素晴らしい一日の終わりはアプリコットクーラーで(4)
池をぐるりと周って、そこから再び別の小道に入ると、少し進んだ先に、広々と開けた芝生の広場がある。
他の広場とは異なり、ここは犬を放してもよいことになっているため、あちこちに犬連れの人々の姿が見える。
ディートリヒとマユも、ブルーノとコタロウのリードを外して、二匹を遊ばせることにした。
マユは徐に手にしていた小ぶりのバックから、黄色の、手のひら大のボールを取り出した。それを見つけたコタロウは、千切れるのではないかというくらいに尻尾を振って喜んでいる。
「コタロウ、行くよ!」
マユが声をかけてボールを投げると、コタロウがそのボールを追いかけて走り出した。
コタロウはコロコロと転がっていくボールを口で器用に咥えると、得意げに持って帰ってくる。
それを受け取ったマユは、コタロウをワシワシと撫で、「コタロウ、上手だね」と褒めている。コタロウは目を細めて撫でられていたが、すぐに「次のボールを投げてくれ」というように催促しだした。
マユは再びボールを遠くへ放ってやる。すると、コタロウは再びボールを追いかけて走り出した。
何度かそんなことを繰り返しているが、コタロウは3回に1回くらいはボールを咥えないまま帰ってくる。ボールが見つからないこともあるが、単に咥えるのが苦手なようだ。
それでも、ボールを追いかけることが楽しいらしく、その度にマユがボールを拾いに走っては、ボールをコタロウに渡してやっている。
その様子を眺めていたディートリヒは、隣でブルーノがウズウズしていることに気が付いた。彼もあのボール遊びをしたいようだ。
伏せるように構えてボールをじっと見ている姿は、走り出すのを必死に我慢しているように見える。
その姿にマユも気が付いたようだ。ディートリヒたちのもとへくると、バックからもう一つボールを取り出した。
「良かったら、ブルーノも遊びますか?」
マユがボールを出した途端、それが自分のものだとわかったのだろう。ブルーノは立ち上がり、激しく尻尾を振りだした。
「ありがとうございます。お借りしてもよろしいですか?」
「これはブルーノにあげようと思って持ってきたんです。もしお嫌でなければ、もらってくださいませんか」
そう言って手渡されたボールをブルーノに見せると、ブルーノはその匂いを嗅いだ。そして準備はできているとばかりに、ディートリヒの顔を見つめる。
「よし、行くぞ、ブルーノ!それ!」
ディートリヒがボールを投げると、ブルーノは俊敏な動きで走り出した。
「すごい」
ブルーノの美しい走りに、マユが感嘆の声をあげる。ディートリヒはブルーノが褒められているようで嬉しくなった。
ブルーノはボールを咥えると、また素晴らしい速さで戻ってきた。
咥えているボールを受け取り、撫でてやれば、得意げにディートリヒを舐めてくる。
「わかったわかった、もう一回だな」
再びボールを持って投げる構えをすると、ブルーノは伏せるようにしてボールをじっと見つめる。いつでも来いとばかりにこちらを見上げたブルーノに、行くぞと声をかけて、ディートリヒは再びボールを放り投げた。
すっかり遊び疲れた二匹は、芝生の上でゴロゴロと寝そべっている。ディートリヒはマユにブルーノのリードを預け、二人と二匹分の飲み物を買いに行くことにした。
噴水広場までくると、小さな売店があり、そこでボトルに入った水を四本買う。
それを持って芝生の広場に戻ってみると、マユの傍に、二人の男が立っているのが見えた。
ハンチング帽を被った男と、サスペンダーを付けた男の二人組は、ともに二十代くらいの若者だ。
と、そのうちの一人、ハンチングの男が突然マユの腕を掴んだ。マユはそれを振り払おうとするが、力が及ぶはずもなく、逆に男に距離を詰められている。
犬たちは必死に吠えているが、サスペンダーの男にリードを掴まれ、身動きができないようだ。
ディートリヒは「マユ!」と叫び、水を投げ出して走り出していた。
「離してください!」
「そんなこと言わないで、俺らとお茶でもしようよ」
「お断りします。犬たちを返して」
「心配しなくても、こいつらも一緒に連れて行くからさ」
男たちがマユを取り囲むと、ブルーノとコタロウが吼えて二人に噛みつこうとする。
それを必死に抑えていたサスペンダーの男が、ディートリヒに気が付いたようだ。訝し気にディートリヒを睨みつける。
「私の連れに何か用か?」
ディートリヒも男たちを睨みながら近づき、マユの腕を掴む男の腕をひねり上げた。
「いってぇ!」
容赦なく腕に力を込めれば、男は叫び声をあげてマユの腕を放した。すぐにマユを背後にかばい、男の腕を投げ出せば、男は尻もちをついてその場に倒れた。殴り飛ばしたい衝動を抑えながら、もう一人の男の方を向く。
その男は「ヒッ」と引きつったか細い悲鳴を上げる。ディートリヒはよほど恐ろしい顔をしているのだろうが、男にとっては殺されないだけマシだ。
ディートリヒがリードを取り返そうと腕を伸ばしたのを、自分の腕もひねり上げられると勘違いした男が、リードを放して腕を引いた。その一瞬の隙を見逃さず、ブルーノが男に噛みつく。
「イテェェ!!!」
ふくらはぎを噛まれた男が大声で叫ぶと、周りにいた人たちがこちらに気付き、寄ってきた。
中には警備を呼ぼうと言っている者もいる。
分が悪いとわかったらしい男たちは、一目散に逃げて行った。噛まれた男に至っては、足を引きずりながら走るのがやっとのようだ。
それを最後まで見届けずに、ディートリヒはマユに向き直る。
「お怪我は?腕は痛みますか?」
マユの腕をとって袖口辺りを確かめれば、男に掴まれていたところが赤くなっていた。
それを目の当たりにすると、怒りが込み上げてくる。先ほどの男たちをあの程度で逃がすべきではなかった。
だが、もとはと言えば自分のせいだ。治安がいいとはいえ、女性を一人にすべきではなかったのだ。
「すみません、貴女に怪我をさせてしまった」
ディートリヒが申し訳なさいっぱいに謝れば、マユは首を横に振る。
「助けてくださって、ありがとうございます。腕は痛くないので大丈夫です。それに、貴方のせいではありません。私が不注意だったんです。こちらこそ、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
そういうマユの声はわずかに震えていて、それを誤魔化すように笑う彼女が、いじらしくてたまらない。
「迷惑だなんてとんでもない。貴女に嫌な思いをさせてしまって、本当にすみません。せっかく楽しく過ごしていたのに」
「でも、ルーベンシュタイン様が助けてくださったでしょ?だから、本当に気にしないでください。もし申し訳なかったというなら、お詫びにまたここに連れて来てください」
茶化すようにマユが笑うと、ようやく、ディートリヒにも笑顔が戻った。
「ええ、ぜひ、また一緒に」
また、次の機会があるのであれば、それはお詫びではなく、ご褒美になってしまうのではないかとディートリヒは思った。