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短編まとめ

刺繍で魔法陣を描いたら、天才魔法使いに求婚された

 北の塔。名前だけで薄ら寒いこの建物は、王国の北西、国境沿いにある。森の中にある石作りの建物で、背の高い木よりも高くそびえ立っていた。隙間風が吹く寒々しい塔だ。


 ランドール公爵家の令嬢、シエラはそんな北の塔にひと月前から幽閉されている。


 思い起こしてもなぜ、こんなことになったのかは理解不能。王太子のお気に入りの令嬢に危害を加えたとかなんとか。しかし、そんな記憶もなければ王太子のお気に入りの令嬢というのが誰なのかもわからない。


 なぜそんなことで幽閉されなければいけないのかはわからないが、シエラにとっては勿怪の幸いといったところだ。


「こんな生活があと10年続くなんて……最高だわ……」


 シエラは北の塔で一人呟いた。



 ◇◆◇



 シエラが危害を加えたとされる令嬢は、貴族の中でも末端に位置する男爵家の娘だ。社交界で少し騒ぎになったとしても、幽閉にまで発展するような問題ではなかった。


 それは王太子も理解していたのだろう。だから、国王とシエラの両親が不在のときに王太子はシエラを断罪したのである。国王とシエラの両親が帰国してきたときには後の祭りだったというわけだ。


 そんな風に始まった北の塔の生活だが、シエラにとっては悪いことばかりではなかった。いや、むしろいいことずくめなのではないか。


 シエラは半分ほど出来上がった刺繍を見てにんまりと笑った。


「本当にここの生活は最高だわ。ねえ、そう思わない? サラ」

「そう思われるのはシエラお嬢様くらいですよ。こんな暗くて寒い塔に10年なんて……!」

「今回のことで、もちろん縁談は破談でしょ? しかも社交はしなくていいのよ? そのうえ、働く必要もないの! これ以上に最高な状況ってある?」


 シエラの年齢は19歳。この北の塔を出るころには29歳となる。つまり結婚適齢期はとうに過ぎている年齢だ。過保護な両親や兄はきっとシエラにこう言うだろう。


『結婚せずにずっといればいい』


 そうなればまさに楽園だ。領地にある別荘にでも引きこもって大好きな刺繍に明け暮れる。そんな毎日を過ごせばいい。


 人生はそううまくいかないのは知っているけれど。


「お嬢様ったら。婚約を破棄されて、こんな北の塔に閉じ込められて喜んでいるなんて旦那様や奥様が知ったら嘆かれますよ」

「めそめそしているよりはいいじゃない? どうせ公爵家の力を使ったら10年もここに住めないわよ」


 ランドール公爵は貴族の中でも名門の家柄だ。王太子の決定を覆すことくらいたやすいだろう。正式な手順を踏むとなると、長くて一年だろうか。


 つまり、こののんびりとした生活を堪能できるのは今しかないというわけだ。


 一ついいことがあったとすれば、王太子との婚約が破棄されたことだろうか。彼とは幼いころからの腐れ縁で、5歳のとき婚約は結ばれた。活発な王太子とは反対にシエラは内向的でインドアだ。幼いころは乗馬だお茶会だと連れまわされ苦労した。一つとして楽しいと思ったことはない。


 何をやらせてもどんくさいシエラとの遊びは、彼も楽しくはなかったのだろう。シエラはなかなか馬にも乗れず、ダンスをやらせれば足を踏むばかりなのだから。いつしか彼はシエラを誘わなくなった。


 そして、今回の騒動である。彼は運命の相手を見つけたのだ。こんな騒ぎを起こさずとも、婚約破棄を申し出てくれればあっさりと手を引いたというのに。



「サラ。お母様にもっとたくさん刺繍の糸を持ってきてとお願いしてね」

「わかりました。これでは閉じ込められているのか、閉じこもっているのかわかりませんね」


 サラが笑った。


 公爵家の力でまた面倒な令嬢生活を送らなければならないのであれば、この休暇を楽しむほかない。そのためには刺繍の道具がたくさん必要なのだから仕方ないではないか。






 北の塔は縦に細長く、十層に分かれている。円柱の塔で外側が階段となっており、ぐるぐると登るのだ。


 シエラは下から三層目で暮らしていた。一層目は地面からの冷たい空気で寒く、一番上は登り降りが大変だからだ。二層目は侍女のサラの部屋にして、三層目をシエラの部屋とした。


 幽閉されてひと月と半分が経ったころ、シエラは運動がてら階段を登った。


 届けてもらった刺繡糸が底をつき、倍の量をねだったのが昨日。数日は図案を考えることに集中したい。


(次はどんな柄にしようかしら)


 前回は薔薇の花を刺した。その前は刺しなれたランドール公爵家の家紋。趣味で刺繍を始めて10年。最近は図柄も似たり寄ったりで面白くない。似たような図柄は成長を感じられるといえばそうなのだが、やはりわくわく感を得るには少し足りなかった。


 考えながら一段一段ゆっくり登る。息が上がった。


 アイディアを出すときには全く違うことをやるほうがいい。そう思って塔の上を目指しているのだが、引きこもりのインドア派には長く感じた。しかし、途中で投げ出すのも悔しくて、シエラは初めて塔の一番上まで登ったのだ。


 最上階の部屋は真っ暗だった。明り取りのない古びた小窓を押し開けると、強い風が入ってくる。


 シエラの髪を乱し、部屋の埃が空中を舞う。


「もうっ! 全身埃だらけ。こんなことなら一番上なんて来るんじゃなかった!」


 先日母から送られてきた赤のワンピースはすっかりくすんでしまった。シエラは大きなため息を吐く。


(もう二度とこんなところ登らないんだからっ!)


