琥珀色のウシュカヴェ(4)
翌週になると、小鳥がリュドガーからの呼び出しの手紙を運んできて、茉優を再び驚かせた。
そこには、先週のように図書室で待つとあった。
そうして図書室を訪ねれば、眠そうにあくびをするリュドガーが待っていて、本当に魔法について教えてくれるというのだ。
リュドガーが手短に語った話によれば、魔法とは、体の中にある魔力を変換し、何らかの作用を起こすことらしいのだが、そのためには、精霊の守護か加護が必要なのだそうだ。
守護は生まれながらにして与えられているもの、加護は後天的に与えられるものらしい。
守護や加護を授けた精霊によって、使える魔法の種類が変わるのだという。
本当は理論や、魔術と魔法の違い、精霊のことなど、座学で学ばなければならないことがまだまだたくさんあるらしいのだが、リュドガーは教える側に回るのはどうも面倒くさいらしく、とりあえず実際にやってみようということになった。
茉優は、魔法というからには呪文を唱える練習をするのかと思っていたが、無詠唱でイメージしたものを出すことも可能だという。
無詠唱といえば、日本で読んでいたファンタジー小説では、優れた魔法使いにしかできない高度な技だ。
そんな難度が高いことをいきなりやるのかと思ったのだが、茉優の場合はすでに実践済みなのでできるだろうとのことだった。
レオンを助けた時がまさにそれで、あの時、氷嚢があればと思ったために、頭を冷やすための氷が出たのでは、というのがリュドガーの見立てだ。
そこで、氷の形や大きさ、それに可能であれば冷たさ溶けやすさなどもイメージして、それを、茉優の魔力の放出口があるという右掌から生み出す練習をすることになった。
魔力の放出口が小さいという茉優は、一度に出せる氷も大きくないとのことで、手のひら大の氷をイメージする。
だが、いくらやっても氷など一欠片すら出てこなかった。茉優は何度も試してみたが、失敗ばかりが続く。
やはり自分には魔法なんて使えないのではと茉優が思い始めたところで、リュドガーが口を開いた。
「君の場合は、もっと思い入れのある氷をイメージした方がいいんじゃないかな。あのバーとかいう店で出てきた飲み物の氷なら、大きさもちょうどいいし、出しやすいかもよ」
なるほどと思い、目を閉じて日下さんのジントニックっぽいものをイメージした。
そして掌に集中すると、掌をかざしている空間にモワモワとした空気の揺らぎを感じ、次の瞬間、カランカランと氷が床に転がった。
慌てて目を開くと、なんと一発で砕かれた氷を出すことができていた。
リュドガーは自分で言ったくせに、「本当にそれでできちゃうんだ」と面白そうに笑った。
一度出せるようになると、面白いくらいにできるようになった。形状、透明度、溶けにくさを調整することが可能で、これは確かに便利そうだ。
もし日本にいたときに魔法が使えていたら、カクテルの練習に使っていた、純度の高い氷を買う費用が浮いたのではないか。なんて考えてしまうくらいには、氷の費用は結構馬鹿にできないものだったりするのだ。
床に落ちた氷を、リュドガーがどこからともなく出したバケツに入れるのを見ながらそんなことを考えていると、手を止めたリュドガーがじっとこちらを見ていることに気が付いた。
何か?と目で問うと、彼はニヤリと笑った。
「君の世界のバーというお店、こちらで開く気はないの?カクテルという酒に、君は強い思い入れがあるんでしょ?」
茉優の記憶を覗いたリュドガーは、茉優の心残りになっていることを、的確に指摘してきた。その視線を避けるように茉優は顔を背けた。
「わたしでは、お店を開けるほどの技量がありません。それに、そもそもカクテルを作るための材料が、こちらでは手に入らないので」
「へえ、手に入るかどうかは調べたんだ」
「それは……」
言い淀む茉優に、リュドガーは「なるほどねぇ」と言って、ニヤリと笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
レオンの姿を次に見たのは、図書室で会ってからひと月ほどが経った時だった。
茉優はリュドガーとの魔法の練習を終え、商業区の方角へと向かっていた。
リュドガーとの練習は、少しずつ氷を出す精度をあげるだけでなく、物体を冷やすという別の用途にも応用ができるように、引き続き週末になると行われていた。
リュドガー自身も、茉優の魔力の放出口を少しずつ大きくできないか試行錯誤しているようだ。
魔法を使うことに慣れない茉優は、練習の後は何となく気怠くなる。
だから早く食堂へ帰れば良いのだが、彼女の足は商業区に続く道を折れ、路地へと入っていた。
と、その時に誰かに腕を引かれ、ビクリと肩を震わせて振り返れば、そこに以前と同じローブを纏ったレオンが立っていたのだ。
「どこへ行くんだ」
レオンの声は冷たく、厳しい。茉優が流民街で人気のない路地に足を踏み入れたからだろう。
