1匹目 ^•ω•^
「マリヴェール・フォン・コールラン! 君との婚約を……ええっぷしっ!!」
白く揺らめくふわふわな毛並み。猫目石にしか見えない碧のおめめ。
この偉大なるあざとい子猫がコールラン家に属して1月の時間が流れました。
『かわいくあれ』そして『あざとくあれ』。我がコールラン家は代々、愛猫に2つの魅力を求めます。新居を訪れたこの子の戸惑いは、いつしか理解に。そして主人である私への深い忠誠と愛情の念に変わっていったことでしょう。
ふだんのそっけない態度ではなく、それはこの子の鳴き声に現れるのです。
「な~ん」
はいかわいい。はいあざとい。
私は満点の鳴き声を放った新しい家族をやさしく腕に抱え直すと、思わずニッコリと笑顔を浮かべてしまいました。
――ところで、眼前の人物が眉根を寄せていることに気づきます。
「あら? ユーキス殿下、いたんですの?」
「いたんですの、じゃない……マリヴェール、今のちゃんと聞いていたか?」
問われて、記憶を探ります。黙考すること1秒――。
「聞きましたわ。殿下のとても大きなくしゃみの音を」
「違う、そうじゃない。重要なのはその前の文言だろう……」
ご自身の金の髪をくしゃりと掴んだユーキス殿下は眉根を寄せ、いったんは本題に切り込もうとして、少し言い直されたようでした。
「言ったはずだ。大事な話があると……だから猫は連れてくるなと」
「猫ではありませんわ」
私は新しい家族の頭をナデナデしながら訂正いたします。
「この子の名前はガンドラ・ウルトリウス・リムッソス・エウ・ジュリアスⅡ世。我がコールラン家の新たな家族にして、私の299匹目の寵猫なのですわ」
な~ん。名前を呼ばれたこの子は律儀に返事をしました。はいかわいい。
「ガン……ええと」
「ガンドラ・ウルトリウス・リムッソス・エウ・ジュリアスⅡ世。言いにくければジュリアスとお呼びくださって結構ですわ」
ねー? と確認を取ると、な~ん、と鳴いて快諾してくれます。はいかわいい。
とまあ、せっかく確認を取ったにも関わらず、ユーキス殿下は不服そうな態度を隠されもせず語気を荒らげます。
「そんなの猫でいい! ともかく婚約者である僕の言いつけくらい守ってくれ!」
随分と上からものを申されているようですが……。
「お言葉ですが殿下。休日のお昼時に私が多忙なのはご存知のはず。猫の手も借りたい時間に呼びだされたのは殿下の方ではありませんか」
売り言葉に買い言葉。呼びだす側の配慮の不足を指摘しましたところ、ユーキス殿下はそれは通らんとばかりに再び眉根を寄せられます。
「知ってる。君が猫の食事を作ってるからな。それも300匹分も」
「299匹ですわ」
「どっちでもいいさ。というか、猫のエサやりなんて侍女にさせとけばいいだろ」
「代々続くコールラン家のならいを私が反故にするわけにはまいりません」
……それに、この子たちの食事を用意するのは私の無二の楽しみでもあることですしね。
言っても詮なしと思われたのかもしれません。ユーキス殿下は怒りの矛を収められると、心底ウンザリされた表情を浮かべられました。
「猫屋敷。コールラン家が多額の寄付と引き換えに学園敷地内に建造した娘と猫のためだけの特別学生寮……まったく、公爵も酔狂が過ぎる……!!」
苦悩の滲む独白のあと、お顔を上げて再度私と対峙されます。
「忙しい時間に呼びだしてすまなかった」
「いえ。ご理解していただけたなら」
妥協の姿勢を見せてくだされば、歩み寄るに吝かではありません。
「大事な用があるのは本当なんだ。どうか、そのね……ジュリアスを向こうにやってはくれないだろうか」
王太子殿下ともあろう御方が低姿勢でお頼みなられたのですから、従わぬわけにはまいらないでしょう。