 憎々しい気持ちをぶつけるように空っぽの部屋を見回す。石造りの塔は味気ない小窓から入る光以外には何もなく、埃だけがたまっているようだった。


 しかし、シエラは壁に不思議な模様を見つけて目を奪われた。


(なにこの模様……)


 大きく描かれた模様はシエラが目にしたことのないような図柄だった。大きな円の縁の中に描かれた不思議な模様。文字のようにも見えるし、木や花のようにも見える。


「綺麗……」


 石の上に描いているせいか、ところどころ欠けて床に落ちていた。しかし、すべてを集めれば一つの模様が出てきそうだ。


「これだわっ! 次はこれにする!」


 シエラは目を輝かせて叫んだ。


 その日から、シエラは毎日階段を登った。壁に描かれている以上、自分の部屋には持ち込めない。描き写すことも考えたが、本物を見て刺したかった。


(せっかくだから大きいのを作って、ベッドカバーにしようかしら?)


 身の回りの物を自分の刺繍で埋めていく。なんと幸せなことか。


 令嬢の嗜みと言われて始めた刺繍は、いつの間にかシエラにとってかけがえない趣味となった。


 貴族の娘として生まれた以上、刺繡以外にも学ばないといけないことは多い。特に王太子妃となる予定だったシエラには多くの勉強が求められた。


 そのすべてが苦手だったわけではないが、やはり楽しいと思えるほどではない。唯一、刺繍をしているときだけが面倒なことを忘れられるのだ。


 塔の最上階は見違えるほど綺麗になった。刺繍の道具が汚れないように。壁も磨くと不思議な模様も鮮明に見える。


「お嬢様、この模様はヘンテコな形をしていらっしゃいますね」

「素敵でしょう? 家紋とも違うし……。昔の人が描いたのよ。きっと」

「これを刺繍しているのですよね?」

「ええ! 綺麗でしょう?」


 シエラはできた半分の刺繍を見せた。美しい紺一色の刺繍だ。サラはよくわからないと首を傾げた。


「お嬢様の作品はどれも素敵ですが、これの美しさは私にはわかりません」

「そう……。こんなに綺麗なのに……」


 シエラは小さなため息をつく。しかし、人の感性というのはそれぞれだ。きっとサラの好みに合わなかったというだけのこと。その程度で落ち込んでいる暇はない。


 シエラは毎日塔の最上階に登り、太陽が登っている時間はずっと刺繍を続けていた。ときどき休憩のために窓の外を見ることも楽しみの一つだ。


 高い塔の最上階からだと森を見渡せた。静かな森を見ていると、その一部になったような気分になって落ち着く。ここには舞踏会もおいしいスイーツもない。


 五日に一度公爵家から必要な物が送られてくる以外、何もない。それでも、公爵家の令嬢として社交に出ていたころよりも、王太子の婚約者として立っていたころよりも自由に感じる。


 そうして刺繍が完成したのは、シエラが最上階に登ってひと月半経ったころだった。


 シエラは予定通り刺繍をベッドカバーにした。白地の大きな生地に紺一色で描いた模様は美しかった。欠けていた部分も解読し綺麗につなげられたと思う。


 その日の気分は最高だった。心なしか暖かい。いつもであればもっと冷えて、夜から朝にかけて寒さで数度目覚めるのにその日は一度も目が覚めなかった。


 柔らかな朝日で目を覚ますのはいつぶりだろうか。春のようにぬくぬくと暖かい。


 シエラはゆっくりと瞼を上げた。


「おはよう。愛らしいお嬢さん」

「え……?」


 目の前には黒髪の美しい男。妖艶な笑みを浮かべる様は絵画のようだ。アメジストの瞳は宝石のようで、シエラは目を奪われた。


 起き抜けに飛び切り美しい男が現れるとは正気の沙汰ではない。だって、シエラが寝起きしているのはさびれた北の塔。いや、公爵邸だったとしても大問題だ。まだ19歳のうら若き乙女の隣にこんなにも美しい男が同衾しているなどと。


「わかったわ! これは夢ね!」


 今日は暖かかったから、おかしな夢でも見ているのだろう。


「なんだ? まだ眠いのか。なら、目が覚めるまで我が添い寝してやろうぞ」


 美しい男は笑みを浮かべてシエラを見つめた。まつ毛の長さすら数えられる距離。吐息がシエラの頬にかかった。


 シエラはぎゅっと目をつぶる。


 そう、これは変な夢。


 しかし、不思議と眠気は襲ってこない。


 そもそも夢の中で眠気など感じるものなのか。


「眠れぬのか? ならば我が子守歌を歌ってやろうぞ」

「いい。間に合ってますから」

「そう言うな。子守歌は得意なほうだ」


 夢とは言え、見知らぬ男に添い寝されたまま子守歌を歌われるとはいかがなものか。


(まあ、夢だし。誰が見ているわけでもないし)


