2匹目 ^•ω•^^•ω•^
「…………」
言葉を無くす私を横目で満足げに見て、ユーキス殿下は歩みきた件の令嬢の隣に立つと、その御方の腰に馴れ馴れしくも腕を巻きつけます。
「マリヴェールが驚くのも無理はないさ。彼女ほどの美貌の持ち主は、我が国にそうはいないだろうからね」
勝ち誇ったようにおっしゃる殿下ですが、今しがたの私の無言はそういう意味ではありません。
勘違いを訂正しようと口を開くより、《真実の愛》さんの動きの速さが勝りました。無駄のない手つきで腰に巻かれた殿下の腕をほどくと、固めた表情筋を一切動かさないまま右手を高々と振り上げたのです。そして――。
「へぶっ!?」
ユーキス殿下の頬を、思いっきりはたいたのでした。
ぱんぱん、と掌を打ち合わせて一仕事終えた感を出しますと、《真実の愛》さんが今度は私に向き直ります。礼を失さぬよう、私は即座にカーテシーでそれに応えました。
「な……なな、なにをするんだ! いきなり頬をぶつなんて!」
手で頬を押さえて、涙目のユーキス殿下が抗議の声を上げます。
しかし、《真実の愛》さんは――この言い方いい加減やめましょうか――レッゾキール侯爵家がご息女ソプラノ・フォン・レッゾキール様は、内側から湧き上がる不快感を隠そうともされずにおっしゃったのです。
「お言葉ですが、失礼なのはあなたの方ですよユーキス殿下。いきなり私の腰を奪うだなんて、いったいどんな了見があってそんなことなさったんですか」
おや? お二方の間には《真実の愛》があったのではなくて?
私が不思議に思ってきょとんとしていると、頬の痛みから回復されたユーキス殿下がへつらうような笑みを作られました。
「言葉じゃないかソプラノ~。僕と君の仲だろ~?」
「仲? いったいどのような関係性だというんです」
「またまたぁ、照れちゃってもう」
ええっとこれは、ひょっとして、ユーキス殿下ってばなんの事前打ち合わせもなく女性に呼びだしをかけられたのでは……?
まさかそんなことが、と思う私の予想は当たってしまったようです。ユーキス殿下必死の説得にもほだされることなく、ソプラノ・フォン・レッゾキール様は首を逆側に向けて、ツンと鼻を上げてそっけなくされました。
「ほら、マリヴェールに見せつけてあげようよ」
「さっきからなにをおっしゃっているんですか」
「そこをなんとか」
「だから無理ですって。というか殿下、ご自分のお立場考えられてます?」
殿下に纏わりつかれて頭痛を我慢されるような表情を見せられるソプラノ・フォン・レッゾキール様は、たしかに家格の高い出自のご令嬢でした。
レッゾキール家は王国四公に次ぐ権勢を誇り、一時は公爵領に繰り上げて五公とすべきではないかと議題にも上がったほどです。まあそれは現王の「四公の響きはカッコいいけど、五公じゃなんか締まらんだろう……」との鶴の一言で惜しくもなくなってしまったそうですが。
ともかくそんな名家の生まれですから王太子妃として恥ずべきところはありません。もっとも、お相手が断固として拒否される理由も私にはわかっているのですけれど……。
いい加減気まずくなってきましたので、私の方からも挨拶するとしましょう。
「申し訳ありませんソプラノお姉さま。このようなことに巻き込んでしまい……」
恭しく頭を垂れると、ソプラノお姉さまは苦笑いを見せてくださいました。
「気にしなくていいですよ。呼びだしたのマリヴェールじゃありませんし」
「お姉さまはご多忙な身。こうしている間にも大切なお仕事が」
「早出して済ませてきたから平気です。それより……問題は殿下の方でしょ」
促されて2人同時に注視したことで、ユーキス殿下もお気づきになられたようです。
「え? なに? 2人って知り合いだったの?」
「ええ」
「まあ」
深く頷き合ってから、口を開かれたのはソプラノお姉さまでした。
「王太子殿下にあられましては既にご存知のことと思いますが、当学園女子寮においては白百合制度という独自の制度がございます。上級生が下級生の面倒を見る名目で、疑似的な姉妹関係を結ぶのです」
「つまるところ、私とソプラノお姉さまは義姉妹の関係なんですの」
眼を白黒させるユーキス殿下は初耳といったご様子でしたが、なるほどそういうわけか、とコクコク頷いてご存じな風を装われました。
「無論僕も、その可能性を考えたことはあったさ」
「では辻褄も合ったところで私はお暇させていただきたく」
「ああ、いや、ちょっと待ってくれ!」
クールに立ち去ろうとなさるソプラノお姉さまを、ユーキス殿下が焦って呼び止められます。
「ソプラノ、君こそが僕の《真実の愛》なんだ。どうか僕と一緒になってくれ!!」
それは求婚というより、焦った弾みで言ってしまった感バリバリの文言に聞こえました。ソプラノお姉さまにしてもそうだったらしく、アーモンド形の瞳を眇めて思いっきりジト眼にされています。
