素晴らしい一日の終わりはアプリコットクーラーで(1)
その日、ディートリヒはとても緊張していた。
これまで王太子の護衛で様々な場面に立ち会ってきたが、今日ほど緊張したことがあっただろうか。
今日の彼は、流民街を偵察した時よりは品があるものの、動きやすい軽装に身を包んでいた。
手には革のリードが握られ、その先をたどれば彼の愛犬・ブルーノがディートリヒのブーツを穿いた足にピッタリと寄り添ってお座りをしている。
ブルーノはグレーの艶やかな毛と、ブルーの瞳が美しい大型犬だ。しかし、この犬種は美しいだけでなく、賢く、飼い主に忠実な猟犬として愛好されている。
そのブルーノが、愛嬌がある垂れた耳をピクリと動かした。彼は何かを見つめるように顔を一点に向ける。その視線の先には、巻尾を振り振りと揺らすシバイヌと、シバイヌのリードを握るワンピース姿の女性がいた。一人と一匹は、仲良くこちらに歩いてくる。
それを目にした途端、ディートリヒはブルーノのリードを無意識のうちに強く握りしめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アルトマンと二人で初めて酒を飲みに行ったあの日。剣術談議に花を咲かせていたアルトマンは、3杯目を飲んだところで、「あまり遅くなると妻が心配するから」と言って先に帰っていった。
残されたディートリヒは前回来た時とは異なり、店員の女性と二人きりになったことに焦っていた。
前回は自分の悩み相談をしていたせいで、そんなことに意識が向かなかったが、こんな風に薄暗い空間で男女が二人きりというのは如何なものだろう。
彼女はそんなことは全く意に介していないようで、アルトマンの使用したグラスを手際良く片付けている。
それはそれで男としての矜持が傷つくが、そもそも自分が最初に悩み相談をしてしまったせいで、男として意識されていないのだから、自業自得ではある。
だが、自分はそうだとしても、他の男性客と二人きりの時はどうするのだろう。
ラルフは「それなりに裕福な方が通われている」と言っていたが、この店に通っている男は多いのではないか。中には彼女目当ての奴もいたりして……。
そんなことを一度気にし始めると、他の男のことが気になって仕方がない。自分には関係のない話だというのに。
(俺は、どうしてしまったんだ)
騎士として、自分の感情を律することに慣れているはずなのに、今はそれがうまくできない。慣れない酒を、二杯も飲んだからだろうか。
普段、いつ何時非常事態が起こっても良いように、ディートリヒは酒を殆ど飲まない。しかし、今はそれが裏目にでているようだ。たった二杯でこんな風に思考が乱れるのだから。
店員の女性の方に視線をやらないよう、敢えて空のグラスに残った氷を見ていると、彼女の方から声をかけてきた。
「他に何か飲まれますか?それとも、何か酔い覚ましになりそうなものにされますか?お茶や冷たいお水もありますよ?」
心配そうにこちらを見つめるその視線に、再びドクンと心臓が跳ねた。
「すみません、冷たい水をお願いできますか」
「かしこまりました」
彼女は新しいグラスを用意すると、そこに細かく砕かれた氷を入れた。だが、その氷はまるで何もない空間から湧いて出てきたかのようだった。
驚きに目を瞠ったディートリヒは、彼女が水を注いで差し出したグラスの氷をまじまじと見つめた。
「もしかして、氷の魔法が?」
今更ながらに、彼女の特殊な力に気付く。
「はい、少しだけ。簡単なものだけなのですが」
彼女は苦笑して、自身が氷魔法を使えることを認めた。
「水の魔法なら、騎士団にも使える者が何名かいますが、氷魔法は珍しいですね」
実際、ディートリヒが知る限りでは、氷の魔法を使えるのは自分の兄くらいだ。国中から優秀な魔法使いが集まっている第十士団でさえ、氷魔法の使い手はいない。
