心を温めるホットウイスキートディ(2)
茉優は小太郎を親戚に一時的に預かってもらい、どうにか大学を卒業することができた。そして社会人となり、祖母と住んでいたあの家に戻ってきた。
そうして小太郎との二人暮らしが始まった。その生活は、なかなかに気ままで快適だった。
朝は早起きをして、小太郎と散歩をする。散歩後は二人で朝食を食べ、小太郎は二度寝に、茉優は会社へと向かう。
小さな会社での経理の仕事は、月ごとの決算の時など残業もあったが、普段は定時で帰れることも多かった。
仕事帰りにちょこっとスーパーに寄って食材を買ったり、本屋で好きな作家の本を買って帰ると、風呂に入り、小太郎と夕食をとる。そのまま二人でゴロゴロして、眠りにつく。
休日は買っておいた本を読んだり、少しだけ遠くへ散歩に行って、犬も入れるカフェでお茶をした。
平凡だけれど、とても大切な時間がそこにはあった。もちろん、もう祖母も両親もいないけれど、こうして小太郎とのんびり生きていけたら、それでいいと茉優は思った。
仕事も安定しており、月に一回お給料が振り込まれると、小太郎に少しだけ高いジャーキーを買いに行き、帰りにあの蔦のバー『Bar Underneath the Sun』に寄る。
あの冬の日、温かく接してくれたバーの店員さんは日下さんと言って、もともとは都会の老舗のバーで、バーテンダーをしていた方だった。還暦を機に生まれ故郷に戻り、自分の店を開いたのだという。
バーの名前は、彼の苗字の「日下」を英語にしてつけたのだそうだ。
あの時、日下さんが寒そうに鼻を赤くした茉優に出してくれたのが、お酒を少なめにアレンジした「ホットウイスキートディ」という温かいカクテルだった。
日下さんの思いやりと、たった一杯の美味しいカクテルのおかげで、茉優は、まるでお店の名前のように、太陽の下にいるような温かい気持ちになれた。
茉優はお給料を貰う度、あのバーへ足を運んだ。まだまだ給料は多くないので、できるだけ節約するつもりだったけれど、月に一回だけ、日下さんが作ってくれる美味しいカクテルを飲むのが、彼女の贅沢だった。
すっかり常連になった頃には、自宅でもカクテルを作るようになっていた。簡単なものから、本やネットのレシピを参考に、自分でカクテルを作ってみる。
当然、日下さんのようには上手くはできないが、色々な組み合わせを考えたりしながら、自分好みのカクテルを作るのはとても楽しかった。
茉優がカクテルを作るようになると、日下さんは色々なアドバイスをくれた。氷の大きさや、カクテルに合わせたグラスの選び方、それに色々なお酒の知識。
月に一回、美味しいカクテルを飲む間に、彼は何でも教えてくれた。それでも足りなくなって、茉優は彼が週末に開く、中高年向けのカクテル教室に参加するようになった。
その教室では、毎回異なったカクテルを実際に練習で作っていた。
おじ様方に交じって、熱心にメモを取り、最後は自分で作ったカクテルを試飲する。
最初は失敗しにくい、グラスの中でお酒や炭酸水を混ぜる『ビルド』という方法で作るカクテルから始め、少しずつシェイカーを使うカクテルも学んでいった。
茉優に、グラスの淵に塩を付ける「スノースタイル」を教えてくれたのも日下さんだ。
そもそも、スノースタイルは塩だけでなく、砂糖や、場合によってはココアなども付けるということや、海外では『frosting』か、『rimmed with salt(砂糖の場合はwith sugar)』と呼ぶことなども教えてくれた。
スノースタイルを練習する茉優に、彼は見本として、スノースタイルにしたジントニックを作ってくれた。
スノースタイルは、てっきりソルティードッグやマルガリータなど、決まったカクテルに付けるものだと思っていたので、ジントニックをスノースタイルにしたことに驚いた。
茉優がそう言うと、日下さんはニヤリと笑った。
「そう、だからこれは正確に言えばジントニックではなく、『ジントニックっぽいもの』だよ、茉優ちゃん」
でもね、と彼は続ける。
「カクテルは自由なものなんだよ。もちろん、最初に創作した人に敬意を表して、その人のオリジナルのレシピを忠実に再現することも、バーテンダーに求められることだし、とても大切なことだ。オリジナルのレシピには、きちんと考えられてそうなっただけの理由があるし、創作した人の哲学があるからね。
だけどね、それだけなら、そもそも生産者が作った酒に、別の酒や果汁や炭酸なんかを加えるのだって、やるべきではないということになってしまうんじゃないかな。これはやっちゃダメ、あれはやっちゃダメ、というのは、自由なカクテルに相容れないものだ。
僕はね、美味しくて飲む人が喜べる一杯を作ることが、何よりも大切だと思うんだ。
技術が伴っていなくて、時にはお客様がご不満に思われることもあるかもしれない。それは確かにバーテンダーとして未熟なことだし、もっと努力が必要だろう。完成された完璧なカクテルを望まれるお客様も多いしね。
でもね、お客様が喜んでくれるなら、僕はこんな風に、アレンジすることだって有りだと思う。もちろん、そこは創作したバーテンダーに敬意を表して、名前に『ぽいもの』と付けるけれど」
日下さんはニコッと笑って、茉優に「ジントニックっぽいもの」を勧めた。
茉優はグラスを手に取って、その美しさに見惚れる。透き通る美しいジントニックに、雪を被ったようなスノースタイル。緑色の串切りのライムが目に鮮やかだ。
「氷のように綺麗ですね」
「そう、これはね、君と初めて会った、あの雪がちらつく寒い日をイメージしてみたんだ。寒そうに凍える君は、でも、祖母想いのとても心の温かい女性だった。まるで、ジンのドライなほろ苦さの中にも確かに感じる甘みのようだとね」
「それなら、『雪国』でも良かったのではないですか?」
茉優は照れながら、そう訊ねた。
「雪国」は日本の山形で生まれた、その名の通り、雪のように美しいカクテルだ。グラスの淵には、粉雪をイメージした上白糖が付いている。甘口で女性に好まれる一杯だ。
「うん、あれは本当に素晴らしいカクテルだ。ただ、ジントニックにしたのには、他にも理由があってね。茉優ちゃん、知っているかい?カクテルにはカクテル言葉というものがあることを」
「カクテル言葉ですか?」
「うん。花言葉のカクテル版みたいなものだよ。バーで振る話題の一つとしては面白そうだろ?」
「はい」
「そのカクテル言葉なんだけどね、ジントニックのカクテル言葉は『強い意志』なんだよ。大切なおばあ様を亡くされて、それでも君はまっすぐ前を向いて生きている。だからね、ジントニックの方が君に向いていると思って、ね」
少しだけ悪戯っぽく笑う日下さんの言葉に、茉優は目を見開く。ゆっくりと、彼の言葉がじんわりとしみて来て、嬉しさが込み上げてきた。
その日、茉優はまた一つ、カクテルの奥深さを知った気がした。