第46話 初めての朝
窓から差し込む朝日の光が僕の顔を照らし、さっさと起きろと殴り付けてくる。
寝具の中とは言え、初冬の朝であるから、さすがに一糸まとわぬ姿では寒いというものだ。
昨日の出来事が嘘であるかのように、今日の朝は実に穏やかに訪れた。
いつもの朝であるならば、『黒薔薇の剣姫』の二つ名で知られる女騎士ネイローザが、僕を叩き起こしに来るはずだ。
彼女は僕の剣術師範であり、僕を強い王様にする事に熱を入れているからだ。
しかし、今日は来ない。
いや、むしろ、“今日から来ない”と言った方が適切だろう。
なにしろ、ネイローザは今、僕のすぐ横で安らかな寝息を立てているからだ。
昨夜、僕らは契りを交わした。
夫婦と呼ぶには身分や立場が邪魔をしていて、恋人と呼ぶにしてもいささか剣呑に過ぎる。
寝息を立てている可愛らしい妖精は、昨日、僕を十回も殺した。
訓練中に八回も打ち据え、容赦のない論評で心を抉り、最後は決闘で完膚なきまでの敗北を突き付けてきた。
だが、僕もまた、彼女の本心、本性に気付き、その傷を抉ってしまった。
(そう、これは言ってしまっえば、“傷の舐め合い”と呼ぶのが相応しいのかもしれない。互いに覚めぬ悪夢を見ながら、本当の自分を仮面で覆い隠し、素知らぬ顔を決め込む。それを唯一曝け出せるのが、“閨中”だけ)
ようやく分かったような気がする。
あの冷徹で、皮肉屋の父が、“熱き魂”を秘して日々を過ごせた理由が。
何の事はない。同種の存在が目の前にいて、傷の舐め合いをしていたからに他ならない。
溜め込んだ負の感情を、程よく排出していたからこそ、狂気と正気を両立を成していただけの話というのが真相なのだろう。
(王としての自分、男としての自分、果たしてどちらが正気の自分であり、どちらが狂気の自分なのだろうか?)
そんなことを幾世代も重ね、今に至る。
そうして、父も、お爺様も、そのまたお爺様も、吐露できぬ感情を麗しき妖精に毎夜ぶつけ、妖精の方もまたかつての恋人の影を歴代の王に重ね、思い出に浸っていただけなのだ。
そこに他人が入る余地はない。
母が無理にでも立ち入らなかったのは、それを理解すればこそではなかろうか。
この国のためを思い、女としての自分、母としての自分を殺し、王妃と言う偶像に徹したからなのだろう。
母が戦い続けた怪物の名は“嫉妬”。
人が持つ最も原始的で攻撃的な感情だ。
心を奪われた夫と、それを奪った魔女が目の前にいる。
すぐ隣に立つ事は王妃という立場や役目の上では当然であれど、王と王妃の心の距離は万里にも及ぶ。
決して自分には笑顔を向けない夫がいて、その夫が笑顔を向ける唯一の存在である黒い薔薇は、騎士として王妃に対しての礼節に則り、神妙に振る舞う。
欺瞞以外の何ものでもない。
聡明な母は、その秘事に気付いてしまった。
母が彼女に向けていたという視線は、口で語る事の許されないがゆえの無意識的な感情の吐露だったのではなかろうか。
どうする事も出来ない無力感、嫌悪感があり、それを吐露してしまえば国を損ないかねないという懸念があるからこその沈黙。
母も父同様、黙した上で怪物と戦い続けていたのだろう。
もちろん、僕がそう思っているだけで、真相は分からない。
母は最期まで自分のあからさまな感情を表に出すことなく、墓まで持って行ってしまったのだから。
だからこそ、父とネイローザは踊り続ける事が出来た。
しかし、それとて永遠の事ではない。いつか終わりが来る。
寿命、時間が恋人の間をいつも引き裂く。
朽ちる王の虚無感と、朽ちない妖精の孤独とが、無様なダンスを踊っていたに過ぎないのだが、それでも互いを求め合った結果が、七代にわたる秘事だ。
(それでも心が折れず、息子にその地位を譲るまで挑み続けたのは、やはり指南役が優秀だったからなんだろうな。もちろん、ネイローザへの想いが本物である事も前提なんだろうけど)
僕自身、そう考えている。
六歳の頃から十年以上にわたり、僕はネイローザに幾度となく殺されてきた。
そして、殺される度に立ち上がり、強くなってきたという自負がある。
