素晴らしい一日の終わりはアプリコットクーラーで(5)
投げ出した水のボトルは、幸いなことに割れていなかった。
水を飲んで休憩をしたあと、噴水広場や、薔薇などが活けられている庭園を眺めながら散歩を続け、二人と二匹は裏門に向かった。
裏門を出ると、通りの斜向いに雰囲気の良いカフェがある。
事前に調べたところでは、テラス席であれば、犬の同伴も可能だということだ。
すでに、何組か犬連れの客が、濃いグリーンのサンシェードのかかったテラス席に座っている。天候にも恵まれて、テラスでお茶をするには丁度良さそうだ。
木の扉を開けると、入り口付近にいた案内係の男性に、人数と犬連れであることを伝える。彼は頷くと、二人をテラス席に案内してくれた。
メニューを受け取り中を覗くと、女性が好きそうな甘い菓子の他に、軽食も載っている。
犬連れの客が多いためか、驚くべきことに犬用のサンドイッチまであるようだ。
「ブルーノに犬用サンドを注文しようと思うのですが、コタロウも一緒にいかがですか?」
「はい、コタロウにも同じものをお願いします」
「貴女は?」
「私はこのチョコレートケーキとお茶にします」
「わかりました」
ディートリヒは店員を呼び、注文を告げる。店員が去ると、マユが通りを眺めながら「素敵なお店ですね」と口を開いた。
公園の表通りと異なり、裏通りは馬車の往来も少なく、静かで、お茶をするには丁度いい。
「気に入っていただけたら何よりです」
内心でラルフに感謝しながら、ディートリヒは微笑んだ。
程なくしてチョコレートケーキが二つと、ティーカップが二つ、二人分のお茶が入ったポットが運ばれてきた。
犬用サンドも皿に載せられて運ばれてきたので、犬たちに与える。食べやすい大きさに切られているので、ブルーノもコタロウも美味しそうに食べている。
マユが二人分のお茶を注ぎ、二人でケーキを食べる。マユは綺麗に装飾されたチョコレートケーキを一口、慎重に口に入れると、微かに目を瞠り、幸せそうに咀嚼する。
ディートリヒはお茶を飲みながらそれを眺めているだけで満足だった。
「あの……」
ディートリヒの視線に気づいたらしいマユは、顔を赤くしておずおずとこちらを見る。
「私のテーブルマナー、どこかおかしいでしょうか」
ディートリヒが自分のことを見ているのは、マナーがなっていないからだと勘違いしたようだ。彼女は、恥ずかしそうに視線を下げる。
「いえ、マナーは問題ないと思います。すみません、不躾に見てしまって。その、とても美味しそうに召し上がられるなと思って」
ディートリヒが慌ててそう言えば、マユは安心したように肩の力を抜いた。
「はい、とても美味しいです。チョコクリームがあっという間に口の中で溶けてしまって。食べてしまうのが勿体ないくらいです」
「よろしければ、私の分も召し上がられますか?」
「えっ、いえ、大丈夫です。一つで充分ですから、ルーベンシュタイン様も召し上がってください」
「その、ルーベンシュタイン様と呼ぶのは、止めていただけませんか。どうも堅苦しいので。どうかディートリヒと名前で呼んでください。それに、私に敬語は不要です」
「そんな、お客様をそんな風にお呼びするわけには……」
「私のことは、客としてではなく、犬を飼っている友人と思っていただけませんか」
「ですが……」
「お願いします。コタロウとブルーノがせっかく仲良くなれたんですから、貴女ともっと犬の話がしたいんです。だから気楽に話してくださると嬉しいです」
「……わかりました」
マユは観念したように頷いた。
「それならば、私にも敬語は不要です。アルトマン様にお話しされている時のように、気楽にお話しください。名前も、アルトマン様のように、マユと呼び捨てにしてくださって構いません。…いえ、構わない…よ……です」
マユは頑張ったようだが、敬語を使わないというのは無理だったようだ。ディートリヒも、いきなりでハードルが高かったかなと思いなおす。
「ディートリヒ様、その、私はこの話し方に慣れてしまっているのでお許しください」
名前を呼ばれて気を良くしているディートリヒに気付かず、マユは申し訳なさそうにそう言った。
「わかった。これでいいかな?敬語だと、騎士団の上司と話しているみたいで、苦手なんだ」
それに、貴族連中を相手にしている時のようでもあり、彼女とはそんな風に畏まった話し方をしたくなかった。
はい、と頷くマユはようやくすっきりとしたようで、再びケーキを食べ始めた。それを見遣って、ディートリヒも満足げにケーキを食べ始めた。
カフェで話がはずみ、思いの外、長居をしてしまったようだ。
まだ遅い時間ではないが、商業区の外れにある店まで戻るというマユにしてみれば、店に帰るころには夕暮れ時になってしまうだろう。
マユは自分が時間を失念していたせいだと言うが、彼女と別れがたくて話を振ってしまったディートリヒにも責任がある。ディートリヒは店まで彼女を送ると申し出た。
そもそも、どんな時間だろうが、最初から彼女を送っていくつもりだった。公園であんなふうに男に絡まれているのを見てしまっては、なおさらだ。
ディートリヒの申し出を、最初は辻馬車を使うからと固辞したマユだが、ディートリヒが心配している理由をきちんと伝えたところで折れた。彼女も、あんなことがあっては、慣れない道を帰るのは不安なのだろう。
