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素晴らしい一日の終わりはアプリコットクーラーで(3)


「お待たせして申し訳ありません」

「いえ、私も今来たところです」


 そんな社交辞令のような挨拶を交わしたところで、彼女がブルーノの前にしゃがみ込む。ワンピースの裾が汚れるのを気にしていないようだ。


「貴方がブルーノね。初めまして。私はマユというの。貴方のご主人様にいつもお世話になっているのよ。この子はコタロウというの。どうか仲良くしてね」


 ブルーノに律儀に挨拶をする彼女が、マユ・ツキシタという名前だということを知ったのは、前回、散歩の約束を取り付けたあの時だ。

 耳慣れない名前の音に、彼女は異国の人間なのだと改めて思わされた。

 

 彼女は、今日のディートリヒの非番に合わせて店を休業にして来てくれた。休みだからか、いつもの白いシャツではなく、生成りの動きやすそうなシンプルなワンピースを着て、足元は編み上げの茶色のブーツを履いている。店ではカウンター越しに上半身しか見ていなかったので、とても新鮮だ。

 髪も、いつものように後ろでシニヨンにするのではなく、馬の尾のように後頭部の高い位置で一括りにしており、肩よりも少し長めの艶やかな黒髪が、風にふわりと揺れている。その美しさに、ディートリヒは思わず見惚れてしまう。


 その彼女に挨拶をされたブルーノは、マユの匂いを嗅ぐと、次はコタロウの匂いも嗅いでいる。コタロウはソワソワと落ち着きなく、ブルーノから逃げるように、マユの後ろに隠れた。

 今度はディートリヒがしゃがみ込み、コタロウに手を伸ばす。


「コタロウ、ブルーノと友達になってくれたら嬉しいな」


 コタロウはディートリヒの声に反応して、おずおずとこちらを覗き、差し出された手の匂いを嗅いだ。その様子を眺めていたブルーノが、尻尾を振ってコタロウに近寄ると、コタロウはスンとした何とも言えない表情で、またマユの後ろに隠れてしまう。

 その様子に、ディートリヒとマユはクスリと笑った。


「行きましょうか。コタロウも、散歩しているうちにブルーノに慣れてくると思いますよ」


 そう言いながらディートリヒは立ち上がると、マユに手を差し出す。彼女は戸惑ったようにその手を取って立ち上がった。細い彼女の手は水仕事のために荒れていたけれど、それは不快ではなく、むしろ、一人で自立して店を切り盛りする彼女の手に好感を持った。



 二人並んで歩き出すと、はじめのうちはマユの足元を不安げに付いてきていたコタロウも、次第に興味津々な様子にかわり、先導するように前を行くブルーノに並んで歩くようになった。


 目的地の王立公園は、王都の東、王宮の程近くにある。王宮が近いため、辺りには貴族の邸宅も多く、ディートリヒのタウンハウスもこのそばにあった。

 石やレンガ造りの建物が多い大都会の王都にあって、王立公園は急に現れる森のような場所だ。多種多様な木々が生い茂り、鳥やリスなどの小動物も住み着いている。だが、しっかりと管理されており、景観も治安も良い。

 馬車が三台は並んで走れるほどの大きな石造りの門をくぐると、外の通りの喧騒(けんそう)が薄れ、鳥の(さえず)りが聞こえてくる。公園を突き抜けるメインルートは、舗装はされていないが、馬車でも入れるようになっており、道幅も広い。このまままっすぐ進めば、噴水のある広場に出る。


 王立公園は普段は庶民の憩いの場となっているが、社交シーズンの今、週末ともなれば貴族たちがピクニックに繰り出し、彼らが乗り付ける馬車の往来も多い。

 ディートリヒはそうした馬車が入れない小道を選び、マユたちを案内した。

 ブルーノは猟犬としての本能が騒ぐのか、しきりに小動物の気配がする方向へ視線を走らせる。

 一方のコタロウは、広々とした場所に興味深々な様子で、巻尾を振りながらあちこちの匂いを嗅ぎまわっている。


「植物が多くて、癒されますね」


 隣を歩くマユが、楽しそうに言う。


「ええ、ベンチも多いですし、本を持ってきて読書するのもいいですよ」

「それは素敵ですね」

 

