優しいジントニック(2)
「お飲み物は何になされますか?」
そういって差し出された二つ折りのメニューには、しかし、ディートリヒの知らない名前ばかりが載っている。文字は読めるのだが、名前を聞いてもどんなものが出てくるのか全く想像ができない。
値段はどれも、酒場街で出される酒より少しずつ高い。
だが、手が出せない金額ではない。店の雰囲気も加味し、ここはそうした少しだけ高めの一杯を、ゆったりと楽しむ店のようだと推察する。
「すみません、どれも知らないものばかりで。何か飲みやすい酒をお願いします」
「それでしたら、カクテルという、お酒に別のお酒やジュース、炭酸水などを混ぜて作るものがあるのですが、そちらで構いませんか?」
「ええ、構いません」
ディートリヒが頷くと、女性は「かしこまりました」と言ってメニューを預かり、カウンターの向こうで酒の準備を始めた。
酒が出されるまでの間、店内を物珍し気に眺めていたディートリヒの耳に、彼女がグラスに氷を落とし、酒と思しき液体を注ぐ音や、炭酸水のシュワッとした音が聞こえた。
最後にグラス内でカランと氷を転がす音がして、ディートリヒの前にコースターが置かれた。
「お待たせいたしました。当店のジントニックです。ただ、こちらには“ジン”という名前のお酒は無いようなので、よく似た隣国ブレタルダ産の蒸留酒を使っています。トニックウォーターも無いので、そちらも似たもので代用しているので、正確に言えばこれは『ジントニックのようなもの』なのですが」
ジンも、ジントニックも、トニックウォーターも聞いたことの無い言葉だ。何となく、酒か何かの名前だということはわかるが……。
説明になっていない説明をしながら差し出されたのは、透明のタンブラーグラスに入った、透明の酒だった。炭酸の気泡が、微かに浮かび上がっている。グラスの淵には、緑色の小ぶりのライムを串切りにしたものが一つ刺さっており、さらに、白い粒々とした氷の結晶のようなものが、三日月のように淵の半周ほどに付いている。
透明な酒の見た目といい、氷の結晶のようなものといい、良く言えば涼しげな印象の酒だ。だが、ディートリヒは少しだけ顔を曇らせた。
「まずはそのままお召し上がりください。お好みで淵についているライムをおしぼりください」
「この、グラスの淵についている氷の粒のようなものは」
「塩の結晶です。こちらもお好みで、お酒と一緒に口に含むと、また違った味わいを楽しめますよ。普通はジントニックにはあまり付けないのですが、お客様のお姿がとても美しいので、氷をイメージして、塩の結晶が雪の結晶のように見えるようにしてみました。ただ、好みもありますので、塩がお嫌であれば、付いていないところからお召し上がりください」
彼女の言葉に、ディートリヒの眉間に皺が寄る。自分を氷や雪に例えられることは、あまり好きではない。
氷雪を思わせる銀髪を短く刈ったディートリヒは、切れ長の目のアイスブルーの瞳と合わせて、その外見から『氷の騎士』と呼ばれている。
もともと無口な質ではあるし、人付き合いが上手い方ではないが、同僚である騎士たちから恐れられ、氷のように冷たい人間だと揶揄されているのは、心外だった。
もちろん、稽古などで部下の騎士たちを容赦なく叩きのめすため、冷徹な上官だと思われていることも知っているが、そこは稽古なのだから甘やかすわけにもいかず、どうしようもない。
初対面のこの店員も、そんな風に自分を見たのだろうか。氷で冷えたグラスを口に運びながら、ディートリヒはそんなことを思った。
口に含んだ酒は、シュワッと口中に広がる。微かな苦みと、柑橘のスッキリとした味わいが混ざっていながら、どこか優しい味がした。飲みやすく、つい、二口、三口と飲んでしまう。
グラスに付いたライムを絞れば、その酸味による爽やかさが増し、よりさっぱりと飲める。
ライムは温暖な南方でしか採れないため、高級な食材だ。それが、一切れとはいえグラスに添えられていることを考えれば、一杯がその辺の酒場よりも高くなるのも頷ける。
ライムを絞った味をしばらく楽しんだ後、ディートリヒはついにグラスの淵に付いた塩と一緒に酒を口に含んだ。すると不思議と塩気よりも甘さを感じた。
「……うまいな。それに、塩と一緒に飲むと、仄かに甘みを感じる」
ディートリヒが独り言のようにつぶやくと、店員が微笑んだ。
