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王太子のオールドパル(4)


 商業区の外れなど、王太子は来たことがないはずなのに、彼は迷いなく細い路地へと入っていく。

 くねくねと曲がりくねった路地を、まるで道を知っているかのように歩いていくその後姿を、ディートリヒは「まさか」と思いながら見つめていた。


 王太子が歩むこの狭い道は、ディートリヒのお気に入りの場所に繋がっている。……王太子はまさかそこへ行こうとしているのではないか。


 ディートリヒの予感は的中し、王太子が足を止めた時には、目の前に、ポツンと浮かぶ灯りに照らされた一軒のバーがあった。


「殿下」


 ディートリヒが声をかけたが、王太子は躊躇うことなく扉を開けた。


「いらっしゃいませ」


 いつものように、白いシャツをパリッと着こなしたマユが、三人を出迎えた。


「やあ、マユ、久しぶりだね」


 王太子はそんな風に言いながら、纏っていたローブを脱いだ。


「いやぁ、外は暑かった。もう本格的な夏だな」


 手慣れた動作で入り口近くのコート掛けにローブをかけると、王太子は迷うことなくカウンター席に着く。

 訳がわからず、ディートリヒは入り口で立ち尽くした。その彼の足に、いつものようにコタロウがすり寄ってきた。

 撫でてやりたいのをグッとこらえ、小脇にコタロウを抱えると、ディートリヒは王太子に詰め寄った。


「どういうことですか!」


 なぜ、この店を知っているのか。久しぶりとはどういうことか。問い詰めたいことばかりだが、何よりも親し気に彼女の名前を呼び捨てにしたのは一体どういうことなのかを訊ねたかった。

 だが、王太子は飄々とした態度で、肩をすくめた。


「どういうことって、この店の保証人は私だからね。マユとは、最近知り合ったばかりのディートリヒなんかより、ずっと長い付き合いなのさ」

「……は?」


 ディートリヒがポカンと口を開けると、王太子はカウンターテーブルに片肘をついて、愉快そうに笑った。


「そうか、ディートリヒは知らなかったよな。だが、これを話してしまうと、私が城下に来ていることがバレてしまうから言えなかったんだ」


 まったく悪びれない様子の王太子に、隣にいるラルフがため息を吐いた。どうやら彼はすべてを知っていたらしい。

 そういえば、確かラルフとこの店に来た時に、ラルフが言っていたはずだ。とある身分の方が保証人になってこの店を開くことができたと。

 ……いや、待てよ、とディートリヒは思い直す。あの時確かラルフはこう言っていなかったか。「この近くで倒れられた」と……。


「――殿下!」


 ディートリヒが叫べば、小脇に抱えたコタロウもワンっと勢いよく吠えた。


「お前ら、もう少し静かにしろ。ここは静かに酒を飲む店だ」


 そう言われてしまえば、ディートリヒも引き下がるしかない。


「あとで、きっちり話を聞かせてもらいますから」


 ディートリヒの言葉に、王太子は参ったなと髪をかき上げた。




「それで、驚かないようだけど、マユは前から私の身分に気づいていたんだな」


 ディートリヒがコタロウを床に下ろしている間に、王太子が訊ねれば、マユは小さく頷いた。


「はい。保証人の封筒を提出した際に、ギルドの職員が驚いていたので、気になって封蝋の紋章を調べました。

 勝手に詮索すべきでないことは承知していたのですが、自分の店に関わることですから、知っておくべきだと思ったのです。ですが、直接お伺いすれば良かったですね」

「調べたのは店主として正しい判断だから気にするな。しかし、それほど前から私の身分を知っていて、それでも態度を変えなかったのはなぜだ?」

「態度を改めることを望んでいらっしゃらないと思ったからです。私は、お客様が美味しいカクテルを飲んで、ホッと一息つけるような、そんな落ち着いた時間を提供できるお店にしたいんです。そこに身分は関係ありません」

「そうか。ならばこれからも、私のことをただのレオンとして扱って欲しい」


 王太子は急に真剣な声音になってそう言った。マユは困ったような表情で、それでも頷いた。

 だが、ディートリヒは再び「は?」と声を上げていた。

 王太子の名はレオンハルトで、さらに言えば、正式な名前は一度聞いただけでは絶対に覚えきれないほどに長い。

 いや、名前の長さはどうでもいいのだが、彼が親しい者にしか呼ばせていない愛称がレオンなのだ。それを彼女に名乗っていたというのが問題だ。


「殿下!彼女にレオンと呼ばせていたのですか!?」


 再びディートリヒが詰め寄ると、王太子は笑みを深くした。


「なんだ、お前も呼びたかったのか?いいぞ、昔のように“レオン兄さま”と呼んでくれても」

「あの時は私も子どもでしたし、貴方と兄上が仲が良かったから、つい貴方のことも兄のように呼んでいたのであって――」


 そこまで言ってから、ディートリヒは口を閉ざし、今ではもう立場が違うのだと続けるつもりだった言葉を飲み込んだ。つい先ほどまで笑顔だった王太子の表情に、急に影が差したからだった。


