信長最期の舞をうっとりと眺めていた。
織田家の当主の妻「於濃」 としての顔は皆が知っていても、「帰蝶」 の顔はおそらく信長しか知らない。我が妻ながら化粧を落とすと、かつてのあどけない姫に戻る。於濃の場合、化粧は美しさを保つためのものではなく、正体を隠すために使う。信長は素の妻の顔が好きだが、こうした時のために、帰蝶は顔を隠して歳相応に振る舞っていた。
境内では、喧騒の声が突如上がり始める。顔が確認出来るほどに明るくなってから、包囲軍に攻撃の命が下されたのだ。
何も知らない兵達は、信長公を少しでも長く生かし脱出を試みようと随所で奮戦していたようだった。取り逃がしを避けるために敵側が時間を置く間に、警護の供廻り衆も武装を整え、覚悟を決める時間が出来た。
「蘭! 弥助!! 於濃を連れてこの地を離れよ」
舞を終えた信長は、隣の部屋に控えているであろう近習に声を上げる。明智を徹底して騙るならば、明智の姫は救わねばならぬ道理に賭ける。知恵が枯れると神に、運に頼る。信長は門徒どもの事は笑えんな、と己の無力さを笑った。
「蘭、儂に代わり於濃を守る盾になれ。よいな」
「はっ、承知しました」
「そんな畏まらなくてもいいのよ」
「於濃は茶化すな。蘭、惑わされるでないぞ」
「はっ!」
お気に入りの側小姓は不服そうな表情だ。しかし、信長に対して異を唱えるような事なく了承する。死の差し迫った状況でも変わらぬ二人。その信長最後の命令に対して、役目の重要性を理解しているのだ。
「弥助、そこな箱は天下の名器の集まりぞ。三条へ運び、藤孝に託せ。あとのことは藤孝に任せよ」
「承知シタヨ。ノブナガサマは?」
「儂はお前たちの脱出する時間を稼ぐ。誰何されても堂々とせよ。朝臣のものを手にかけて、後々困るのはあやつらだから、厳命されておるはずだ。猿についた茶坊主めの手にはかかるなよ」
藤孝は光秀と並び、いまの織田家にとってなくてはならない人物になっている。無法を通した秀吉も、影響力の高い藤孝を、手にかけるような真似はするまい。
信長は蘭と弥助、それに帰蝶の駕籠を担ぐものと荷を運ぶものを四名つけた。根切りを指示された兵も、帰蝶の顔を覗き見れば戦いなど忘れるだろう。
「討って出る。儂が戻るまでに火を放つ仕度をせよ」
信長の脳裡には、首を探して狼狽える禿鼠の姿が浮かぶ。侵入する鎧武者を相手にどれだけ時が稼げるものか。腹を切った所で喜ぶのは禿鼠だけだ。裏切りに対しての怒りは信長にはない。それが戦国のならい。ならばその恐ろしさを秀吉と官兵衛らに叩き込んでやるのが、主として最後の務めとなろう。
本能寺は信長の寝所として扱われているが、土塀は高く固められ乗り越え難く、少数で守るのに適した砦になっていた。そしてもう一つの役割として、武器弾薬の類を集める蔵となっていたのだ。本格的に火を放てば弾薬に火の手が回り、暴発しかねない。
密かに本能寺へ手配したのは光秀だ。足利義昭を復権させた後に、京の都は三好勢の襲撃を受けた。信長が駆けつけ事なきを得たが、少数でも戦えるように、光秀が武器弾薬の類を集めて貯めていたものだった。
織田家中で、本能寺の地下にあるこの鉄砲弾薬貯蔵庫のことを知るものは少ない。勝家や秀吉など織田家重鎮にも秘密にされていたからだ。各地で反乱が起きようとも、都が戦火で焼かれる日がなくなりつつある今、本能寺の砦としての役割は忘れ去られていった。
────二百足らずの兵からの鉄砲による猛反撃の後、本能寺の館は大爆発を引き起こした。確実を期すために一万を越える兵を集め、謀反を起こした秀吉の信長警護の侵攻軍。しかし多くの犠牲を出しながら境内を制圧したものの、信長公の首級をあげることは出来なかったという。
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