3.「離婚しましょう」(2)
このような琳の声色を知らない。いつだって穏やかで丁寧で、けして感情を表そうとはしない声であったのに。
「はい。わたしは卯月乃彩から睦月乃彩となりました」
「いこう、乃彩」
「はい」
遼真の手は、自然と乃彩の腰に回ってきた。これだけ密着したら恥ずかしいとさえ思えるのに、今はそのような気にもならない。
帰る前に自室に戻り必要最小限の荷物だけ詰め込む。
遼真は黙ってそれを手伝っている。何も言わないほうが逆に助かった。
「お姉ちゃん……」
顔をあげると、ドアの前に莉乃が立っていた。その両隣には双子の弟がいる。
「家、出ていくの?」
「ええ。結婚したから。今までだって何度も結婚したもの。それとかわらないでしょう?」
「結婚ったって、どうせ治癒のためだったじゃない? 結婚したって、この家にいたくせに。この家から旦那さんのところに通ってたんでしょ? 通い婚だったじゃない」
遼真が何か反論しかけたところを、乃彩は手で制す。
「それは、治癒のための結婚だったから。今回は違うわ。好きな人と結婚をしたの」
両親や乃彩の前では遼真を好きな人、愛する人と表現するが、それはその場しのぎの嘘である。さきほど会ったばかりで、好きだのどうのこうのという感情にはならない。
ただ、彼の呪いを解き、彼の命を救いたいだけなのだ。
「私たちを見捨てるわけ?」
「見捨てはしない。莉乃がわたしを必要としたときは、助けにくるから」
いくら生意気であっても妹は妹。血の繋がっている家族。それは弟も、もちろん両親も。
「莉乃。ごめんなさい。わたし、これ以上この家にいると、ダメになる……」
両親はこれからも乃彩の力を金儲けのために使うだろう。そうやって『家族』を増やして『家族』を失うたびに、乃彩の心は悲鳴をあげていた。
乃彩の力は家族を救うためにある。けして、この力で金儲けをしたいわけじゃない。
「乃彩姉……」
双子の弟たちも、不安そうにこちらを見ている。だけど乃彩は荷造りの手を止めはしなかった。
荷物でぱんぱんに膨れ上がった鞄を、遼真は黙って手にした。
「ありがとう。さようなら」
乃彩は妹たちにそう告げると黙って部屋を出る。
「お姉ちゃん!」
「乃彩姉!」
彼女たちをこの家に置いていくのは、心が痛む。だけど今は、遼真を助けたい。両親は弟妹たちをまだ利用しないだろう。そう、まだ。
だから遼真を助けるほうが先なのだ。彼の呪いを解いたら彼と離婚して、またこの家に戻ってくればいい。
そのときにはきっと、遼真も後ろ盾になってくれるはず。彼が言った卯月家と睦月家の結びつきができるはず。
きゅっと唇を結んで、乃彩は家を出た。
家の前には啓介の運転する車が止まっていた。
「ここまでくれば、もう大丈夫だろう」
「はい。両親も睦月家が相手だから、下手に動けないと思います。ご協力、感謝いたします」
「なんだって、事務的だな。早く乗れ」
乃彩の荷物は啓介がさっさとトランクに詰め込んでいた。
遼真にうながされ、車へと乗る。
車の中から遠ざかる家を見ると、胸の奥がツンと痛んだ。
手にあたたかい何かが触れたと思ったら、遼真が手を繋いできた。
「俺たちは夫婦になったんだろ? 妻が悲しんでいたら、それを取り除きたいと思うのは夫の役目じゃないのか?」
「ですがわたしたちは、愛し合って結婚したわけではありません。お互いをお互いに利用するため。わたしはあの両親から離れるために、あなたを利用しました。あなたは解呪のためにわたしを利用する。それでよろしいではありませんか」
彼は何か言いたげに口を開きかけたが、ふっと鼻で笑うだけだった。
遼真と結婚したといっても、乃彩にとっては今までの四回の結婚となんら変わりない。解呪のために結婚をしたことに、違いはない。
「遼真様。今、お時間はよろしいでしょうか?」
彼の部屋の扉をノックすると「入ってこい」と返事があった。
「どうした? 眠れないのか? それとも、結婚した日の初日だからな。初夜をご所望か?」
風呂上がりの遼真からは、色気が溢れていた。髪の先は濡れており、雫がしたたって、首にかけてあるタオルがそれを吸い込む。
「いいえ。解呪を試してみたいと思いました」
「冗談が通じないやつだな」
遼真の言葉に、乃彩は淡々と続ける。
「何度も申し上げたはずです。わたしと遼真様の結婚は、遼真様の解呪のため。睦月公爵家の当主が、後継を決めずに亡くなったら、術師界の揉め事の原因となりますから」
「なるほど。だから俺の妻は早く後継を望みたいと?」
「ですから、その呪いを解呪します。そうすれば、遼真様もきっと長生きできるはずです」
会話がかみ合っているようでかみ合っていない。いや、遼真の言葉をまともに取り合ってはいけないのだ。彼は、乃彩をからかっているだけ。
「俺の妻は、照れ屋だな」
「照れておりません。事実を申し上げているだけです」
「そして、冷たい。これが、塩対応というものか。それもいいな。砂糖だけでは甘みが麻痺してしまう。隠し味的にも塩をいれるしな」
先ほどから遼真が何を言っているのか、さっぱりわけがわからない。じろりと睨んでから、彼の手をとった。
「では、解呪に入らせていただきます。くれぐれも不埒なことはなさいませんように」
今までの結婚は、すでに相手がいた男性が多かった。独身だったのは若梅男爵くらいであったが、そのときは彼の妹の治癒を行ったのだ。
「不埒? 不埒とはこういうことか?」
いきなり遼真が顔を寄せ、乃彩の頬に口づける。
「なっ……!」
「真っ赤になってかわいいな。離婚歴が四回もある女性とは思えない」
唇が触れた頬を、慌ててごしごしと拭う。
「ひどいな。人を雑菌扱いして」
「不埒なことはなさいませんようにと言ったばかりです。人の話を聞いていなかったのですか?」
ははっと笑っている遼真には、何を言っても効果はないのかもしれない。
大げさに息を吐いてから、乃彩は解呪を試みる。
彼の霊力を探り、それを蝕んでいる原因を突き止める。もやっとした黒い何かを感じ、そこに乃彩の霊力を送り込む。さすがにその間、遼真は乃彩に触れたり変なことを口にしたりはしなかった。
「今日の分は終わりです」
ふぅと息を吐いて、うっすらとした額の汗をぬぐう。それに気づいた遼真は、肩にかけていたタオルで乃彩の汗を拭きとった。柑橘系の香りがした。
「ありがとう。少しだけ、頭がすっきりした感じがする」
「ですが、この呪いは根が深いです。さすが酒呑童子の呪いなだけありますね。時間がかかりますので、毎日少しずつ、解呪していきます」
「つまり、毎日寝る前に、こうやって俺に会いに来てくれるわけだ。いっそのこと、同じ部屋にしたほうが効率はよいのではないか?」
遼真が乃彩の手を掴んだが、彼女はじろっと睨んでからその手を振り払った。