剣技については及ぶべくもなく、知識にしても積み上げた物の差は大きい。
しかし、“心”に関しては無限の広がりを感じる。
真相を知った時には危うく暴走しかけたが、それでもなお正気を保っていられたのは、諦めよりも、彼女を欲する心の方が、いとおしむ気持ちが上回ったからだ。
(歪な形とは言え、僕はようやく彼女を掴んだのだ。離してなるものか。例え、この手が血だらけになろうとも)
名は体を表す。
彼女の持つ『黒薔薇の剣姫』の二つ名は、本当によくできている。
真相は分からないが、きっと歴代の王の誰かが付けたのだろう。
美しくも棘のある麗しき妖精。掴めばたちまちその手が血に染まる。
それでも離さない、離してはならない理由がある。
父も含めた歴代の王も、そうして彼女を掴んで離さなかったのだろう。
“次”に掴む者がしっかりと育つまでは。
あるいは、互いに夢から覚めるまでは、と。
(でもまあ、こんな可愛らしい妖精に誑かされ続けるというのであれば、あるいは覚めなくてもいいのかもしれないけどね)
僕は眠るネイローザに手を伸ばし、その頭を撫でた。
ずっと、ずっと、ずっっっと、こうなりたいと願っていたが、それは叶わぬ夢だと諦めていた。
しかし、そうではなかった。
あの日から、ネイローザから初めて指南を受けたあの日から、僕はずっと夢の中にいたんだ。
こうなる事は、最初から定められていた。
ただ、僕が望む形での成就とならなかっただけだ。
(そう、もし僕の願いが本当に叶ったのなら、それはとても悲しむべき事なんだ。君が枯れてしまうのだから)
かつての恋人を未だに追い続け、その子孫にその役を与え続けた夢見る妖精。
王族にとってはとんだ悪夢だけど、これほど心地よい悪夢はない。
僕は初恋のままに、君もまた初恋を想いながら、互いに求め合えるのだから。
例えそれが、夢、幻と呼ばれるものであろうとも。
「ううぅん……」
「おっと、起こしてしまった。ごめん、つい可愛くて」
「フフッ、おはようございます」
寝ぼけ眼のネイローザを始めて見たが、これもまた魅力的だ。
目をこすりながら大きなあくびをして、強張る筋肉をほぐすために手を伸ばす。
なんて事の無いありきたりな動作だが、僕にとっては何もかもが新鮮だ。
昨日までの僕の知るネイローザは、凛々しさと可愛らしさが程よく調和のとれた、そんな少女だった。
少女と言っても僕の十倍は生きているが、“成長”が欠損しているので、百年の年月を経ようとも見た目は少女のままだ。
しかし、昨夜は初めて彼女の本当の姿を見た。
あちこち傷だらけで、泣きじゃくるだけの弱々しい女の子。
かつての思い出に縋る事しかできない、悲しき旅人。
自分を“老いて逝った”者達を懐かしみ、恨みと孤独を抱える病人。
いつもの凛々しい姿は、それらを覆い隠すための仮面であり、僕はそれを外してしまった。
彼女が泣いている姿を始めて見て、それこそが彼女の本質であり、姿だけでなく心もまた少女のままで過ごしてきたという事を知った。
強がってはいても、仮面が外れてしまえば、初恋の成就を願ってさまよい続ける、いたいけな少女でしかない。
心も、身体も、本当にか細い少女だ。
それでもなお、彼女が自分を保っていられたのは、かつての王様への想いが本物であったからに他ならない。
だから、僕は彼女を許し、これを受け入れる事を決めた。
僕を謀り続けた事も些末な事に過ぎない。
惚れた弱みと言うのもあるし、同情的になってしまったというのもある。
この傷だらけの少女を守ってやらねば、そう思って仕方がないのだ。
自然と僕は、寝ぼけ眼の彼女を抱き寄せていた。
細くて、治りきらない傷があちこちにある、王族をはめ込んだ性悪な妖精ネイローザ。
そんな彼女は僕の初恋の相手であり、好きで好きでたまらない。
ようやく抱き寄せる事が叶ったのだ。
“歪んだ真実”なんて、問題にすらならない。
“真っ直ぐな想い”こそ、真に掴むべきもの。
僕はネイローザが好きだ。
これだけで十分ではないのだろうか。