 他愛もない会話をしながら、ゆっくりと歩くと、緊張も解けてくる。ブルーノお気に入りの散歩コースは、公園として整備される前からあった広葉樹林をそのまま生かしたルートであるため、起伏が多く、ブルーノには丁度良い運動になる。メインルートから外れていることもあり、人に会うこともあまり無いのは、ディートリヒにも嬉しい。


 いつもはこの道を、ブルーノと二人きりでゆったりと時間をかけて歩いている。それが、日々仕事に追われ、騎士として常に緊張を強いられるディートリヒにとって、かけがえのない時間となっている。

 けれど今日は隣にマユとコタロウがいる。だが、それが全く嫌ではない。


 そうして歩くうち、ブルーノとディートリヒがゆっくりと散策できるよう、マユとコタロウが少し距離を取って歩き始めた。お互いがお互いの時間を邪魔しないようにという気配りが感じられる。

 二人と二匹は、それぞれのパートナーとともに広葉樹林を抜け、小さな池のほとりに出た。


 晩春の公園は好天に恵まれ、暖かく穏やかな空気に包まれている。

 木々の花の盛りは過ぎているが、庭園の方へ出れば一年中何かしらの花が楽しめるし、噴水広場に行けば、周りを囲む花壇に、庭師が丁寧に手入れをしている植え込みの花が見られる。

 そうした花を目当てに飛んできたのだろう。黄色の小さな蝶がひらひらと目の前を横切っていく。青い空に蝶の黄色が鮮やかに映える。

 と、花と勘違いしたのか、その黄色の蝶がマユの髪に留まった。マユはそれに気づかず、コタロウの隣にしゃがみ込んで、一緒に池の魚を見ている。


 それは、とても美しい光景だった。凪いだ池の水面は青い空を映し、若葉の緑は目に鮮やかで、可愛らしい黒髪の女性と犬が仲良く座り込んでいる。そんな彼女の黒髪には、黄色い蝶が羽を休めている。

 まるで風景画家の絵画を見ているかと錯覚しそうなその景色は、ディートリヒに懐かしい記憶を呼び起こした。両親が生きていた頃、家族で屋外で過ごしていたときの、憧憬のような胸を締め付ける記憶を――。




 ディートリヒの両親は政略結婚だったが、夫婦仲は良く、いつも笑顔で、互いを想いあっていた。

 三つ上の兄は、王都の寄宿学校に通っていたが、父の仕事を学ぶため、休暇になると領地に帰ってくることが多かった。

 兄が帰ってくると、いつも家族四人で海が見える公園へピクニックに出かけた。見晴らしの良い高台の木陰でお茶を飲む母と、読書を楽しむ父。木陰に寝転んだディートリヒは兄に王都の話をせがみ、兄はディートリヒの頭を撫でながら、学校の授業の様子や寮生活の話、王都で人気の劇や、美味しい菓子の話などを聞かせてくれた。

 ……それらはもう、二度と戻らない日々だ。

 両親は、領地で起きた隣国による軍港襲撃事件によって命を落とし、兄は15歳という若さで侯爵位を継いで、子ども時代を終わらせた。そしてディートリヒもまた、変わってしまった。

 だから、幸せな時間は、もう来ないのだと思っていた。

 それなのに、心のどこかでずっと求めていた、穏やかで美しい景色が、目の前にあった。

 マユはまだ数度しか会ったことのない女性で、お互いのことなど、ほとんど知らないというのに、それなのに、どうしようもなく惹きつけられている自分がいる。

 コタロウに向ける優しい笑顔を、自分にも向けて欲しい。そう念じるように眺めていると、マユの髪に止まっていた蝶が、ヒラヒラ舞い上がり、今度はコタロウの鼻に止まった。

 コタロウはびくりと身じろぎをしたあと、クシャンと盛大なくしゃみをした。それを見たマユが思わずといった様子で笑い出し、その笑顔をディートリヒに向けた。眩いほどの笑顔に、ディートリヒは嬉しさが込み上げてくるのを押さえられない。


 ああ、そうか、とディートリヒは気づく。

 彼はようやく、彼女のことが好きなのだと自覚した。



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