「さっぱりとしていながら、どこか優しい味だと思いませんか?まるでお客様のような」
その言葉に、ディートリヒは目を瞠った。
「そんな風に人に言われたのは初めてです。……その、貴女は私の見た目を冷たいとは思わないのですか?そう思って、氷のような見た目の酒を出したのでしょう?」
氷をイメージしたという店員の言葉を思い出しながらディートリヒが訊ねると、店員はいいえと首を横に振る。
「お客様は、確かに見た目は氷のように澄んでいてお美しいですが、冷たい方ではないでしょう?……だって、ほら、コタロウにあんなふうに優しく接してくださって」
店員は視線を、入り口付近に蹲る犬に向けた。あの犬は、名前を「コタロウ」というらしい。その響きもまた、この国のものではない。
「あんなふうに、コタロウが初対面の方に尻尾を振って懐いたのは初めてなんですよ。お客様がお優しい方だとわかったんでしょうね」
そう笑顔で言われたとき、ディートリヒの顔はカッと燃えるように熱くなった。それは、ジントニックという酒のせいなのか、それとも……。
気が付けば、ディートリヒは、自身が冷たい人間だと思われているということを、店員に話していた。
自分の見た目が、冷たい印象を人に与えることや、それによって、同僚たちにも避けられていること。寄ってくるのは、自分の身分や家柄、金を目当てにする女たちだけだということ。
他に客がいないことをいいことに、自分の悩みを彼女に相談していた。彼女が絶妙に相槌を打ちつつも、静かに話を聞いてくれるのも後押しとなって、ディートリヒはついつい喋りすぎてしまった。
日頃、心の内に溜め込んでいたものを吐き出したディートリヒの話が途切れると、彼女は「ところで」と切り出した。
「お客様は、どなたのご紹介でこの店に?わかりにくい場所にあるので、店のことを予め知っていないと来られない方が多いのですが……」
「王国騎士団第三士団のラルフ・アルトマン副団長です」
「そうでしたか。アルトマン様が」
店員はディートリヒが挙げた名前に、なるほどと頷く。
「お客様は、同僚から冷たいと思われていると悩まれておいでですが、アルトマン様に限って言えば、貴方様のことを、寧ろお近づきになりたいと思っていると思いますよ」
「え……」
そんなはずはないとディートリヒは思った。これまでも、アルトマンを飲みに誘ったことがあるが、その度に断られているのだ。今日だって、夜勤を理由に、体よく断られてしまった。ディートリヒがそういうと、店員は困ったように眉を下げた。
「アルトマン様は、この店の常連ですが、いつもこうおっしゃっているんです。『この店は、信頼できる人にしか教えない』と。そういって、今まで誰一人連れてきたことがないのです。それを貴方様に教えられたということは、貴方様が信頼できる方で、この店で顔を合わせてもいいと思っているということです。避けているような相手に、普通はそんなことはしませんよ。きっと、今までは本当に都合がつかなくて、お断りされていたのでしょう」
彼女の穏やかな言葉を聞いていると、本当にそうなのだと思わされてしまう。
「そうだと、いいんですが……」
ディートリヒが照れ臭そうにそういえば、店員は柔らかな眼差しで微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数日後、再び流民街の偵察に来ていたディートリヒとアルトマンは、前回の偵察で見きれなかった路地なども確認し、任務を終えた。
ディートリヒが帰りにまたあの「バー」という店へ行こうかと思案していると、アルトマンが声をかけてきた。
「ルーベンシュタイン副団長、……その、もしよろしければこの後一緒に飲みに行きませんか」
まさかアルトマンの方から誘ってくれるとは思わず、ディートリヒは返事が遅れた。それをアルトマンは勘違いしたらしい。
「すみません、やはり失礼でしたね」
慌てたように取り消そうとするアルトマンに、ディートリヒは慌てて返事をした。
「是非!私も、あの店に行こうかと思っていたところでした。もしよければ、一緒に行きましょう」
同僚と飲みに行くというのは初めてだ。思わず大きくなったディートリヒの声に、アルトマンはどこかホッとしたように、小さく息をこぼしていた。
そうして二人で向かった例のバーで、店員の女性がアルトマンに、ディートリヒを誘うようにと提案してくれていたことを知るのは、また次のお話。