気の抜けたエール(2)
茉優を助けたのは、ハンスとダニエラの夫婦だった。
商業区で食堂を営む彼らは、その日、流民街の孤児院に炊き出しに行き、その帰りに、孤児院近くの池で溺れていた茉優と小太郎を見つけたのだという。
茉優は氷をかき分けたはずなのに、助けられたのは真夏の暑い日で、池に氷など張っていなかったそうだ。
それを知ったのは、茉優が彼らの食堂で、一年ほど住み込みで働いた後だった。
一年もたってしまったのは、茉優がこちらの言葉を習得するのにそれだけの時間がかかったからだった。
最初は言葉も通じず、見た目も異国人である茉優を、夫妻は警戒していた。
だから茉優を、王都の警備を担う第三士団の詰め所に預けるつもりで連れて行ったのだが、流民街の貧窮院か孤児院にでも連れて行けと断られてしまった。
その時に、大柄な兵士たちに囲まれて、怯えるように小太郎を必死に抱きしめていた茉優に、ハンス夫妻は同情した。
彼らは茉優と小太郎を引き取り、店で皿洗いを手伝わせるようになった。もともと真面目で、一人暮らしのおかげで家事も一通りこなせる茉優は、すぐに店の仕事に慣れた。
皿洗いだけでなく、食堂の掃除や、料理の仕込みの手伝い、それに簡単な縫物なども、嫌な顔をせずにやってくれる茉優を、夫婦は自然と信頼していった。
茉優は、何も知らない、言葉もわからない場所で自分を助けてくれた夫婦に感謝していた。
衣食住を与えてくれただけでなく、彼らは小太郎にも餌を与えてくれ、しかも茉優に宛がった屋根裏部屋に小太郎を置くことも許してくれた。
小太郎と離れずに済んだということが、本当に嬉しかった。
夫妻は、衣食住以外にもきちんと茉優に給金を出したが、茉優は普段着を数着買っただけで、あとは貯金をするという堅実ぶりだった。
茉優からしてみれば、知らない場所で何が起こるかわからない以上、お金は貯金して備えておくしかなかったのだが。
夫妻は茉優に、言葉や、こちらの世界のあれこれを教えてくれた。
茉優がいるのが、リヒテンラントという王国の王都だということ、そこの商業区と言われるエリアに夫婦の営む食堂があること、茉優が見つかったのが流民街と呼ばれる場所で、外国から流れ着いた者たちが住み着いている、あまり治安が良くない場所だということ。
そしてなんと、多くは無いが魔法を使える人がいることも知った。まさにファンタジーの世界だ。
ただ、夫婦は実際に魔法使いを見たことは無いという。数が少ない魔法使いは、そのほとんどが国に召し抱えられ、王立騎士団の第十士団、通称“魔導士団”に所属するので、めったに巷間に姿を現すものではないからだそうだ。せっかく魔法が存在しているのに、それを見ることが叶わないのは少し残念だった。
茉優が少しずつ読み書きもできるようになったころ、夫婦に教えられたのが流民街の孤児院の図書室だった。
孤児院の図書室は、孤児のための絵本から、流民たちが読めるように小説や実用書まで、無料で貸し出しているという。
夫婦は孤児院で月に一度、炊き出しをしているということだったので、茉優は一緒に連れて行ってもらうことになった。
炊き出しの日、早めの昼食を済ませると、小太郎にお留守番をたのみ、ハンス夫妻と茉優は孤児院に向かった。
孤児院に着くと、前庭で炊き出しの準備を手伝う。レンガを組み上げただけの簡易の竈に薪をくべ、煮炊きを行う。作るのは簡単な野菜スープと、蒸しジャガイモだ。
炊き出しを目当てにする人は多く、孤児以外にも、たくさんの流民がつめかけていた。流民たちは粗末な格好をしている者がほとんどで、みんなどこか疲れているような顔をしていたが、夫妻の温かい食事を口にすると、ホッとしたように表情が緩んでいた。
料理が完成したところで、夫婦は茉優に、図書室に行っておいでと声をかけてくれた。