「おはようございます。お嬢……さ、ま!?」


 下の階から上がってきたサラが顔を出し、目を丸めた。シエラはサラの顔を見て、頬をつねる。


 痛い。痛いときは夢の中だっただろうか。


「お嬢様……。お隣にいらっしゃるのは……ど、ど、どなたですか?」


 シエラは振り返って男の顔をもう一度見る。夢でもそうそう見れないような美しい顔だ。


「ん? どうした? 我の顔に何かついておるか?」

「夢……じゃない、の?」

「我は夢見心地ではあるが」


 男の形のいい唇が綺麗な弧を描く。


 シエラの叫び声が北の塔の上まで響いた。



 ◇◆◇



「つ、つまり……。私のこの刺繍から出てきたということ?」

「ああ、そうだ。そなたが我を救ってくれたのだ」


 美しい男の名はエルヴァティア。長く古風な名前だった。職業は魔法使いだということだ。魔法使いといえば、おとぎ話で見聞きするあれだ。不思議な力を使う者のことだろう。しかし、あれは架空の世界の話である。しかし、彼はそんな架空の世界の力を持っているというのだ。


 エルヴァティア曰く、シエラが刺繍した不思議な図柄は魔法陣というものらしい。


 この魔法陣はこの世界と異空間を繋ぐ扉としての役割を果たしていた。しかし、なんらかの事情により、エルヴァティアが異空間にいるあいだに魔法陣の一部が欠損しこちらの世界に戻ってこれなくなったということだ。エルヴァティアの言っていることは難しく、シエラはほとんど理解できなかった。


「我が作った異空間は時を止めたせいで年月が過ぎぬ。ゆえに無限の時間を彷徨っていた。しかし、昨夜突然魔法陣が反応したのだ」

「はあ……。そうだったのですね」

「そなたはなんと素晴らしい魔法使いだろうか!」

「いえ、私は魔法使いではございませんが」


 シエラは美しい図柄を真似して刺繍をしただけである。魔法使いであるはずがない。


「このように正確な魔法陣が描ける魔法使いはそうおらん。若いがさぞ苦しい修行を積んだのであろう?」

「いいえ。だから私はただの公爵家の娘です」

「なに。謙遜するでない。公爵家といえば高名な魔法使いをたくさん輩出しておる」

「そんな話聞いたことありません」


 全く話が通じない。彼はどのくらいのあいだ異空間というところにいたのか。それすらもわからないそうだ。


「では、そなたはどうやってこの魔法陣を描いたというのか」

「壁に描かれたままを写したのです」


 シエラはエルヴァティアを塔の一番上に案内することにした。シエラの生活する三層目から一番上までは結構な時間がかかる。階段を登りはじめたとたん、エルヴァティアが首を傾げた。


「なぜわざわざ登るのだ?」

「なぜって、それ以外に上には上がれないでしょう?」

「飛んだほうが早かろう?」

「鳥じゃないんだから飛べるわけがないじゃない」


 空を飛ぶというのは誰もが憧れるシチュエーションではあるけれど。


「本当に魔法が使えないのだな」


 エルヴァティアが呟くように言った。そして、シエラの腰を抱く。


「ちょっとっ! 何をっ!?」

「なに、少し我につかまっておれ」

「えっ!? どういうこと? ちょっとっ! あっ……!」


 浮いている。身体がふわりと浮いた。シエラは慌ててエルヴァティアにしがみつく。


 手品のように二人の身体は宙に浮いていた。そして、どういうわけかそのまま上へと登っていく。


「本当に浮いてるっ!?」


 エルヴァティアの黒髪が揺れる。シエラの白銀の髪が混ざってキラキラと輝いた。スピードがどんどん上がっていく。今までに感じたことのない浮遊感に、シエラはしがみつく手を強めた。


 すぐに二人は最上階へと到着した。いつも休み休み登っていた階段が一瞬だ。


 シエラはへっぴり腰のまま小窓まで這うと、唯一の窓を開ける。


 光が入った。冷たい北の風が部屋の中を走り抜ける。


「ほう。懐かしい。我が描いた魔法陣だ」

「これ。私はこれを真似して刺繍をしたのよ」

「なるほど。魔法陣が一部欠けて落ちたか。どうりでこちらに戻って来れなかったわけだ」


 エルヴァティアは納得した様子で魔法陣を眺める。欠けた壁の一部は床に転がっているのだ。シエラはそれを少しずつ合わせて正確な図柄を真似た。魔法陣とも知らずに。


「そなたがこれに興味を持ってくれたおかげで我はここに戻ってこれた。やはり、命の恩人であるな。感謝する」

「いいえ。私はただ綺麗だと思ったから」

「大魔法使いの命を救ったのだぞ? もっと胸を張ってよい」


 大魔法使いと言われてもやはりピンと来ない。しかし、純粋に空を飛ぶことができるのはすごいことだ。だから、すごい人を助けたということなのだろう。


「して。シエラよ。そなたはなぜ、このような場所で寝起きしておる?」

「見てのとおり、幽閉されているの」

「幽閉? そなた、大罪人であったか」

「馬鹿言わないで。ちょっと面倒に巻き込まれただけで私は何もしていないわ」


 シエラは何もしていない。王太子の恋人を害したこともなければ、権力を振りかざしたこともない。そんなものには興味がなかった。シエラにとって、刺繍を施す時間以外はつまらないものだったのだ。


 王太子との婚約だって、幼いころに親が交わしたもの。どちらかに恋人ができれば白紙になる可能性があるものだ。特にシエラの家族はシエラに甘いため、婚約を破棄したいと言えばきっと許してくれることだろう。結婚を望んでいないのであれば、相談してくれればよかったのだ。