私は両腕に抱えたジュリアスの4本脚をそっと地につけ、しゃがんだ姿勢で用向きを終えるまで向こうで待つようジェスチャーを交えて指示しました。
ジュリアスはとても賢い子猫。すぐに反転してとことこと歩きだすと、道行きの途中でいったん足を止めて主人を心配するよう首を巡らせ、私に向かってな~んと一鳴きしてから舞台袖に姿を消していったのです。はいあざとい。
ジュリアスの後姿を見送ると、立ち上がって殿下に向き直ります。
「これでよろしいんですの?」
「ああ。では、仕切り直しといこうか――」
ビュッと空気を切るような流麗な所作で頭の上に掌のひさしを作る謎のカッコイイポーズを決め、殿下は反対の手の人差し指で私の顔を指差したのです。
「マリヴェール・フォン・コールラン! 君との婚約を破棄する!」
……こてっと、私が小首を傾げたのがおわかりでしょうか。
ええ、状況に関する突っ込みどころなら山ほどありました。ひとつずつつぶさに潰してゆくべきものでしょう。その端緒として、私はまず講堂内に高らかに響き渡ったユーキス殿下の自信満々なお声が気になりました。
「御冗談って、そんな大声でおっしゃるものではないと思いますけど?」
「じょ、冗談じゃない! 僕は本気だ!!」
勢い込んで否定されるなら、私もその方向で付き合わざるをえません。
「疑問なのですが、何故学園の講堂で婚約破棄を?」
身内同士の一大問題なのですから、内々で処理すべきものでは? といった意味で申したのですが、殿下は別の捉え方をされたようです。
「愚問だな。婚約破棄とはこのようにするものだ」
「ちなみにどこでお学びになった知識でしょうか」
「これだ」
堂々たる所作で懐からユーキス殿下が取りだしたるは一冊の本でした。表紙に少女趣味のかわいらしい絵柄が描いてあります。そのタイトルは――。
「『わたくしの不幸せな婚姻?』」
「妹から借り受けたものだ。聞くところ、王都でベストセラーになっているらしい」
ふふんっ、と鼻を鳴らして何故か得意げにされていますが、謎はまだなにも解けてはおりませんね。素直に訊ねましょう。
「見たところ恋愛小説のようですが、それと私の婚約破棄との間にどのような関係があるのでしょうか?」
「そんなの決まってる。小説冒頭で、主人公の令嬢は婚約者たる王太子に講堂に呼びだされ、衆人監視の元に婚約を破棄されるんだ。つまり今回、僕はそれにならったというわけさ」
えへんっ、と胸を張られているところ大変に申し訳ないのですが、私は周囲の状況を見渡して突っ込みを入れることにしました。
「婚約破棄を見届けるべき方々が誰もいないのですが」
「日曜だからね。誰も学園になんてこないさ」
「失礼ですが、ちゃんとお声はかけられましたの?」
「無論だ。すげなく断られてしまったが」
まだ胸を張っていられるのは、ある種の才能というものでしょう。
私は婚約破棄より、殿下の人望のなさにショックを受けてしまいました……。
「王族たる者、流儀に則るのが鉄則だ。最新のトレンドを取り入れた婚約破棄、マリヴェールも感謝してくれていいんだよ」
「婚約破棄されて喜ぶような令嬢がいたら、その娘はただのおばかさんな気がしますわ」
気を取り直しましょう。では次。
「こたびの婚約破棄に関して、ご実家の許可はお取りになりましたの? 私はなにも事前通達など受けておりませんけれど」
流儀やらトレンドやらより常識的方面からの突っ込みに、ユーキス殿下は渋いお顔をされました。
しかしそれも一瞬。眼を瞑られ、クツクツと含み笑いをされます。
「必要だと思うのかい?」
「はい……というか、まだ許可をいただいてないなら今からでもご実家に戻られて話し合わないといけないと思いますが」