「そうだな、昔に戻れるはずもないか」


 王太子は目を伏せて、呟いた。


「だが、ディートリヒ、せめてこの店にいるときくらいは敬語をやめてくれ。お前は私の従弟なのだから。歳だって、三つしか違わないのだし、兄さまとはいかないまでも、昔のようにレオンと愛称の方で呼んでくれると嬉しい」


 それは無理だ、とはなぜか言えなかった。再びこちらを向いた王太子の瞳が、寂しそうに揺れたからだろうか。


「……わかった」


 ディートリヒがしぶしぶ頷けば、レオンは再び笑顔になった。


「ああ、ラルフ、お前もレオンと呼んでくれていいぞ」


 レオンが茶化すようにそう言えば、ラルフは「結構です」と即座に首を横に振った。


「つれないな」


 レオンはおかしそうに声を上げて笑った。





「さて、何か飲もうか」


 ひとしきり笑ったレオンがそう言うと、マユがすかさずメニューとおしぼり、それにグラスに入った水を差し出した。

 それを、席に着いて眼鏡や帽子を外したディートリヒと、その横に座るラルフに渡したレオンは、「今日は私の奢りだから好きなだけ飲むといい」と言った。

 そうして自分はメニューを開かずに、マユに声をかける。


「今日はウイスキーを使ったカクテルが飲みたい。何かおすすめのものを頼む」

「かしこまりました。いつものモルトウイスキーではなく、ライ麦を使ったウイスキーでも構いませんか?ホルガーさんからいただいたものがあるのですが」

「ライ麦か。構わない、おすすめならそれにしよう」


 マユは頷くと、注ぎ口の付いた厚手のビーカーのようなガラスの容器を取り出し、そこに氷を入れた。そして酒らしき液体を三種類、丁寧に計量しながら容器に入れると、柄の長いスプーンでクルクルと混ぜ合わせる。

 そして、これまで見たことが無い、小ぶりのグラスを取り出した。ワイングラスのように柄のついたグラスだが、その形は三角形を逆さまにしたような不思議なものだった。

 そこに、氷が入らないように、小さな穴の開いた蓋を被せた先ほどの容器から、混ぜ合わせた酒を注ぎ入れた。

 酒は、紅茶のように赤みを帯びた茶色をしていた。それが小ぶりのグラスに入ると、宝石のように美しく見えた。


「お待たせいたしました。オールドパルです」


 レオンの前に置かれたコースターに、慎重にマユが酒を置く。


「ありがとう」


 グラスを手にしたレオンは、「お先に」とディートリヒとラルフに声をかけ、グラスの酒をそっと口に運んだ。


「……ハーブのような独特の苦みがあるな。それに、微かに甘みも。いつものウイスキーもいいが、これはこれで美味い」


 満足したらしいレオンの言葉に、マユが肩の力を抜いたのがわかった。


「お気に召したようで何よりです」

「それで?なぜこれをおすすめしたのかな?もちろん、美味しいのは確かだが」

「……このカクテルの名前の“オールドパル”は、『古き仲間』という意味です。レオン様がおっしゃった通り、このカクテルはハーブ独特のほろ苦さと、微かな甘みがあります。そうしたほろ苦さや甘みを、人生の苦楽を共にした昔の友人に重ねているのです。

 ……すみません、先ほどの、ディートリヒ様との会話が耳に入ってしまって。お二人は昔からお付き合いがあるようですし、これがいいかなと思ったんです」

「なるほどな」


 レオンはグラスの中の酒をじっと見つめた。その様子はまるで赤茶色のカクテルに昔を見ているかのようだった。


「……それに、このカクテルのカクテル言葉は『想いを叶えて』というものなんです」


 マユがポツリと零すように言うと、レオンはハッとしたようにマユを見つめた。


「気づいたのか?」


 何に、とはレオンは言わなかったが、マユは頷く。


「このカクテルも、その方と飲めることを祈っています」


 ディートリヒには何のことかさっぱりわからなかったが、レオンは泣き笑いのような顔で、「そうだといいな」と呟いた。




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