炊き出しを手伝っていた、夫妻の知り合いだという高齢の院長が案内をかってくれ、彼の後をついて孤児院内を進むと、小さな図書室にたどり着いた。
ごゆっくり、と院長が声をかけて立ち去ったあと、茉優は十列ほど並んだ本棚をくまなく見て回った。
本の装丁は、あまり凝ったものがなく、安価な本が集められているようだ。小説や実用書は知らない単語も多く、まだ読むことができないので、茉優は絵本を数冊手に取った。
動物が描かれたものや、お姫様や王子様が出てくるもの、それに魔法使いの物語。
窓際の椅子に腰かけ開いた絵本は、子ども向けとはいえ魅力的で、茉優は綺麗な絵の付いたお話に引き込まれた。
始めのうちは、ハンス夫妻と孤児院に行っていた茉優は、昼間の安全な時間帯だけという条件付きで、食堂が休みの日に一人で孤児院に通うようになった。
院長は嫌な顔をせず歓迎してくれ、茉優が読めない部分があれば、発音や言葉の意味を教えてくれた。茉優が絵本を卒業するころには、孤児たちとも仲良くなり、文字を覚えた茉優が絵本を読み聞かせるようになっていた。
茉優の言葉が上手くなってきたころを見計らって、ハンス夫妻は食堂の給仕も任せてくれるようになった。
人との会話は、本を読むのとは違って、瞬時に聞き取りと発語をしなければならず、最初はもたついてしまった。注文を聞き間違えることも多く、その度にお客さんに怒られ、店主とともに頭を下げた。
言葉の壁は、なかなかに高い。お客さんに怒られればその度に落ち込むし、悔しさもあった。
それでも、場数をこなすしかなく、そうしてもまれているうちに、会話がさらに上達した。
そうしてこちらの世界で不自由なく生活していけるくらいになったころだった。夫妻が茉優を見つけた時のことを話してくれたのは。
その日は、普段はあまり酒を飲まないハンスが、珍しく晩酌にエールを飲んでいた。
こちらのエールは日本のビールよりも味が薄く、水代わりに飲む人もいるという。
茉優も付き合うかと言われて、少しだけ相伴にあずかることにして席に着くと、そこにダニエラも加わった。
三人でソーセージを肴に、瓶のままエールを飲みながら、今日来た客の話や、近所で生まれた赤ん坊の話、商業ギルドに新たに加わった飲食店の話など、他愛もない話をしていると、「そういえば、もう一年になるのか」とハンスが言って、茉優を助けた時のことを懐かしそうに話しだしたのだ。
そして彼らは、茉優がどこからきたのか、どうして池に落ちていたのかを訊ねた。二人が自分のことを案じてくれているとわかった茉優は、エールの瓶をテーブルに置いて、二人にぽつりぽつりと自分の身に起こったことをゆっくりと話し始めた。
自分でも信じられないような話を、しかし夫婦はじっくりと聞いてくれ、そして信じてくれた。
ひとしきり話し終わって、乾いた喉に残りのエールを流し込むと、エールはすっかり気が抜けてしまっていた。
それなのに、どこかすっきりとした味に感じるのは、自分の胸に痞えていたものが取れたからだろう。
「マユもうちに来て一年になる。このまま私たちと暮らしていてもいいし、他にやりたいことがあるのなら、挑戦してみるのもいい。もし元の世界に戻りたいというなら、その方法を一緒に探してみよう」
そう言ってハンスが人の好い笑みを浮かべる。
夫婦は茉優を追い出そうとしているのではなく、茉優に自分で生き方を決めさせたいと考えているようだった。
「少しだけ、考えさせてください……」
茉優が答えると、妻のダニエラが茉優の手を包み込むように握った。
「ずっとここにいてくれていいのよ。でも、貴女の道は貴女が選ばなければならないわ。だから、私たちのことは気にせずに、よく考えてね」
「はい」
茉優はダニエラの手を握り返した。自分はとても恵まれていると感謝しながら。