それは将来の結婚相手としてでなく、この国に住まう王侯貴族の一員としての忠告だったのですが、殿下は動じたご様子を見せられません。
「これは政略結婚。たしかに僕には、それを破棄する権利などないだろう」
「でしたら」
「しかしだ。父上はこの婚約破棄を必ずお飲みになる。その証拠が……これだ!」
殿下はご自分の眼を指差されて、なおも自信満々に。
「マリヴェール、なにが見える?」
「ベルメリー王妃様譲りのとても見事な碧眼ですわね」
「そうだろうそうだろう……って違っ! その周辺の白眼をよく見てくれ!!」
なにやらノリツッコミのようなものを受けてしまったので、私は眼を細めてもう一度殿下のおめめを注視しました。
「あら? 充血してますわね。徹夜でもされたんですの?」
「答えはノウだ。だって、これは君のせいなんだからな」
はてな? と小首を傾げてみせますと、その所作が癇に触れたらしくユーキス殿下は険しい表情をされました。
「あれだけ言ったのに、君が猫を連れてきたからだ」
「はい? あの、お話が見えませんが……」
「僕は猫アレルギーを発症してしまったんだよ!!」
大仰な身振りを交えて力説される殿下に、私はぽかんとせざるを得ませんでした。
「お言葉ですが、殿下はつい最近まで猫が平気だったではありませんか」
「かもしれない。でも現にかかってしまった。さっき僕がくしゃみしてたのを君も見ただろう」
そういえばそうでした。殿下が私に婚約破棄を突きつける前にも、くしゅんくしゅんと講堂内で何度もくしゃみをされているのを目撃しておりました。
「心当たりならある。幼少のみぎりから、何度もコールラン領には遊びにいったからな。あの猫宮殿は猫でいっぱいだった。猫尽くしだった。一面の猫景色だった。そこかしこで猫津波が頻繁に起き、僕の瞳には猫猫とした猫の大海原しか映らず、君の姿を探すことさえ猫遭難しかけて一苦労だった。そんな環境にいたら、猫アレルギーを発症する人間がいたっておかしくないだろう」
我がコールラン家と猫とは特別な絆で結ばれております。
その猫愛の深さは当家の紋章を見れば一目瞭然と言われます。本来ならば獅子や狼や鷲といった勇猛な動物が描かれるところ、コールラン家の紋章には2匹の猫が毬を取り合ってじゃれあう様が刻まれているのです。
一族に課せられた寵猫制度を含め、コールラン家と猫とは切っても切り離せない関係なのです。
なので、殿下のご主張がやや無理筋なのも一瞬で理解できました。
「ユーキス殿下が猫アレルギーを発症されたのってつい最近なんですのよね? 別の病からくる症状の可能性はありませんの?」
当領にあるコールラン城はたしかに猫で溢れ返っていました。家族がそれぞれ300匹もの猫を抱えていたのですから当然といえば当然でしょう。
しかしこの学園にあって猫が居住するのは私の生活する特別学生寮のみ。そもそも接触する機会が少ないのですから、今さら殿下が猫アレルギーを発症するとは考えづらいのですが……。
「事実に即してほしいな。ジュリアスがいなくなって、僕のくしゃみは収まった」
「うーん、たしかにそのようですわね……」
本音としては否定したいところですが、殿下の症状はたしかに猫アレルギーといえるでしょう。
私がむつかしい顔をしているのを見て、逆に殿下は調子を取り戻されたご様子です。病気事由の不本意な婚約破棄のはずですのに、何故かウッキウキの態度を隠されもしませんでした。
「当事者の健康問題なら、父上も婚約破棄に許可を出さざるをえない。猫アレルギーは死の危険をも伴う立派な病気だからね。だけどマリヴェール、僕は君にも可能性をあげたいと思う」
可能性をあげる、とかまたしても上から目線ですけれど、殿下はどのようなご提案をされるおつもりなんでしょうか?
