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素晴らしい一日の終わりはアプリコットクーラーで(2)




「ラルフ!」


 普段は無口で、私的な会話などしたことが無いことでも有名な第一士団の副団長が、第三士団の副団長のファーストネームを呼び捨てにしたことで、その場に居合わせた全員が動きを止めた。


 彼らがいるのは、王宮に数ある部屋の中でも、中規模の会議室だ。月に一回、王立騎士団の全団長・副団長が集まって行われる定例会議が終わったところだった。

 臨席していた王太子は、来月の流民街の視察のための事前調査報告を満足そうに聞いた後は、他の公務が押しているとのことで退席済みだった。

 それなのに、王太子付きのディートリヒが残っていたので、周りはどうしたのかと訝しがっていたのだ。


 名前を呼ばれたラルフは驚き、手にしていた書類をバサリと取り落とした。それを慌てて拾い集める音が室内にやたらと響く。

 だが、それを咎める者は誰一人としていない。みな、あの(・・)氷の騎士が、気安く他人の名前を呼んだということに驚いていたのだ。

 高位貴族特有の洗練された身のこなしと、人を凍り付かせる冷たいアイスブルーの視線、口数は少なく的確で事務的、人を寄り付かせないことで有名なルーベンシュタイン副団長が、だ。

 そんなことは今まで一度たりともなかったので、全員の眼が、一斉にラルフに向く。


「……ディートリヒ、どうしたんだ?」


 周りの視線に気後れしつつも、ラルフが答えれば、再び人々に衝撃が走る。


 ……今、ディートリヒと呼ばなかったか?


 全員が自分の耳を疑った。彼を呼び捨てにしているのは、王太子と、ディートリヒの上司である騎士団長兼第一士団長、そしてディートリヒの同期で変人と名高い第十士団長だけだったのだ。

 他の者たちは恐れ多くてディートリヒのディの字も呼べないというのに。


 突き刺さるような視線を遮るように、ラルフはディートリヒを部屋の隅へと引っ張っていった。

 ディートリヒは周りのことなど気にしていない、というより、ラルフに何かを言いたげにしていて、そちらに気を取られているようだ。眉間に皺を作って、何かを言い淀んでいる。


「どうしたんだ?」


 ラルフが声を落としてもう一度訊ねると、ディートリヒは小声で答えた。


「……あの女性(ひと)と、犬の散歩に行くことになった」

「は?」


 まだ付き合いの浅いラルフとディートリヒの間で、あの女性と言って通じる相手は、一人しかいない。言われてみれば、この前飲んだ時、ディートリヒがやたらと彼女のことを見つめていたことを思い出す。


「フッ、ハハハハハ!」


 ラルフは笑いが込み上げるのを押さえられなかった。その笑い声に、周りの人間はますます興味を掻きたてられたようだ。もはやジロジロと嘗め回すような視線を隠すこともしていない。


「良かったな!」


 ディートリヒの背中をバシッと叩けば、そうして興味津々に見ていた人々がギョッとしたように顔を引きつらせた。彼らの顔には「あのルーベンシュタイン副団長を叩いて大丈夫なのか」と書いてある。

 ラルフはもはやディートリヒの話の方が気になり、周りのそんな反応などお構いなしだ。


「それで?どちらから誘ったんだ?」

「俺から……何となく流れで」

「へぇ、やるじゃないか」


 ラルフは思わず口笛を吹きそうになったが、一方のディートリヒはと言えば、珍しく困惑した表情を浮かべている。


「貴族の令嬢なら、社交のためにそれなりに付き合いもあるが、彼女のような女性とは出かけたことが無くて、どうしたら良いのかわからないんだ。どういうことをすれば喜ぶのかもわからない」

「ただの犬の散歩だろ?もっと気楽に考えたらどうだ?」

「そうなんだが、失礼があってはいけないだろ」


 そういう丁寧な気配りは妙に貴族らしく、また、真面目な彼を表していると思った。

 貴族のご令嬢となら付き合いもあるというが、そちらは何となく想像がつく。ご令嬢の方から寄ってきて、それを当たり障りなく、時には冷ややかにあしらうのだろう。

 ディートリヒが社交界でモテまくっていることは、騎士団の者たちでも皆知っている。しかし、誰かとの浮いた話が全く出てこないということは、そうした女性たちとうまく距離を保っているからだろう。

 

 だが、今回はその距離の保ち方がわからないようだ。

 相手はこれまでディートリヒが関わることのなかった市井の女性であり、ディートリヒの身分や家柄に興味が無く、しかも、彼の見た目に頬を染めることも無ければ、媚びを売ることもない。とても異質な存在と言うべきか。

 そもそも、あのバーは特別な店だ。そして、店員の彼女も、特殊な人間だ。本来はこの世界にいないはずの人間……。

 それを知っているのは、彼女が住み込みで働いていた食堂の店主夫婦やラルフなど、彼女の店の立ち上げに関わった限られた者だけ。

 目の前にいるディートリヒはそれを知らないはずだが、彼は無意識のうちに、彼女のそうした他人とは異なる部分に惹かれたのだろうか。……本人はまだ自覚がないようだが。


「散歩はどこに行くんだ?もう決めてあるのか?」

「ああ。王立公園に行く予定だ」

「それなら、裏門の近くにいいカフェがある。テラス席もあったはずだから、犬連れでも大丈夫だろ。そこでうまい菓子とお茶でもごちそうしたらいいんじゃないか?」

「――!そうか、ありがとう!調べてみるよ」


 先ほどまでの悩まし気な表情から一転、爽やかな笑顔になったディートリヒは颯爽と部屋を出て行った。

 残された者たちは心臓を鷲掴みにされていた。あの笑顔の破壊力と言ったら、自分が女だったらうっかり恋に落ちちゃったんじゃないかと、誰もがそう思うほどだ。

 そんな中、ラルフだけは苦笑していた。自分はどうにか免疫ができているから助かった、と。


 そんなラルフに声をかけてきた者がいた。


「よう、ラルフ」


 いつの間に背後に回ったのだろうか、全く気配を感じさせずに後ろに立った男が、ラルフの肩に腕を回してきた。

 本来であれば短く刈られているべき男の赤毛はボサボサで、精悍な顔には無精ひげが生えている。身なりには頓着していないが、それでも、目を引く存在感が彼にはあった。

 長身で体格に恵まれたその男は、そのエメラルドグリーンの瞳で見下ろすようにラルフをじっと凝視したあと、ニヤリと笑った。


「騎士団長殿……」


 ラルフがまずい人間に目をかけられてしまったと思っていると、それを察したのか、騎士団長マクシミリアン・ローゼンベルガーはいかにも楽しそうにラルフをがっちりと捕まえた。そしてラルフを引きずるようにして会議室を後にすると、そのまま騎士団長の執務室まで連れて行かれてしまう。

 

 執務室にたどり着くと、応接用のソファーの上にどかりと座ったマクシミリアンは、愉快そうに笑った。


「さて、ラルフ。ディートリヒのこと、聞かせてもらおうか」


 めちゃくちゃ面白がっている雰囲気をありありと感じて、ラルフはため息を吐いた。

 この人相手では、嘘や誤魔化しが通じない。捕まった時点で、吐かされるのは決まったも同然だった。

 再びため息をこぼしたラルフは、心の中でディートリヒに謝りつつ、観念して話し始めたのだった。



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