 シエラはエルヴァティアに今までにあったことを話す。エルヴァティアは聞き上手なようだ。ついついいらないことまで話してしまいそうになる。


「つまり、そなたは罪を着せられ婚約を破棄された挙句、幽閉されたというわけか」

「そういうこと」

「では、そなたは恋人も婚約者もおらぬというわけだな」

「ええ、そういうことになるわね」


 幽閉されている女とわざわざ結婚したいという男もいないだろう。このまま結婚を免れ、悠々自適の毎日を送りたい。


 また王太子のような男と婚約などしたらたまったものではない。


 シエラは思い出してため息を吐き出した。


「シエラが望むなら手を貸そう」

「手?」


 エルヴァティアは笑みを浮かべる。美しいという形容では足りないような艶のある笑みだ。


「そなたをこの塔に閉じ込めた者を懲らしめたいのだろう?」

「そんなことしなくてもいいわよ。私は今の状況を結構楽しんでいるの」

「ほう? この塔での生活が楽しいか。年頃の娘はこんな暗くて寒い塔よりも、キラキラとしたパーティのほうが好きだろう?」

「一般的にはそうかもしれないけど……」


 シエラにはどちらも興味のないものだ。内向的でインドア派のシエラにとって、ダンスも社交も面倒なのだから。


「私はここで刺繍をしてるほうが楽しいの。そりゃあ、外に出られたほうがいいわ」


 ここには刺繍をする時間はたくさんあっても、題材が足りないのだ。花の絵を施すにしても、見本がない。


「外に出られたほうがいいけど、そのうちお父様がここから出してくれるから、のんびり待つつもり。あとは刺繍の題材があればいいんだけど……。あ! そうだ! 綺麗な模様の魔法陣とかないの?」

「ふむ。何か足りない物はないか?」

「足りない物?」

「せっかくならば、ここの暮らしに役立つ魔法陣がよかろう?」

「そうね……。水とか、火とかかな」


 塔の一階に井戸はある。しかし、女二人では井戸水を引くのも大変だ。火をおこすのだってそうだ。それが魔法で簡単になるのならば。


「ふむ。よかろう」


 エルヴァティアは床の上にさらさらと魔法陣を描いた。きれいな円の中に描かれた不思議な模様。塔の最上階にあった模様よりも小さいが、細かく美しい模様だった。


「きれい…!」

「これを刺繍してみるがよい」


 この程度の模様なら、半日もかからないだろう。


 イメージに合うように青系の糸を四種類使って刺した。刺繍をしているときは無我夢中で、隣でエルヴァティアが話をしていたがほとんど覚えていない。


「そなたは本当に刺繍が好きなのだな」

「うん」

「美しい手だ」

「ありがとう」

「こんなにも美しい手を見たことがない」

「んー」


 彼に声をかけられると、適当に相槌を打った。手を褒められた気もする。他にも色々と言っていたようだが、記憶がさだかではない。


 あとで何を話していたのか聞かなければ。


「できた……!」

「やはり、シエラは才がある。このように正確で美しい陣を描ける者はなかなかおらん」

「ありがとう。ちょっと変な褒められ方のような気はするけど。それでこの魔法陣は何ができるの?」

「これはな、水を出すことができる陣だ。貸してみよ」


 刺繍を施したのはハンカチほどの大きさだ。エルヴァティアはそれを手にすると、手の中の布がジワリと濡れる。


「水が出てるの?」

「ああ。この魔法陣は魔力を流すことで水を出すように設計されておる」


 乾いた布がしっとりと濡れた。魔法陣から湧くように出た水がエルヴァティアの手を濡らし、床にぽたりぽたりと水滴が落ちる。シエラは慌てて水桶を差し出した。


 布を水桶に入れると、水があふれる。すぐに桶は水で満たされた。


「すごい! これって、あなたしかできないの?」

「我であれば魔法陣などいらぬ。この程度の魔法で陣を必要とするのは初心者くらいだ」

「じゃあ、私にもできる?」

「無論だ。やってみるか?」


 エルヴァティアは布の水を絞り、新たな空の桶に入れた。


 彼は背中から抱くようにしてシエラの後ろに立つ。こんなに男性が側に立つことはダンスのときくらいだ。気恥ずかしい。


「よいか? 人にはマナと呼ばれる力が全身に巡っておる。多い少ないの違いはあるが、共通だ。魔法とはそのマナを使用するのだ」

「へえ……。マナ。初めて聞いたわ」

「どうやら、我がいないあいだに時代は流れ、魔法という技術も失われてしまったのであろう。しかし、魔法が消えてもマナは消えぬ」

「そうなのね」

「まずは全身に流れるマナをイメージするところからだ。血が巡るように、マナも全身をめぐる。頭のてっぺんから指の先、髪の末端まで」


 シエラは目を閉じ、マナの流れを想像した。マナとは水のようなものなのだろうか。それとも空気のような? 川のように全身を流れるマナを想像する。


 どことなく、身体があたたかくなったような気分だ。


「ふむ。やはり才がある。では、そのマナを手に集めるようにイメージするといい。全身にあるマナを手に流していく。……そうだ」


 彼の言葉を頼りに、シエラはマナを手に集める想像をする。と、言っても想像くらいで確信があるわけではない。


 しかし、じんわりと手のひらにぬくもりを感じた。


「そうだ。次は集まったマナをその魔法陣に送るイメージだ。手の中にあるマナをそっと流し込むように……」


 エルヴァティアの手がシエラの手を包み込む。驚いて肩が跳ねた。


 その瞬間、布から水が湧き上がり天井まで上がった。


「シエラ、マナを止めよ!」

「えっ!? どうやって!?」


 流すイメージはできたが、止め方はわからない。言っているそばから水は噴水のように吹き出し、天井に当たって二人を濡らす。


 雨よりも激しい水が降ってきて、シエラはどうしていいかわからなかった。


「どっどうしよう!? 止め方がわからないわ!」

「落ち着け」

「部屋が水浸しになっちゃう!」

「落ち着けシエラ!」


 エルヴァティアの声は届かない。このまま水浸しになったらどうなってしまうのか。


 パニックで何も考えられずにいると、唇が塞がれた。


「んっ……!」


 シエラは目を見開く。柔らかな感触と、あたたかな温もり。


 それがエルヴァティアの唇であることに気づくのに時間はかからなかった。


 ゆっくりと唇が離れていく。


 彼の長いまつげが揺れた。彼の前髪から滴る雫がシエラの頬に落ちて跳ねる。


 いつの間にか水は止まっていた。


「落ち着いたか?」


  シエラは思わず唇を両手で抑えた。


(今のって、キ、キス……!?)