「輿入れに際し、王宮に猫を1匹も連れてこないこと。この条件を飲むなら、君への婚約破棄を取り下げることにしよう」
どうかな? と首を傾けて私の様子を窺われますが――。
「猫と一緒じゃダメですの?」
「そりゃもちろん。僕が死んじゃうかもしれないし」
ニコニコと笑顔を湛えておいでですが、眼の奥は笑っていらっしゃいません。大方、なに寝言ほざいてるのって感じですわね。
心労を感じ、私もふはあっと溜息を吐いてしまいます。
「困りましたわね。私たちの婚約に際し、両家は猫を同居させるよう織り込み済みのはずです。というか、コールラン家の女を娶っておきながら猫だけよそに住まわすなんて、そんな類例はこれまでに一度だってありません。私からお父様にご相談したところで、きっと婚約の破談の方をお勧めになるでしょう」
あくまでユーキス殿下との婚約続行を前提に取るべき手段を模索していたところ、何故だか殿下は少しムスッとされたご様子を見せられます。
「……つまり君は、僕より猫を取るってことか」
「ではなく、寵猫を随伴しない結婚などコールラン家にとってはありえないということですわ」
なんなら私ごと修道院にぶち込んで、そこで一生猫と過ごしなさいと実家から命じられる方がまだしも可能性があるくらいですわね。
「それよりユーキス殿下。先程から婚約破棄の方向でお話を進められてますけど、婚約が破談になって困るのは私だけではありませんわよね。殿下も婚約の継続のためになにか妙案がないものかお考えになってください」
当て外れな頼みではなかったはずです。
しかしユーキス殿下は非協力的な態度を崩さず、例のクツクツ笑いをまたしてもされました。
「婚約の継続? 僕がそんなもの望んでいるというのかい?」
「はい……というか、我がコールラン家は四公筆頭。私たちの結婚に、王国の今後が懸かっているんですのよ」
ですから、私は最初に御冗談でしょうと申したのですが――。
何故でしょう、ユーキス殿下は悪い感じのニヤニヤ笑みを浮かべられます。
「是が非にも僕と結婚したいという君の気持ちはわかった。がしかし、条件を飲まないなら僕は今さら決定を変更するつもりはない」
「ええっと、それだと大事になってしまいますが……」
両家を巻き込むどころか、王国全土を席巻する大スキャンダルの勃発。事後処理には眩暈を起こすほどの手間と時間とお金が必要でしょう。
もちろん私とて望むところではありません。実家の評判にも傷がつきますし、なにより私自身がしち面倒くさいので。
とまあ、このときの私の心配ごとはユーキス殿下への思慕の情とはかけ離れた類のものだったのですが、どういう理屈か殿下の中では私の心は殿下にゾッコンということになっているようでした。
「わかるだろう? これは愛なんだよ」
「愛……どういった意味でしょうか」
また唐突に話が飛んだな、とか思いながら聞く姿勢を取りますと、ユーキス殿下は片足でくるりと華麗なターンを決め(何故回った)、またしても優雅な手つきで懐から例の書物を取りだされます。
「これにも書いてある。婚約破棄を突きつける王子とは常に《真実の愛》に目覚めるものだと」
おっしゃっている意味はなんとなくわかります。つまり私という婚約者がありながら、殿下には他に不義のお相手もいるということなのでしょう。
「はぁ……で、その《真実の愛》とやらはどこにありますの?」
キョロキョロと首を巡らせますが、講堂内には依然として私たち以外に誰もいません。よもやその《真実の愛》さんまで呼びだしを無視されているなんてことはないでしょうが……。
疲れて呆れを隠せなくなってきたのかもしれません。私の態度に張り合うかのように、殿下もまた余裕の笑みで応えられます。
「そうやって強がっていられるのも今のうちだ。何故なら、僕の《真実の愛》に一切の瑕瑾など存在しないのだから」
「あのー、どういった意味でしょうか?」
訊き返すのも面倒くさいな、とか思いつつ申しますと、殿下はクックックとさらに小悪党染みた笑い方に切り替えられました。
「先人と同じ轍は踏まないということだ。この手の小説における王子は常に婚約者より家格が下の令嬢に《真実の愛》を見る。これがすべての問題の発端だと僕は気づいたのさ!」
つまるところユーキス殿下の語られる《真実の愛》とは、私と同等以上の名家の生まれということでしょうか。
でも四公の抱える未婚子女に、私と同年代の女性なんていましたっけ……。
私が無意識に腕を組んでいたのを察知されたのでしょう、ユーキス殿下はちっちっちっと指を振られます。
「柔軟に考えたまえよ。名家はなにも四公に限らないだろ」
「まさか殿下、他国の姫君を……?」
「どうだろうね? それじゃあ紹介しようか。きたまえ僕の《真実の愛》!!」
くるくるくるっと回ってはい謎ポーズ。殿下が腕を差し伸ばした舞台袖の暗がりから、人影がこちらに歩んでくるのが見えます。
(――えっ?)
光の下に徐々にその輪郭を現し、詳らかになるその姿に私は息を呑みました。
胸の奥が詰まる感覚。舞台袖の暗がりから歩みでてきたのはたしかに、絶世と形容するに相応しい美貌の令嬢だったのです。