「危険なところへ行くわけでは――」
「危険に決まっているだろう!」
茉優の声は、強くはっきりとしたレオンの声に掻き消された。
「ここが流民街だとわかっているのか?表通りを一歩逸れただけで、どれほど危険か――」
「それは、流民街で倒れていた貴方に言われたくはありません」
今度は茉優がレオンを遮った。レオンはバツが悪そうに口を引き結んだ。だが、それでも茉優の腕を離してくれそうにない。茉優は小さくため息をついた。
「心配してくださっているのはわかりますし、なんなら、付いて来てくださって構いませんから」
「……わかった」
レオンは渋々といった感じで頷き、やっと茉優の腕を離してくれた。
茉優がレオンを引き連れてやってきたのは、流民街の酒場だった。
真っ昼間とあって、表通りに人影は少ない。昼間から酒を飲んで道端で寝ている中年の男と、姉弟と思しき襤褸を纏った幼い子どもたちがしゃがみ込んでいるだけだ。
それでも、レオンは慎重に辺りに視線を走らせている。
「警戒する気持ちもわかりますが、きょろきょろしていると、余計目立ちますよ」
「……そうだね」
頷いたレオンは、茉優の背後に一瞬視線を向け、それから茉優を見た。その眼は、本当にここに入るのかと訴えている。
レオンが一瞬向けた視線の先には、酒業を営む店の証である樽型の吊り看板があった。
「入りますよ」
茉優は躊躇することなく、重い木製のドアを押し開けた。
「こんにちは」
茉優が中に声をかけると、奥から「おお、茉優か」と低い声が返ってくる。
茉優は、薄暗い店内を物珍し気に見回すレオンを引っ張り、テーブル代わりの酒樽の合間を縫うように、声が聞こえてきたカウンターに向かった。
さすがに真昼間から酒場で飲もうという者はいないようで、茉優たちの他には客の姿は無かった。
カウンターの向こうには、レオンよりも大柄で、筋骨隆々とした坊主頭の男がいた。左頬に傷があり、鋭い眼光と相まって、恐ろしいほどに凄みのある顔だ。
「今日は連れがいるんだな」
チラリとレオンに視線をやったこの男が、この店『穴熊亭』の店主ホルガ―だ。
ローブを脱ごうとしないレオンを一瞥した彼は、それでも何も言わなかった。
流民街には訳ありの人間が多いので、迂闊に口を出すべきでないことを、彼は知っているのだ。
「何にするんだ?」
二人がカウンター席に着くと、ホルガーが訊ねてきた。
「珍しいお酒は入っていますか?」
茉優の問いに、ホルガーはニヤリと笑う。
「それなら、海の向こうの、“ウシュカヴェ”という酒が手に入ったぞ」
「ウシュカヴェ?」
聞き返したのはレオンだ。
「ああ。なんでも、エールを蒸留させてできる酒らしいんだが、詳しいことはわからねぇ。飲んでみるか?」
茉優はお願いしますと頷いたが、レオンがそれを止めた。
「君はまだ子どもだろう」
茉優はじっとレオンを見る。何となく、子ども扱いされている気がしていたが、それは間違いではなかったようだ。
「……わたしはもうとっくに成人していますよ」
こちらでは十六歳で成人だというし、日本でだって飲酒ができる二十歳をとうに超えている。
「……え?」
レオンは、にわかには信じがたいといった様子で、茉優の頭のてっぺんからつま先まで何度も視線を往復させる。茉優のことを、いったい何歳だと思っていたのか。
確かにこちらの人々は女性も子どももおしなべて背が高いので、日本人女性の平均くらいの身長の茉優は小柄な部類に入る。
それに、こちらの女性はグラマラスな体型の人が多く、それを見慣れていれば、育つべきところが育っていない自覚がある茉優の細身の体型は、確かに子供と思われても仕方がない。
だが、社会人として働いていただけあって、それなりに落ち着いていると思うのだが……。
だから、嬉しさよりも困惑が勝った。その困惑を浮かべた視線が、ジロジロと見ていたレオンの視線とぶつかった。
「――!すまなかった。妹と同じくらいの身長だったから、勝手に勘違いしていた」
レオンが焦ったように立ち上がって頭を下げようとしたので、茉優は慌てて席に着くように促した。
「誤解されているのは何となくわかっていたのに、お伝えしなかったわたしも悪いですから、お気になさらないでください」
勝手に誤解されていたので、こちらはちっとも悪くないのに、自分が悪いと言ってしまうのは日本人のダメなところかもしれない。
レオンは席に座りなおすと、それでもすまないと謝った。彼はこういうところが意外と律儀なのだ。
身分が高そうであるのに、傲慢なところがないのは、彼の美徳だろう。
「リュドガー様から聞いていないのですか?」
茉優の記憶を覗いたリュドガーは、当然茉優の年齢を知っているはずだ。
「……聞いてない。やっぱり、あいつもわかっていたよな。その上で敢えて言わなかったんだろう」
忌々しそうに口元を歪めたレオンに、茉優は思わず笑ってしまった。それを、レオンが驚いたように見つめていた。