あるがままの心でジンフィズを(1)
ディートリヒとアルトマンは、流民街にほど近い商業区の路地裏を歩いていた。迷路のように曲がりくねった道は、人ひとりが通るのがやっとという狭さだ。
「アルトマンさんはどうやってこの店を?」
前を歩くアルトマンに声をかけると、彼はチラリと振り向いて答えた。
「以前、とある身分の方が、この近くで倒れたことがあったのです。その時に、その方を助けたのがあのバーの店員の女性でした。
彼女は当時、まだ自分の店を持っておらず、近くの食堂で住み込みで働いていました。
彼女のおかげですぐに医者に見せることができ、その方は助かりました。そのときに、第三士団にも報告があって、対応をしたのが私だったのです。
その身分のある方は、彼女にお礼をしたいと申し出られて。彼女は一度は断ったのですが、断り切れず。それならばと、その方に保証人になっていただくことで、自分の店を持つことができたのです。
私も第三士団に所属するくらいですから、王都の地理や街のことに関してはあれこれと情報を持っていますし、彼女が店を出すときに、一緒に店舗を探すのを手伝って、それ以来の常連というわけです」
とある身分の方というのは、その名を明かしたくないようだが、大方、どこぞの貴族か誰かだろう。保証人になったというくらいだから、身元はしっかりした人間に違いない。
「そうだったのですか。それにしても、こんなわかりにくい場所で、その、店として大丈夫なのでしょうか?」
「ええ。彼女の希望は流民街だったのですが、さすがに女性一人で切り盛りするには、お勧めできませんからね。それで流民街の程近く、しかも、彼女が助けた方がお忍びで来られるような場所ということで、あそこになったのです。
ああ見えて、それなりに裕福な方が通われていますし、彼女の稼ぎは、あの店によるものだけでは無いので、心配には及ばないようですよ」
そんなことを話しているうちに、目的の店に付いた。
アルトマンが扉を開けると、カランと微かなドアベルの音がして、あの落ち着いた空間が二人を迎え入れる。
「いらっしゃいませ」
カウンターから、店員の女性が声をかけてきた。前回と同じように、白いシャツに、シニヨンに髪をまとめた彼女は、二人を見て破顔した。
アルトマンが、勝手知ったる店といった感じでカウンターに向かう。その後を追おうとしたところで、茶色の毛玉がディートリヒの足にまとわりついてきた。
「コタロウ!元気にしていたか?」
自分を覚えてくれていた犬に嬉しくなったディートリヒは、思わず屈んでコタロウを撫でた。すると、コタロウは目を細め、うっとりとした顔で尻尾を振る。口の端がキュッと上がって、笑っているように見える、あのかわいい顔をしている。どうやら、ディートリヒの撫で方がお気に召したらしい。
ひとしきりコタロウを撫でてから、視線をあげると、カウンターテーブルに着いたアルトマンの驚きの顔が目に入った。
「すみません」
一人で店に来ていたのではないことを思い出し、ディートリヒが慌ててアルトマンの横に座ると、アルトマンは初めて見るような楽しそうな顔でクスリと笑った。
「貴方も、あんな顔をされるんですね」
「え?」
聞き返したディートリヒには答えず、アルトマンはメニューを渡した。
「何からお飲みになられますか?」
問われたディートリヒは、この店で自分が唯一知っている酒の名前を挙げた。
「ああ、いいですね。私も同じものを」
アルトマンの言葉に、店員は頷くと、サッと水のグラスと手巾(アルトマン曰く、おしぼりというらしい)を手渡して、カウンターの向こうで酒を作り始めた。
ほどなくして、二人の前に、透き通る美しいジントニックが出された。
お互い、軽くグラスを掲げて見せてから、グラスに口を付ける。前と同じように、微かに苦みがありつつも、すっきりとした爽やかなライムの香りが口に広がる。
「貴方のことは、騎士団で有名でした」
酒を飲みながら、アルトマンが軽い調子で話し始めた。
「王家にも連なる高貴な血筋と、侯爵家という名門の家柄、それに、近衛の中でも群を抜いている見目の良さ。だから、第二~第九士団の者たちは、どのように貴方との接したら良いのかがわからないんですよ。かくいう私も同じでした」