「その様ですね。けれど、本当に簡単なものしか使えないんです。こんな風に、グラスに入る程度の氷を出すくらいで。でも、それだけでも、飲食店としては大助かりです」
ディートリヒはなるほどと頷く。
氷は冬に大量に作り置いておき、それを氷室などで保存しながら、少しずつ使っていくのが一般的だ。それを、こんな風に賄えるのであれば、とても重宝するだろう。それに、暑くなるこれからの季節には、なおさらありがたい。
「素敵な魔法ですね」
ディートリヒが素直に感心してそういえば、彼女は嬉しそうに頷く。
「はい、だから私も氷が好きなんです」
少しだけ悪戯っぽく目を輝かせて、彼女が笑いかけた。その笑顔を目の当たりにした瞬間、冗談だとわかっているのに、ディートリヒは自分の顔が赤くなるのを抑えられなかった。心臓がバクバクしていて苦しい。
「お客様、大丈夫ですか?すみません、ご不快にさせてしまいましたか?」
視線を不自然に逸らしたディートリヒに、彼女が心配そうに声をかけてきた。
「あっ、ああ、違うんだ。いや、すまない、少し酔ったみたいだ」
自分の口調が上手く取り繕えない程度には動揺していた。慌てて目の前に置かれた冷たい水を飲むと、少しだけましになる。
ゆっくりと水を飲み切れば、体の火照りはどうにか冷めた。
「そういえば」
ディートリヒが落ち着いたころ合いを見計らって、彼女が話しかけてきた。ディートリヒの酔い覚ましに付き合おうとしているのか、ディートリヒの動揺には素知らぬ振りをしてくれるようだ。
「お客様は犬を飼っていらっしゃるんですか?」
ディートリヒが頷けば、彼女は「やっぱり」と納得がいったように呟いた。
「コタロウの撫で方が、犬を飼っている人の撫で方だったので、そうではないかと思ったのです」
彼女は入り口近くのラグの上で丸まるコタロウを愛おしそうに見つめる。温かく、優しい眼差しだ。その眼差しが、やがてこちらに向けられた。
「お客様が飼われているのはどんな子ですか?」
「グレーの狩猟用の大型犬です。名前はブルーノと言って、とても賢い自慢の相棒ですよ」
自分に忠実な愛犬を思い浮かべながら話せば、自然と自分の顔が緩むのがわかった。
ここのところ忙しく、王城の宿舎での寝泊まりが多くなっていて、なかなかタウンハウスに帰れていない。使用人たちはブルーノを大切に扱ってくれるが、それでも、自分の手でブラッシングをし、散歩に連れて行きたい。
「大型犬でしたら、運動量もかなり必要ですよね?お散歩はどうされているんですか?」
「そうですね、王立公園に行くことが多いですね。王都で最大の公園なだけあって、公園内だけでもブルーノが満足できるくらいに歩けますし、芝生の広場があって、そこで走らせることもできますから。
とはいえ、私自身は仕事が忙しすぎてなかなか散歩に連れていけないのが悩ましいです。休暇が取れれば、郊外に行って森を散策したり、あとは猟犬なので、一緒に狩りを楽しむこともできるのですが……」
話していると、ますますブルーノに会いたくなってくる。
「なるほど、王立公園ですか……。実はコタロウを思い切り遊ばせてあげられそうな場所を探していたんです。いつもこの辺りを散歩させているのですが、なかなか存分に走らせてあげられなくて。コタロウはボール遊びが好きなので、遠くまでボールを投げられるような広い場所を探していたんですが」
今度行ってみようかな、と独り言ちる彼女に、ディートリヒは思わず口を開いていた。
「それなら、私が案内しましょうか?」
「えっ?」
彼女は驚いたように顔をあげた。ディートリヒも、自分で自分の言葉に驚いていた。きっと彼女はそんなつもりで言ったわけではないだろうに。
けれど、そんな心配をよそに、彼女は「よろしいのですか?」ととても嬉しそうに聞いてきたのだった。