 シエラは膝から崩れ落ちる。尻を床に打ちつける直前に、エルヴァティアがシエラの腰を支えた。


「どうした?」

「い、今の……!」

「そなたが興奮しておったから落ち着かせただけだ」

「だからってキ、キスしなくてもっ!」


 エルヴァティアの触れている部分が熱い。


「我とそなたは伴侶となる予定なのだからそのくらいよかろう?」

「へ……? 伴侶!?」

「よいと言ったではないか」

「いつ?」

「刺繍をしているときだ。我の愛の言葉に確かに『いい』と言っておった」

「嘘……!」

「本当だ。我は気高き魔法使い。嘘はつかぬ」


 エルヴァティアが宙に手をかざすと、壁に人が映し出された。――シエラとエルヴァティアだ。


「えっ!? 私!?」


 シエラは壁に映し出された人を見て目を丸める。鏡のように自分自身が映し出されているが、鏡のように同じ動きをしているわけではない。


 壁に映し出されたシエラは刺繍をしていた。隣にはエルヴァティアが楽しそうにその刺繍を覗いている。


『我はそなたが気に入った。シエラ、ここを出たら伴侶の誓いを立てよう』

『んー……』

『いやか?』

『いいわよ。ここから出たらね』


 シエラは刺繍から目を離さずに頷いた。記憶にはないが確かに『いい』と言っている。


 エルヴァティアはどうだと言わんばかりにシエラを見た。


「我は嘘はつかぬ」

「このときは刺繍に集中していて……!」

「諦めろ。我はそなたが気に入った。刺繍をする手も、楽しそうに刺繍をしているときの目も。その困った顔もすべてな」

「そ、そんなこと言われても……!」


 シエラは恋愛とは無縁の人生だった。シエラには王太子という婚約者がいたし、元々社交的な性格ではなかった。


 王太子が青春を楽しんでいるあいだも、ずっと刺繍と向き合ってきたのだ。生まれて19年。こんなまっすぐに好意を向けられたことがあっただろうか。


 シエラは頬に熱が昇っていくのを感じた。


「我を伴侶にするとお得であるぞ」

「お得って……」

「まず、魔法が得意だ。我にできぬことはない。生きることに困らないであろうよ」

「そう」


 しかし、シエラは公爵家の令嬢だ。彼と伴侶にならなくても生活に困ることはないだろう。


「ふむ。あまり魅力的ではないようだ。では二つ目だな。我には身分やしがらみがない。つまり、そなたの嫌いなパーティーも不要ということだ。好きなだけ我の横で刺繍をすることが可能だ。我も魔法の研究で忙しいゆえ、外に出るよりも中を好む」