困ったように眉を下げるアルトマンは、街中で周囲に厳しい視線を走らせていた人物とはまるで別人のようだ。
「第十は?」
「あそこは、変人の巣窟ですから、そもそも他人に関心など無いでしょう」
第十士団は、この国では貴重な魔法を使える者たちだけで構成されている。
一人一人の戦力は高いが、それぞれが個性的で他者を顧みないため、他の騎士団から何となく毛嫌いされている。
とはいえ、彼らは自分のような変な二つ名が付けられたりはしていない。
それに何より、第十以外の騎士団の者たちから敬遠されているというのは、嬉しいことではない。
侯爵家出身だといっても、爵位は兄が継承していて、自分に侯爵位が有るわけではない。それに、見目の良い者ならばそれこそ近衛に掃いて捨てるほどいるため、ディートリヒは納得がいかない。
これで自分が実力のない役立たずだというなら、厭われていても仕方がないだろう。だが、近衛とは言え、副団長を任される程度には腕もたつ自信があるので、なおさら納得できなかった。
そんな感情が顔に出ていたのだろう。アルトマンは苦笑しながら話を続けた。
「これで、武芸に劣っているというなら、他の者たちも溜飲を下げたでしょうが、何せ貴方は近衛にいるのが勿体ないほどの剣の使い手だ。
こんな、精霊神に二物も三物も与えられたような人間が傍にいれば、羨み、やっかまずにはいられないのが人間というものです。
『氷の騎士』と呼んで、貴方を冷たい人間、そうした欠点がある人間だと思わなければ、やっていられないのでしょう」
まるでディートリヒの感情を読んだかのように、そんな話をされれば、ディートリヒは顔を顰めるしかない。
アルトマンの言う通りだとしても、それは周りの勝手な言い分だと思うのだが、しかし、何かを羨むという感情は自分の中にもあるため、全く理解できないというものでもない。
でも、それでは一体、自分はどうしたら良かったのだろうか。
そんな風に逡巡するディートリヒをチラリと見やって、「ですが」とアルトマンは続ける。
「私はあなたが冷たい人間だとは、思っていませんでした。騎士団内の交流試合などで手合わせをすれば、貴方の剣がどれほどの鍛錬の賜物なのかわかります。
確かに余人には無い天賦の才があるが、それ以上に、努力があなたの剣を強くしている、と。
それを見極められる程度には、自分も鍛えているという自負がありますから。
だから、貴方が剣に対して情熱を持った男だということもわかっていました。そういう人間を、決して冷たいとは言わない」
アルトマンの思わぬ言葉に、ディートリヒは思わず彼の顔を凝視していた。
「とはいえ、恐れ多いのは事実です。私のように、裕福な商家とはいえ、庶民の出の者と、王位継承権を持つ貴方が、こんな風に仕事以外の場所で酒を飲むなんて、考えられませんでした」
「それは――」
「貴方はそう思わなくても、周りがそれを許さないんですよ。特に貴族の方々は、そういう事に過敏な方が多い。
私だって、いつ何時不敬で捕まり、処罰をくだされるかわからないのはごめんです」
そういうアルトマンは、しかし、そんなことは気にしていないとでもいうように、軽く肩をすくめた。
「けれど、それが馬鹿げた考えだったと今ならわかります。あんなふうに、犬にも笑顔を向けるような優しい方が、不敬だなんだと権威を笠に着るような真似をするはずがないのですから。
だから、もっと早く、こうして一緒に飲みにくれば良かったと思います。貴方は身分や家柄に奢らず、仕事にも真面目で、信頼がおける方です。そうわかっていたのに。
実は、同じ剣の使い手として、貴方とは色々話してみたいとずっと思っていたんですよ」
アルトマンは温和な見た目通りの、温かさがこもる眼差しで笑った。
その眼差しで、ディートリヒは自分が努力したことは間違いではなかったのだと悟る。
「アルトマンさん……」
「私に敬語は不要です。どうかラルフと呼んでください。こうして杯を交わす同僚なんですから」
「――!それならば、私……、俺にも、敬語は不要だ」
ディートリヒが、普段使いの砕けた口調になると、アルトマンも頷いて、グラスを差し出した。
「今日の良き日に」
「「乾杯」」
二人は笑いながらグラスをカツンとぶつけた。