支払いのために立ち上がると、マユが自分とコタロウの分を出そうとする。
それを手で制し、ブルーノのボールをもらった礼だと告げて、ディートリヒがまとめて支払うと、マユは律儀に礼を言った。
カフェを出て、公園の表門まで歩き、そこで辻馬車を拾う。辻馬車は料金を多めに払うことで、どうにか犬も一緒に載せてくれた。マユは来るときに利用した乗合馬車でもそうして多めに金を払い、御者の隣にコタロウを抱える形で乗せてもらったそうだ。
そうしてなかなかに長い距離を馬車に揺られ、二人と二匹は商業区の外れまでやってきた。
商業区は王都の西を流れる川の両岸にあり、水運を使って様々な商品が運ばれ、それを商う商店や、飲食店、酒場や夜の店に至るまで、多種多様な店が軒を連ねている場所だ。
しかし、王都の東に位置する王立公園からはかなりの距離があった。
商業区に着いた頃には、辺りはすっかり夕暮れの橙色に染まっていた。もし次があるなら、絶対にこちらからマユを迎えに行こうとディートリヒは思った。
馬車代も、マユは自分の分は払うと言ったが、ディートリヒは、こういうものは男の甲斐性の見せ所だからと言って押し切った。
狭い路地を通って店に着くと、マユはバックから鍵を取り出し、扉を開けた。
カランと音が鳴って、マユと小太郎は店内へと入っていく。だが、ディートリヒはブルーノを連れたまま、入り口で立ち止まった。
それに気づいたマユが、入らないのかと振り向いた。
「俺はこれで帰るよ。今日は本当に楽しかった。ありがとう」
そう告げると、マユは焦ったように歩み寄った。
「せめて何かお飲み物でも。馬車代も出していただいたことですし」
「あれは俺が払いたかったのだから、気にしないで。マユもコタロウも、もうじき夕食の時間だろうから、今日はお暇するよ」
ディートリヒはそう言って本当に帰ろうとしたのだが、ブルーノが珍しく言うことを聞かない。夕食という言葉に気付いてしまったのか、ここで食事が貰えると思ったらしく、リードをグイグイと引っ張って中へと入ってしまう。
「ブルーノ、ダメだ。今日は帰るぞ」
「ディートリヒ様もお入りください。コタロウと同じもので良ろしければ、ブルーノにもご飯を出せますから」
入り口で引っ張り合う飼い主と犬に、マユがクスリと笑う。このまま入り口を塞いでいても仕方がない。
「……すまない」
ディートリヒは諦めて店内へと足を踏み入れた。
カウンターに腰かけると、マユはカウンターの反対側に回る。
「お茶がいいですか?それとも、ちょこっとだけ飲まれますか?」
今日は店は休みだというし、本来であればお茶にすべきなのだろう。だが、カフェでお茶をたらふく飲んでいたので、お茶はもういらないというのが正直なところだった。
「……すまない、ジントニックを一杯だけもらえるかな」
「はい。すぐにお作りしますね」
マユは手を洗うと、ササッと慣れた手つきでジントニックを用意してくれた。
渡されたおしぼりで手を拭いたディートリヒがそれを飲んでいる間に、彼女はコタロウとブルーノにも犬用の食事を出している。
だが、肉に、野菜を賽の目状に切ったものが入ったそれは、きちんと栄養も考えられているもので、犬用とはいえ、美味しそうに見える。
下手をしたら、騎士団の宿舎や、遠征先で食べるものよりも良いものかもしれない。
そんなことを考えながら、美味しそうに食べるコタロウとブルーノを眺めていると、その視線に気が付いた彼女が、「ディートリヒ様も何か召し上がられますか?」と声をかけてきた。
「いや、これだけで十分だ」
そう言ってディートリヒはグラスを掲げて見せた。
「どうか、遠慮なさらないでください。今日は私も一杯だけ飲もうと思うので、一緒に何かつまめるものを作りますね」
それならば、その言葉に甘えるのもいいかもしれない。
「ありがとう、お願いするよ」
ディートリヒが微笑めば、彼女は「はい」と頷いた。
マユが用意したものは、3種類ほどのナッツを小皿に盛ったものと、生ハムとチーズ、それから野菜をスティック状に切ったものだった。
ナッツは手づかみで、生ハムとチーズは小ぶりのフォークで食べるようだ。野菜は手づかみでもフォークでも好きな方で、添えられたソースを付けて食べるようにとのことだった。
それから彼女は自分用に酒を作りだした。何やら橙色の液体と、レモン果汁らしき白色の液体、それから少し赤みのあるシロップのような液体を、ジンフィズを作った時に使った銀色のボトルに入れ、カシャカシャと振る。
それを氷の入ったグラスに注ぐと、炭酸水を入れ軽く混ぜ合わせた。
そうしてできた酒を手に、マユもディートリヒの隣の席に座った。
「それは?」
マユの酒は、透き通る橙色の飲みやすそうなものだ。
「これは、アプリコットクーラーという杏子の甘いお酒です。フルーティーで、私が大好きなお酒の一つなんです。それに、カクテル言葉が今日にぴったりなんですよ」
「今日に?それは一体……」
「アプリコットクーラーのカクテル言葉は『素晴らしい』です。今日は王立公園に連れて行ってくださり、本当にありがとうございました。とても楽しくて、本当に素晴らしい一日でした」
「――それはっ、それは俺も同じだ。俺にとっても、とても素晴らしい一日だった」
そうして顔を見合わせた二人は、クスリと笑って、グラスをカツンとぶつけた。
「今日の素晴らしい日に」
「「乾杯!」」