 エルヴァティアは満面の笑みを向けた。シエラは目を見開く。


「つまり、あなたと結婚したら刺繍し放題?」

「無論。新しい模様の研究にも力を貸そう」


 エルヴァティアの描く不思議な模様は魅力的だ。しかも社交も不要とは。エルヴァティアが目の前にぶら下がった人参に見える。


「どうだ? 少しは魅力を感じたか?」

「で、でも! こういうのは簡単に決められないわ! 結婚となればお父様の許可もいるし……。まずはお友達から……」

「……お友達か。恋人でもなく?」


 彼の紫色の瞳に影が差した。


「だめ? だって、まだ私はあなたのこと全然知らないし……。恋人になるのはそれからってことで……」


 シエラには出会って二日目で恋人はハードルが高い。親同士の決めた婚約者であれば仕方ないと受け入れる覚悟はあるが、自分の意志で決める恋人となると話は別だ。


「それは前向きな返事と見てよいか?」

「もちろん。今のところあなたのことは嫌いじゃないし、嫌いな相手だったらお友達からなんて言わないわ」

「そうか。ならば受け入れよう」

「前向きじゃなかったらどうだったの?」

「二人だけの世界に閉じ込めるところであった。それも悪くなかろう? 我とそなた、二人だけの世界でのんびりと生きる。一人であれば寂しいが、二人だったら楽しいだろう」


 彼は笑みを深める。冗談のような話だが、冗談ではなさそうだ。


 刺繍に没頭する毎日は魅力的だが、閉じ込められたいわけではない。家族には会いたいし、友達が全くいないわけでもないのだ。


 何もない世界で二人きりは荷が重い。


「絶対だめ! とにかく、親交を深めてからってことで……」

「よかろう。我のよさをたくさん知ってもらおう」


 エルヴァティアはシエラのこめかみに口づけを落とす。自然な流れだったが、シエラは叫び声をあげた。


「どうした? そんなに驚くことか?」

「キ、キスはだめ!」

「唇ではないからよかろう」

「口とかそういう問題じゃないの! 友達はそんなことしないもの!」

「だが、そなたのことが好きな友だ。愛情表現は必要であろう?」


 彼が真面目な顔で言う。彼の手がシエラの頭を撫で、髪をすくう。


「友である以上、唇は耐えよう。しかし、どこにも触れるなというのは寂しい」


 本当に寂しそうな顔だった。良心のとがめを感じさせるような表情に、シエラは言葉を詰まらせる。しかし、親指の腹で唇を拭われて、顔を赤らめた。


「わ、私は節度のある人が好きなのっ!」

「……そうか。では致し方あるまい。では、指先はどうだ? これは挨拶だ」


 エルヴァティアはシエラの右手を取ると、指先に口づける。上目遣いで見られて、顔に熱が集中するのを感じた。


「そ、それくらいなら……」

「うむ。今はその程度で満足いたそう」



 ◇◆◇



 非常に困ったことにエルヴァティアが来てから生活が快適になった。


 寒さに震えることはなく、綺麗な飲み水も簡単に得られる。ベッドも最高級かというくらいふかふかで、侍女のサラと一緒に感動の毎日だ。


 彼の言う『お得』とはあながち間違いではなかった。


「シエラ。そなたの言っていた『ふわふわなパンケーキ』とやらを作ってみたがどうだ?」


 刺繍を終えたころ、シエラの部屋である3階にエルヴァティアが顔を出す。彼は最近、魔法を使った料理に目覚めたようだ。昨日会話の中でポロリとこぼした「パンケーキが食べたい」という希望を叶えてくれたらしい。


 目の前に差し出されたのは、見たことのある形だ。平たい円のパンが三段に重なっている。


 砂糖の甘い匂いが漂ってきた。


「美味しそうっ!」

「うむ。味見をしてほしい」


 差し出されたナイフとフォークで一欠片を口に入れた。


「おいしいっ! さすがエルね。口の中で溶ける」


 エルヴァティアが目を細めて笑う。いつの間にか、エルヴァティアのことを『エル』と呼ぶようになり、お友達からはじめた関係はある種綱渡りのような状態だ。


 エルヴァティアの気持ちが変わらない以上、あとはシエラが一言「好き」と言えば変化する。シエラはまだ、その「好き」という感情を理解できていなかった。


(確かに、エルのおかげで快適だし、サラと二人きりの生活よりも楽しいけど……)


 まだこのままで。異性との関わりなどほとんどなかったせいか、彼が近づき過ぎると、心臓の音が速くなる。彼が今まで見た中で一番綺麗だからかもしれない。 


「エルは外に出てもいいんだから、もっと自由に過ごせばいいのに」

「なんだ? 我を追い出すのか?」

「違うわ。北の塔にいたら異空間だっけ? その異空間にいたころと変わりないでしょう?」


 エルヴァティアと暮らして知ったことだが、彼は世界に名をとどろかせた天才魔法使いだったらしい。


 一人で研究できる場所がほしくて異空間を作り、魔法陣で異空間とこの北の塔の最上階を繋げた。しかし、何らかの衝撃で北の塔の魔法陣が一部欠け、繋がりが消えてしまったのだ。


 シエラと一緒に北の塔で過ごしていては、異空間に閉じ込められているのと何ら変わりないように思う。せっかく出られたのだから、変わった世界を見て回りたいのではないだろうか。


「ここは異空間とは違う。そなたの温もりがあるではないか」


 エルヴァティアがシエラに身体を寄せた。彼とくっついた左腕があたたかい。シエラはその温もりを振り払うために、パンケーキを一口口に入れた。


「そなたの隣は穏やかで心地いい」


 エルヴァティアの頭がシエラの肩に乗る。


「ずっとここに二人で暮らすのも悪くはないと思わないか?」

「悪くないけど、二人でいろんなところを見て回るのも悪くないと思わない?」

「二人で?」

「だめって言ってもついてくるでしょう?」

「ああ、そのとおりだ。よくわかっているではないか」


 シエラとエルヴァティアは顔を見合わせて笑った。


「外に出たら色々案内してあげる。昔とは変わったと思うけど、今も悪くはないはずよ」

「それは楽しみだ。実のところ、我は研究ばかりで町を歩くことなどほとんどなかった」


 エルヴァティアもどちらかというとインドア派だ。彼は鍵など必要なく北の塔を出入りできるが、ほとんど塔から出ることはない。


 必要なときにふらりと出て行って、数時間で帰ってきてしまう。


(エルのこと紹介したら、みんな驚くわよね。でもこんな目立つ人隠してもおけないし……)


 魔法使いと言って理解してくれるかはわからない。今は魔法を使える者など存在しないのだ。


「我の顔に何かついておるか?」


 エルヴァティアが首を傾げた。


「お父様に紹介したら卒倒しそうだなって考えていたの」


 泡を吹いて倒れるかもしれない。シエラの言葉を聞いて、エルヴァティアの頬が上気する。


「とうとう我を恋人として紹介する気になったか!」

「ち、違うわ!」

「何が違うというのだ? 紹介とはそれ以外になかろう。それとも今の時代は別の意味でも使うのか?」

「それは……違わないんだけど……」


 たしかに、異性の友人を紹介などありえない話だ。だが、話が飛躍しすぎではないだろうか。


「ここを出たら家族に秘密で会うなんてできるわけないんだから、紹介しないとダメでしょう!?」

「ふむ。確かにそうだ。ならば、恋人候補として挨拶しよう。そなたの家族ならば我の家族と相違ない」


 エルヴァティアは満足そうに笑うと、皿に載ったパンケーキを一口食べた。


 パンケーキの甘い香りが部屋を満たす。



 ◇◆◇



 今日は静かな日だ。


 エルヴァティアは珍しく朝から出かけている。魔法の研究に必要な物を山に取りに行くのだと言っていた。竜の髭というものが必要なようだ。


(竜なんて伝説の生き物だと思うけど……)