「……またしても失礼ですが、そのような申され方で淑女の心が靡くとお思いですか。そもそも私たち、接点らしい接点を持ってないじゃないですか」
それは私の方の初耳でした。いくら王太子の身分を持つとはいえ、そのような女性を呼びだして妻に迎えようだなんて無謀が過ぎる……。
しかしユーキス殿下はそうはお思いにならなかったらしく、眼を見開かれて心底から驚いた風の表情をされました。
「驚いた。2週間前に開かれたジギストル伯子息の誕生会をもう忘れたのかい」
「たしかにあの場には私もおりましたが」
「情熱的な夜だった。僕たちは夜通しダンスパーティに興じていたね」
「失礼ですが、私のパートナーはユーキス殿下ではありませんでしたよ?」
「それは知ってる」
私は首を捻り、ソプラノお姉さまもまた首を捻ります。
ユーキス殿下だけがえへんと胸を張って、威風堂々こうおっしゃったのです。
「そこで僕たち、眼が合ったろう」
「「はい?」」
私とソプラノお姉さまの声は、ほぼ同時に発されました。
誰が聞いても呆れ返ったとわかる声。しかしユーキス殿下は意に介しもしなかったのです。
「君の瞳に、僕は《真実の愛》を見た。であれば当然、君も同じく僕の瞳に《真実の愛》を見たはずだ。僕とマリヴェールの婚約が解消されれば、2人の愛を阻む障害はなにもない。さぁ……結婚しよう!!」
ソプラノお姉さまに手を差し伸ばし、歯をキラーンと光らせてユーキス殿下は改めて求婚されました。
対して、私たちと殿下との間には冷たい風が吹いたような気がします。
「お断りいたします」
「そうかそうか……って、あれ、なんで?」
「いちからですか、いちから説明しないとダメですか」
額に手を当てるソプラノお姉さまのお顔に心労が滲みます。
「ええと、言いたいことは山ほどあります。けれど殿下はひとつ大事なことをお忘れになっているので、それをまず思い出していただければと――」
そのように促して、ソプラノお姉さまは殿下に水を向けたのですが、どうにもちんぷんかんぷんなご様子だったのでご自分でおっしゃることにされたようです。
「私、聖女になりましたよね」
「そうだね」
「聖女は結婚できません」
ひょっとするとご自分の不明を恥じられる場面だったのかもしれません。しかしユーキス殿下は逆に爽やかな笑みを浮かべてこう申されたのです。
「仕方ないな。辞めてくれ」
「できません」
「えっどうして?」
「聖女の座は女神教会から選ばれるものであって、自分の意思で辞任できるようなものではないからです……仮にも王子なのですから、あなたもこのくらいご存じのはずでしょ」
ふはあっと溜息を吐かれたあとの口調から、段々と目上の人物に対する遠慮が抜けていっているのがわかります。とても危険な兆候です。ソプラノお姉さまはあまり気の長いたちではありません。
「お姉さまお姉さま」
私はソプラノお姉さまの気を引き、どうか堪忍してやってくださいとのアイコンタクトを飛ばしました。お姉さまは軽く挙手してそれに応えられます。
「それでは、今度こそ私はお暇させていただきたく」
「ま、待ってくれソプラノ! 僕の命の危機なんだ!!」
「命?」
真に迫った剣呑な物言いに、ソプラノお姉さまが返しかけた足を止めます。ここは説明役が必要な場面でしょう。私が買ってでます。
「実は……」
私の口から事情を伝え聞いたお姉さまは、怪訝な表情を浮かべて、ユーキス殿下のお顔をまじまじと観察されました。
「猫アレルギー、ですか」
情に訴えることに成功したと思われたのでしょうか、ユーキス殿下はコクコクとものすごい勢いで首肯されると、食い気味にこう申されたのです。
「君も由々しき事態だと思うだろ~? もし猫のせいで僕が倒れたら、この王国は立ち行かなくなってしまう」
「それで、私のかわいいマリヴェールに猫と離れて暮らせと?」
もはや遠慮のえの字も金繰り捨てられたらしく、ソプラノお姉さまは尊大に腕を組み、立ち姿勢を崩しておられます。
「ソプラノお姉さま、これは前代未聞の事態なのです。コールラン家の女が猫を連れず輿入れするなど、前例もないことで……」
「わかっていますよ。家のことですもの。マリヴェールが考え込むのも無理はありません」
ソプラノお姉さまに、ユーキス殿下の申し出を拒絶した私を咎め立てるつもりはないようでした。お話を切り上げ、今度はユーキス殿下に意識を移されます。
「それで、殿下は本気で私と結婚したいと考えておられるんですか」
本気で、という文言にアクセントをつけてお姉さまは申されます。
ユーキス殿下は、今日一の真剣な表情で応えられました。
「もちろんだとも。君ほど美しく、気品もあって、家格十分な女性はいない」
