琥珀色のウシュカヴェ(1)
ハンス夫妻との晩酌から少しあと、茉優が将来を模索していたその頃に、ちょっとした事件が起こった。
茉優がいつも通り孤児院へ行った帰り道、流民街と商業区のちょうど境の辺りで、倒れている人物を見つけたのだ。
体格的に男性らしいその人物は、夏の暑い盛りなのに、頭部から顔の上半分までをすっぽりと覆うフードが付いた、黒いローブを身に着けていた。
男性はぐったりとしていて、慌てて駆け寄った茉優の声にも反応が無かった。
この暑さだ。熱中症で倒れたのかもしれないと思った茉優は、周りに助けを求めた。
しかし、流民も多いこの場所では、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだとばかりに、皆遠巻きにして立ち去ってしまう。
ちょうどそこへ、孤児院でよく見かける茶髪の少年が通りかかったのは、まさに運が良かったとしか言いようがない。
茉優に声をかけられた少年は、慌てて最寄りの第三士団の詰め所まで走って知らせに行ってくれた。
その間に、茉優はどうにか男性を引っ張り、建物の陰の少しだけ涼しくなった場所に移動させた。
躊躇っている暇はなく、茉優はその人物のローブを脱がせた。
すると、目に入ってきたのはあまりに美しい黄金の髪だった。まるでシルクのように光沢を放つその髪は、癖が無くまっすぐで、背の中ほどまである。
顔に目を向ければ、驚くほど整った容貌で、元居た世界の海外の俳優でも、ここまでの人はいないのではないかと思った。
年齢は二十代後半くらいだろうか。だが、異世界人の年齢はいまだに判断が付きにくい。
服装はその辺の若者が着ているような、無地のシャツにサスペンダー付きのズボンとブーツだが、素材はどれも上質なものばかりだ。
だが、今は青年の身なりどころではない。彼の美しい顔は、熱が籠っているのか赤くなっていた。
茉優が恐る恐る額に手を触れると、途端に尋常でない熱さが伝わる。
熱を持った頭部を早く冷やさなければ。氷嚢のようなものがあればいいのだが。そう思った瞬間だった。自分が手を当てている青年の額が、急にひやりと冷たくなったのは。
「え?」
突然のことに驚き手を離せば、薄い氷が彼の額にかかっているのが目に入った。
「どういう……こと?」
茉優がそうつぶやいたとき、薄い氷から解けた水滴が、青年の額を伝って蟀谷の方へ流れ落ちた。
もしかして、彼は魔法が使えるのか?それで自分の頭部を冷やしたというのだろうか。だが果たして、意識のない状態でそんなことができるものなのか。
額の氷が全て溶け切ったところで、もう一度熱を測ろうと額に触れれば、すっかり熱が引き、むしろ少しだけひんやりとしているくらいだった。顔を見れば、赤かった頬は普通の血色に戻っている。
何が何だかわからないが、少しだけ、状況は良くなったようだ。だが、素人判断では油断ができない。青年は意識が無いままだし、早く医者に見せなければならないのは変わらなかった。
「お姉ちゃん!」
詰め所へ走ってくれた少年が、騎士の制服を身に着けた優しそうな男性を引きつれて戻ってきてくれたのは、そのすぐあとだった。
詰め所にいるのは、大抵は第三士団の下級の兵士たちなので、まさかその上の騎士様を連れてくるとは思ってもみなかった。
「こっち!」
茉優が声をかけると、二人はこちらに気付いたようだ。
「どうされたので――!」
騎士の男性が声をかけようとして、何かに気を取られたように言葉を失った。
「なぜこんなところに」
そう呟いた騎士は、青年の姿に視線を留めたまま、驚きを隠せないでいる。それでも彼はすぐに気を取り直し、テキパキと青年の脈と呼吸を測ると、青年の髪を隠すように再びローブを被せて、背負い上げた。
「貴女が助けてくださったのですか?」
騎士に問われ、咄嗟に茉優は頷いた。だが、特別なことは何もしていない。だから、騎士に名を問われても、名乗るほどのことではないと、名乗らなかった。
騎士はさらに何か言いたそうだったが、病人を背負っているのですぐに諦め、医者に連れて行くと言って立ち去った。
残された茉優は、隣に立つ少年に礼を言った。
「騎士様を呼んできてくれて、ありがとう。とっても助かったよ」
茉優が礼を告げると、少年はそばかすが浮いた鼻の下を人差し指でこすって、へへっと可愛く笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから数日後、茉優がいつものように店で給仕の仕事をしていると、先日の騎士が訪ねてきた。
「やっと見つけました」
そう言って微笑んだ騎士は、第三士団副団長のラルフ・アルトマンと名乗った。
お客さんたちが、めったに間近で見られない騎士に興味津々な様子で、こちらをしきりに気にしているので、茉優はハンスたちに断って、アルトマンを店の奥の休憩室に案内した。
アルトマンに席を勧め、簡単なお茶を出すと、茉優もアルトマンの対面に腰かけた。
「先日は、あの方を助けていただき、ありがとうございました」
アルトマンは改めて茉優に礼を述べた。王都の兵士たちは、別段荒っぽいということもないが、ここまで品が有るわけでも、丁寧でもない。そのため、騎士というのはこうも違うのかと茉優は感心した。
同時に、「あの方」という言い方が気にかかる。あの金髪の青年は、騎士にも敬語を使われるような身分という事か。
「ご丁寧にありがとうございます」
「そういえば、貴女のお名前をお聞かせいただいていませんでしたね。お伺いしてもよろしいですか?」
「茉優といいます。茉優・月下」
こちら風に苗字を後に言えば、アルトマンは茉優の名前を覚えるように、何度か口に出して呟いた。
「こちらでは聞かないお名前ですね。お生まれはどちらですか?」
アルトマンは笑顔で聞いてきたが、その瞳だけは、じっと茉優を観察しているように鋭かった。
さらりと訊ねられたその内容に、茉優は冷や汗をかいていた。日本だと言ってもいいのだろうか。これも何かの縁と思って、騎士である彼を信頼して、すべて打ち明けるべきだろうか。
騎士団には、魔法が使える者がいるとハンス夫妻に教えてもらった。もし今アルトマンに相談すれば、そうした特殊な力で日本に戻してもらうことはできるのか、同僚の魔法使いに聞いてもらえるかもしれない。
茉優が逡巡していると、アルトマンの視線がさらに鋭くなった。
「……遠い所です」
結局茉優は曖昧に答えた。迂闊に答えて、ハンス夫妻に何か迷惑をかけるようなことになっては元も子もない。
「……そうですか。ところで、今日は貴女にお願いがあって、こうして伺ったのです」
「お願いですか?」
何となく不安になり、茉優は警戒するようにアルトマンを見た。アルトマンは先ほどまでの剣呑な視線を消し、困ったように肩をすくめた。
「実は、先日貴女が助けられたあの青年は、とある身分の方でして……。あの方が、直にあなたにお礼を言いたいと、そう仰っているのです。どうかお時間を作っていただけないでしょうか」
あの金髪の青年は律儀な人なのかもしれないが、こちらとしては断りたいというのが本音だ。相手がどこかのお偉いさんでは、そこまでしていただかなくてもいいというか、失礼があってはいけないという気持ちが強い。
だが、アルトマンの様子を見る限り、彼も目上には逆らえないのだろう。お願いといいつつ、どこか強制的な響きがあった。
「それは、お断りすることはできるのですか?」
「……いいえ」
アルトマンは、申し訳なさそうにそう言った。茉優はやはりと思い、ため息をこぼした。