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気の抜けたエール(1)


 茉優が日下さんのバーを初めて訪れてから、一年の月日が経った。その頃には、本やメモを見ずとも作れるカクテルのバリエーションも増えていた。


 平凡で、悪く言えば代り映えのしない茉優の日常に、カクテルで色が付けられ始めていた。

 カクテルを作ることが楽しく、将来バーテンダーになるとまでは言わないまでも、日下さんのように、ホッとできるような落ち着ける時間を誰かに提供できたらいいなと、漠然と思うようになっていた。

 堅実に、平凡に生きる気持ちに変わりはないが、少しだけ、チャレンジしてみるのもいいのかもしれないと。

 


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 その日は、前日から明け方近くまで寒波が押し寄せた、寒い日だった。朝起きた時には窓が凍結し、古い日本家屋の祖母の家は、隙間風のせいでまるで屋外にいるような寒さだった。


 茉優は布団の中で丸まる小太郎とともに、どうにか外に這い出して、散歩用の裏起毛の厚手のスウェットの上下と、ロングのダウンコートに着替えた。

 スウェットの内側には、恥ずかしくて男性には見せられそうもない肌色の厚手のウールの肌着を着て、タイツも履き、マフラーをぐるぐる巻きにした完全防備だ。

 小太郎にも暖かい服を着せ、足に、凍傷防止の散歩用のソックスを履かせる。普段はあまり服を着ない小太郎だが、今日だけはさすがに寒すぎるのか、進んで服を着てくれた。

 散歩も今日だけは止そうかと思ったのだが、小太郎は行く気満々らしい。すでにリードのかけてある玄関で待っている。

 あんなに布団から出るのを渋っていたくせに。

 茉優は苦笑しながら、小太郎にリードを付けると、まだ薄暗い外へと出て行った。


 冬の朝は寒いが、空気が凛と透き通っているところが茉優は好きだ。

 茉優と小太郎は、白い息を吐きながら、毎回決まった散歩コースを歩いた。

 早朝のこの時間は、新聞配達をする人の自転車とすれ違ったほかは、まだ道路に人通りは無い。

 しばらく歩くと、小太郎が大好きな森林公園に着く。そこには池があって、鯉が泳いでいる。小太郎はその鯉を見るのが好きだった。

 この寒さでは、もしかしたら池に氷が張っているかもしれない。鯉は大丈夫なのだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていたせいだろうか、足元の側溝の金属の蓋が凍結していて、そこで足を滑らせ転んでしまった。


「いったぁ」


 茉優が声を上げたその瞬間だった。小太郎が何かに気を取られたように走り出したのは。

 茉優は尻もちをついた拍子に、思わず小太郎のリードを放してしまっていたのだ。


「待って!小太郎!」


 名前を必死に呼ぶが、小太郎は脚を止めない。彼が向かっている先は、鯉のいるあの池だ。


「小太郎!ダメ!」


 茉優の声が耳に入らないのか、小太郎は池の端に着くと、迷わずその先へと進みだした。茉優の考えた通り、池の表面が凍り付いていて、小太郎が上にのれるようになっていたようだ。

 だが、その氷がどれほどの強度があるのかはわからない。もし割れでもしたら……。

 恐ろしくなった茉優は、必死で小太郎の後を追った。池の淵で小太郎を呼ぶが、池の中心近くまで行ってしまった小太郎は、氷の下を覗き込んでいて戻ってこない。


「小太郎!こっちにおいで!」


 何度も名前を呼ぶが、小太郎は遊んでもらっていると思っているのか、逆にこちらにおいでというように、尻尾を振って茉優を待っている。

 と、その時だった。ビシッと嫌な音がして、小太郎が視界から消えた。そこに被さるようにバシャンと大きな水音がする。小太郎が池に落ちたのだ。

 茉優はなりふり構わず走り出した。池の氷は、端の方は茉優がのっても大丈夫な固さだった。

 小太郎はしばらくはバシャバシャと水音を立ててもがいていたが、氷のせいで上手く顔を出せないらしい。

 茉優は必死で縺れる足を前へと出すが、氷が滑り、足を取られて転んでしまってなかなか思うように進めない。そうしている間にも、小太郎は力尽きたのか、水音を立てなくなって、姿が見えなくなった。