 物語でしか見たことのに生き物だが、エルヴァティアは山奥には本当にいるのだという。


『一日もかからぬゆえ、不安に思うな』


 そう言って、彼は出かけていった。


「ねえ、サラ。あとどのくらいで戻ってくるかしら?」

「お嬢様、まだ出かけて一時間も経っておりませんよ」


 サラは楽しそうに笑う。


 シエラは時計を見て目を丸めた。本当に一時間も経っていない。


 ただエルヴァティアがいないだけで、いつもよりも時間が経つのが遅く感じる。


「せっかくだから今のうちに刺繍を終わらせましょう」


 エルヴァティアが帰ってきたときにたくさん話を聞けるように。竜が本当にいたのか。竜の髭は何に使うのか。聞きたいことはたくさんある。




 しかし、そんなシエラの楽しみは王国の兵士が来たことで消え去ってしまった。


「シエラ・ランドール。王太子殿下がお呼びだ」

「殿下が? 私に?」


 今更なんの用だというのか。彼はシエラとの婚約を破棄した上追い出すことに成功し、満足したのではないのか。


「その呼び出しには応じることはできません」


 シエラは兵士に顔を背けた。


(エルが帰ってきたとき、もぬけの殻だったらかわいそうじゃない)


  「申し訳ございませんが、必ず連れてくるようにと命じられておりますので」


 それだけ言うと、兵士たちは無理やりシエラを北の塔から連れ去った。



 ◇◆◇



 王宮に連れてこられるのかと思えば、まったく別の場所だった。北の塔から馬車で半日ほど走った古びた屋敷だ。


 王太子が呼び出したとは思えないほど粗末な建物だった。しかし、王太子がシエラを呼び出したのは間違いない。この廃墟には不相応な煌びやかな服を着た男が立っている。


 それにしても、なぜ今更こんなところに呼ばれたのか。シエラはため息を吐き出して王太子を見た。


「なぜ、このような場所に呼ばれたのでしょうか?」


 婚約を破棄し、幽閉までされてあげたのに。これ以上振り回さないでほしい。シエラは北の塔で楽しく過ごしている。王太子と新しい恋人の邪魔をするつもりは一切ないのだ。


「シエラ・ランドール。おまえはもっと賢い人間かと思ったが、どうやら違ったようだな」

「殿下。私には何のことだかわかりません」

「おまえだろう? 私の恋人を害したのはっ!」


 王太子が叫ぶ。シエラは目を瞬かせた。


(その話は私と婚約破棄をして、さらに幽閉して解決したのでは?)


「何とか令嬢をいじめたとかそういう話ですか?」

「これはいじめではない! 殺人未遂だっ!」

「殺人、未遂?」


 シエラは首を傾げた。苛立った王太子は口早に言う。


「先日、我が恋人の食事に毒が盛られた! おまえがランドール家の手下の者に指示をして毒を盛ったのであろう!」

「証拠もなしに、それは言いがかりではありませんか」


 頭が痛い。幽閉されているシエラを犯人だと断定するほど恨まれるようなことをしただろうか。


「心優しい彼女を恨んでいる者などおまえ以外、考えられない!」

「そこまで疑うのでしたら、こんなところに呼び出すのではなく、裁判なりしてください」

「公爵家の令嬢だからと思い幽閉で済ませてやったが、これ以上彼女を害するのであれば別だ。今日、ここで死んでもらう」


 王太子の顔が歪んだ。


「法に則って罰するわけでもなく、殿下自らの手で処刑するとおっしゃるのですか?」

「ああ。ランドール家はいつも姑息な手を使い、証拠を隠滅する。前回だってそうだ」


(証拠隠滅もなにもやっていなんだけど……)


 きっと説明したところで、彼は理解できないだろう。


「おまえがいる限り、私たちは安心できない。だから、死んでもらおう!」


 王太子の目は本気だ。シエラはぎゅっと手を握り締める。男と女という力の差、シエラには武器もない。この屋敷から逃げ出したところで、外には兵がいる。逃げられる可能性はほとんどない。


(こんなところで死ぬなんて……)


 まだ、刺繍したい図柄がたくさんあった。エルヴァティアの描く魔法陣はどれも魅力的で、シエラの創作意欲を掻き立てる。水を出す魔法陣に始まり、いろいろと刺繍を施した。いまだ魔法を使うと止め方がわからず、エルヴァティアの助けがいるのだが。


(そうだっ!)


 シエラはポケットを探る。たしか、昨日刺した刺繍をポケットに入れていたのだ。帰ってきたら聞こうと思っていたから、なんの魔法かはまだ聞いていない。


 シエラは刺繍入りのハンカチを取り出すと、握り締める。


(身体に巡るマナを流す感じでっ……)


 シエラはマナを手のひらへと流していく。じんわりと手のひらが熱くなった。


(いけっ!)