「最後のは引っかかりますけど、私のことを女として好いてくださってるという認識でよいのでしょうか」
「それで正解さ、マイハニー」
ばちこーん、とウインクが飛んできます。
もはや馴れ馴れしいのレベルを超えてべちょべちょし始めたユーキス殿下でしたが、ソプラノお姉さまは依然として冷静にその姿を観察し続けられていました。
やや間を置いて、次にソプラノお姉さまの口から出た言葉は、義姉妹だった私からしても信じがたいものでした。
「そこまで申されるなら、お受けいたしましょう」
「え、本当かい!?」
「ただし条件が。この場で私に誓いの口づけをくださいまし」
口づけ――キスの要求。
それは清らかな聖女らしくも、ソプラノお姉さまらしくもない要求のように思えました。純粋に考えれば殿方の愛の証明のためなのでしょうけれど、それは表向きの意味でしかないような気がしたのです。
ですがユーキス殿下はそう思わなかったようで、「ちょっと待ってね」と言い置くと、懐からリップクリームを取り出して唇に塗り始められました。そして――。
「んーまっ……よし、これで僕の準備はOK。あ、ソプラノも使っとく?」
「結構です。それでは肩を許しますので、誓いの口づけを」
「よしきた」
ソプラノお姉さまの肩に恭しく手を置き、ユーキス殿下がそのお顔をソプラノお姉さまのお顔に近づけてゆきます。
互いに目線が合った状態から、いくばくか距離を詰めたタイミングでソプラノお姉さまが先に瞳を閉じられました。それを見届けて、今度はユーキス殿下がゆっくりと瞼を閉じてゆかれます。
「……んー……」
互いの唇と唇が触れ合う間際に、私はそれを知りました。しかし口にすることは叶いませんでした。その前に眼前の光景が動いてしまったので。
ソプラノお姉さまが思いっきり、ユーキス殿下の頬を張ったのです。
「へぶぶっ!?」
パシーン!! という大音が、私たち以外に誰も観客のいない講堂内に反響します。
どうやらクリティカルヒットしてしまったらしく、ユーキス殿下はその場でくるくると回転されたあと、頭から床に突っ込みました。
「な、なんでまた頬をぶったの!? お父上にもぶたれたことないのに!!」
コケた姿勢からお顔を上げて、頬に手を当てて半泣きでぶー垂れてる辺り、今しがたご自分がなさったことをまるで自覚していないのでしょうね……。
思わず私、俗にいうジト目というものになってしまいましたが、ソプラノお姉さまもだいたい同じリアクションです。
ぱんぱん、とまたもご自分の手をはたくと、ユーキス殿下を一顧だにせず私へと向き直られます。
「お姉さま、本気だったのですか?」
「まさか。たしかめ算のようなものですよ」
……でしょうね。
「ま、待て!!」
納得する私たちの蚊帳の外に置かれたユーキス殿下が、ここで不服の声を上げられます。
「王子に対するこのような狼藉、聖女とて到底許せるものではない! 僕の口から、女神教会とレッゾキール家に正式に抗議させてもらう!!」
「別に構いませんよ? もっともその場合、私も恋仲でない聖女にユーキス殿下が迫ったと暴露せざるを得ませんけれど」
「ぐ、ぐぬぬ……」
私、少し驚きました。
やり込められて、ぐぬぬ、って唸る殿方って本当に存在するんですね……。
「マリヴェール」
名を呼ばれ、私はソプラノお姉さまへと背筋を伸ばします。
「こたびの騒ぎ、あなたに非がないことは私も承知しています。ですけど、その上で申さねばなりません。いずれ王妃たる身として、このような痴話喧嘩に聖女を巻き込むようなこと、二度とあってはなりませんよ」
わかりましたね、と念を押されるソプラノお姉さまに私は深く頷きました。
「女神様の御心に誓って」
「その言葉を聞いて安心しました。マリヴェール、私の大切な妹」
そうして、ソプラノお姉さまは寮生時代によくそうしてくれたように、私の頭をやさしく撫でてくださったのです。
「答えはあなたの目の前に。これは私からの宿題です。この事態を、あなた自身の手で見事に解決してみせなさい」
「わかりました、ソプラノお姉さま」
「また会いましょうね」
ニッコリと慈愛の笑顔を浮かべて、ソプラノお姉さまが踵を返されます。
その背に追いすがるように、ユーキス殿下が宙に手を伸ばされました。
「ああっ、待ってくれソプラノ! 僕のハニーソースイート! 君ノコトハ心カラ愛シテルンダー!!」
最後らへん、なんだかものすごい棒読みだったユーキス殿下へと、ソプラノお姉さまは足を止めて上半身のみ振り返られました。そして――。
「……癒すよ?」
それはさながら、泣いた子どもも即座に黙り込む究極のあんこくびし……セイクリッドスマイル。
まるでメデューサにでも見入られたように、ユーキス殿下も言葉を失くしてその場に固まってしまいました。