「小太郎!」


 茉優の頭の中は、小太郎が死んでしまったらどうしよう、ということばかりが占めていた。

 小太郎は、たった一人残された茉優の大切な家族なのだ。失うなんて考えられない。

 茉優が小太郎のいた辺りまで来たとき、小太郎が落ちた穴が見えた。茉優は迷わずその穴の中に飛び込んだ。

 途端に、心臓がギュッと握りつぶされるような痛みが走り、口からゴボリと息が零れる。水の冷たさが、全身を針のように刺していた。

 目を開けることもできないが、一刻も早く小太郎を助けなければ、死んでしまう。茉優はぎゅっと閉じた瞼の力を緩め、どうにか目を開けた。


 池の水は、とても澄んでいた。普段から鯉が良く見えるほど水質が良かったため、周りの様子も伺える。

 頭上には、飛び込んだ穴と、氷が見えた。と、体が少しだけ上へと引き戻される。ダウンコートが浮きのようになっているようだ。

 それを無視して、辺りをさらに注意深く見ると、ついに小太郎を見つけた。

 小太郎は、茉優の足元の方に沈んでいた。茉優は寒さと痛みで凍ってしまったように動かない手足をどうにか無理矢理動かし、水底へと潜ると、片腕で小太郎を掴んだ。

 そのまま、がむしゃらに水を掻いて上に上がるが、その時になって、先ほどまで見えていたはずの、氷に空いた穴がわからなくなっていた。

 もう、息が続かない。茉優は朦朧とし始めた意識で、必死で頭上の氷を叩き、小さな(ひび)が入ったところに腕を突っ込んだ。

 そこから腕の力でどうにか氷を割ると、腕に抱えた小太郎を、氷上に引き上げた。

 だが、そこまでだった。茉優は力尽き、再び池の中に沈んでいった。

 意識が途切れる瞬間、岸辺のほうに人らしき影が見えた気がした。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 意識が戻った時、自分を覗き込む中年の女性の姿が視界に入った。茶色い髪に、スカーフを頭巾のように被っている。目じりに優しそうな笑い皺のあるその顔立ちは、欧米人のものだ。


『***、*********?』


 何かを話しかけてきたが、言葉が聞き取れない。外国人だろうか?


「ここは?where am I?」


 日本語と、簡単な英語で聞き返すが、女性の方も首を傾げる。お互いに、相手の言葉がわからないといった感じだ。


(――そうだ、小太郎はどうなったのだろう。)


 茉優は起き上がろうとして、よろめいた。それを、中年の女性が助けてくれる。


「ありがとうございます」


 礼を言うと、それはどうやら伝わったようだ。ニコリとした笑顔で返される。


「わたしの犬を知りませんか?」


 茉優が再び訊ねたが、やはり言葉が通じないようで、女性は困ったように眉を下げた。

 どうにか小太郎のことを伝えようと、手で自分を指し、その後両手を合わせて影絵をする要領で犬の形を作り、鳴きまねをした。


「わたしの、犬、ワンワン、アォーン」


 それを見て、女性はどうやら気が付いたようだ。ここで待っていなさいと伝えるためか、両掌を、ストップというようにこちらに見せた後、部屋を出て行った。


 数分して、彼女が一人の男性を連れて戻ってきた。女性と同じくらいの年齢の男性の腕には、元気そうな小太郎の姿があった。


「小太郎!」

 茉優がベッドから転げ落ちるように飛び出すと、小太郎も男性の腕の中でもがき、男性が下ろすと、茉優の元へ駆けつけた。


「良かった。生きてた……」


 茉優は泣きながら小太郎を抱きしめた。


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