 魔法陣を施したハンカチが手から離れ、ひらひらと床に落ちていく。そのハンカチから火花が散った。


 ドンッと大きな音を立てて上がった火花は天井を突き破る。天井に大きな穴を開け、大空に咲いた。


(花火かぁ)


 そういえば、この図案を渡されたとき。「二人で見よう」とか言われたような気がする。


(二人では見れなかったな)


 こんな簡単に殺されるのであれば、さっさと逃げればよかった。エルヴァティアと一緒ならどこだって楽しかったのではないか。


「こんなときに花火とは、なんの真似だ?」

「ちょっと、感傷に浸ってるときに声をかけないで」


 こっちは死を目前にして好きな人の顔を思い浮かべているというのに。


(す、好き!? 今、私エルのこと好きって――)


 シエラは頭をぶんぶんと横に振る。好きなわけない。彼は友人であり、同居人であり、魔法の師匠だ。シエラの混乱をよそに、花火はいまだ打ちあがり続ける。空高く上がり、花のように咲く。


 魔法を使うことはできても、魔法を止めることはできないのだ。流れ続けるマナをどう遮断すればいいのだろうか。


「何がなんだかわからんが、お前は死んでもらうっ!」


 王太子が剣を振り上げた――その時だ。強い風が吹く。目も開けられないほどの強い風に、シエラは強く目をつぶった。シエラの髪が舞い、ドレスのスカートも舞い上がる。


 風によろめいた瞬間、ぎゅっと後ろから抱きしめられた。


「貴様が我の伴侶を連れ去ったのか?」

「エル……!?」


 いるはずのないエルヴァティアの声にシエラは驚き見上げる。アメジストの瞳が赤く濁った。


 エルヴァティアが強くシエラの腰を抱く。その手はわずかに震えていた。


「おまえは誰だ!?」

「我が名はエルヴァティア。王国最強の魔法使いだ。まあ、今は誰も知らぬと思うがな。そなたがあの男の子孫か。ふむ、目元がよう似ておる」

「魔法……使い? 馬鹿馬鹿しい! 魔法などおとぎ話でも読み過ぎたか?」


 王太子は鼻で笑った。彼の気持ちがわからなくもない。エルヴァティアに会う前に、シエラも同じように魔法使いはおとぎ話の世界にしか存在しないと思っていたのだ。


「おとぎ話か。なるほど、面白いことを言う」


 エルヴァティアは目を細めて笑った。


「ではおとぎ話の悪い魔法使いのように、そなたにはとっておきの呪いを贈ろう」


 エルヴァティアが王太子に手をかざすと、彼はたちまちカエルへと変化した。


 手のひらほどの小さいカエルが、シエラに向かってぴょんっと跳ねる。


「わっ! カエル!?」

「ああ、安心いたせ、真実の愛があればこの呪いは解ける。おとぎ話とはそういうものだろう?」

「真実の愛?」

「そうだ。このカエルを本当に愛した者からの口づけで、もとに戻るだろう。そのあいだ、我が伴侶に手を出そうとしたこと悔やむがいい」


 エルヴァティアがパチンッと指を鳴らすと、カエルは姿を消した。


「いなくなったわ!」

「私もここに置き去りにするほど悪魔のような男ではない。あやつの部屋に返してやった」

「なるほど……」


 今ごろ、広い王太子の部屋で小さなカエルが呆然としているのかもしれない。その姿を想像してシエラはプッと小さく噴き出した。掃除をしに来たメイドたちに追い払われているかもしれないのだ。


「そういえば、どうしてここが?」

「そなたがここを教えてくれたではないか」


 エルヴァティアが空高く咲く花火を見上げる。いまだシエラのマナを吸い上げ、定期的に花火が上がる。


「ねぇ、これどうやって止めたらいいの?」

「そなたは魔法の才はあるが、少し不器用なようだな」


 エルヴァティアがくつくつと笑った。そう言われるのも仕方ない。


 彼は大きなため息のあと、しっかりとシエラを抱きしめる。思った以上に強い力にシエラは目を見開いた。エルヴァティアはシエラの肩に顔を埋める。


「我にはもう両親も友もいない。一人ぼっちだ。サラにそなたが連れていかれたと聞いたとき、肝が冷えたぞ」

「……ごめんね」

「我を一人にしないでくれ」

「うん、ごめん。これからはずっと一緒にいるよ」

「では、我の伴侶と認めるか?」

「うん、認める。ずっと一緒にいるわ」


 もう、後悔はしたくない。顔を上げたエルヴァティアが驚きの表情でシエラを見た。


「私もエルヴァティアが好きだって、気づいたの」

「本当か? 我の伴侶になると?」


 エルヴァティアの問いに、シエラは小さく頷いた。彼と一緒ならどこにいたっていい。きっと、毎日が楽しいだろう。


 エルヴァティアの手がシエラの頬を撫でる。親指で唇をなぞった。


「よいか?」

「そういうのは、聞かなくていいと思う」


 シエラは笑うと、かかとを上げて背伸びし、そっとエルヴァティアの唇に自分の唇を重ねた。


 いつの間にか、花火は止まっていた。




 END






最後までお読みいただきありがとうございます。

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【追記】

誤字報告、いいねありがとうございます( ˊᵕˋ*)

【追記2】

感想ありがとうございます( ˊᵕˋ*)♡

忙しくてお返事がなかなか書けない状況なのですが、すべて拝読させていただいてます!



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― 新着の感想 ―
[一言] カエルになった王太子とその周辺はどうなったのか気になります。 シエラを連れ去ったのにその場には王太子が居ないとなると騒ぎになりそうですし、、そもそもシエラの冤罪も晴れてほしい、、、!
[一言] 続きを読みたくなります。 二人のその後と、王子サイドのその後を覗いてみたい。
[良い点] 展開がテンポ良くダレない [気になる点] 王子はどうなったーー カエルがベッドにいたらメイドか近衛にプチ!される!? 気になるぅ!! [一言] 楽しく読ませていただきました
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