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心を温めるホットウイスキートディ(1)

ここから茉優サイドの話になります。



 月下(つきした)茉優(まゆ)は、小さな会社で経理として働くOLだった。

 身長は日本人女性の平均位で、特に背が高いわけでも低いわけでもなく、容姿も人目を引くようなものでもない。小説や漫画を読むのが趣味の、どこにでもいるごく普通の人間だと自分では思っていた。


 普通に学校を卒業して、普通に就職して、普通に結婚して。

 

 そんな普通の生活が、実はとても大切な、かけがえのない日々だったということに気がついたのは、交通事故で両親を失ってしまってからだった。茉優が高校生の時のことだ。


 両親が亡くなったことはショックで、とても悲しかった。しばらくは立ち直れず、それは茉優を引き取ってくれた田舎の祖母の家に移り住んでからも変わらなかった。

 ずっと部屋に篭りきりの茉優を、祖母は気にかけてくれた。一緒に食事を作ろうと言っては買い出しに連れ出そうとしたり、美味しいケーキ屋を見つけたと言ってはお茶をしに行こうと誘ってくれた。

 そんな祖母の優しさのおかげで、茉優は少しずつ前を向けるようになった。転校してから一度も足を運んでいなかった学校へも徐々に通えるようになっていた。


 高校卒業後は、祖母の後押しもあって、田舎を離れて大学へ進学することを決めた。学費は両親の残してくれたお金で賄うことができたが、生活費は自分で稼がねばならず、アルバイトをしながら大学に通った。


 祖母は本当に優しく穏やかな人で、茉優をとても可愛がってくれた。そんな可愛い孫娘が一人暮らしを始めた時、祖母は実は寂しかったようだ。茉優の代わりに、というわけではないが、柴犬の子犬を飼い始めた。

 小太郎、と名付けられたその子犬は、ちょっぴり人見知りする可愛い子だった。

 茉優も長期休みに帰省する度、小太郎の散歩をかってでて、そのおかげか、小太郎は少しずつ茉優に懐いてくれるようになった。


 大学では商学部に所属し、ゼミの同級生たちと一緒に飲食店を一から立ち上げて、卒業論文も、それをまとめたものになった。

 すごく楽しかったし、やりがいもあったけれど、その一方で、店を持つことの難しさも身に染みてわかった。

 自分には、どこかの会社で雇ってもらい、お給料をもらいながら働く方が向いているのだろう、そう思った。


 だから、在学中に簿記の勉強をして、その資格を取った。大学卒業後は経理の仕事に就こうと、就職活動も頑張り、祖母の家のある地方都市の企業からどうにか内定をもらうことができた。

 春からは、大好きなおばあちゃんと小太郎と暮らせる。平凡だけど、そうした平凡な日々こそ大事なのだとわかっていたから、とても嬉しかった。


 けれど、茉優の卒業を数ヶ月後に控えた冬の朝、祖母が急に他界してしまった。心筋梗塞だった。

 まだまだ元気に小太郎の散歩に行っていたはずなのに。


 あまりに突然の訃報で、茉優は気持ちの整理ができず、その頃の記憶は曖昧だ。

 葬儀は親戚が執り行ってくれたようだが、ほとんど覚えていない。気が付いた時には、祖母の残した古い家に、小太郎と二人きりだった。

 

 小太郎は自分が散歩に行くときに使うリードを咥えて来て、茉優に散歩に連れてってくれとねだった。

 茉優はぼんやりとしながら、小太郎にリードを付け、家を出た。

 散歩道は、小太郎が好きに歩いた。そうして小太郎に連れられてたどり着いたのが、外壁が蔦に覆われた一軒のバーだった。

 まるで、小説に出てくるファンタジーの世界の建物のような、趣のある店だなとぼんやりと思った。

 

 茉優がお店を見つめていると、不意にカランと音がして、店内から初老の男性が顔を出した。


「良かったらお入りください」


 男性は柔和な笑顔でそう言ってくれたが、茉優は躊躇う。


「私、お金を持っていなくて……」


 茉優がそう告げれば、男性はそれでも中へどうぞと勧めてくれる。


「外は寒いでしょう?」


 そう言われて初めて、自分がコートも身に着けずに散歩に出ていたのだと気がついた。


「あの、少しだけ、お邪魔してもいいですか?」


 男性の言葉に甘えて中に入れてもらおうと思ったのは、自分が寒かったからというよりも、一緒に散歩をしていた小太郎が寒くないか、急に心配になったからだった。


「犬も一緒なのですが……」


 茉優が不安になりながら訊ねれば、男性は「もちろんです」といって、茉優と小太郎を温かく迎え入れてくれた。


 そうして入った店の中は、落ち着いたネイビーブルーの壁紙に、光沢のあるカウンターテーブルに座席が6席だけの、こぢんまりとした作りだった。

 その一席を勧められて腰かけると、温かいおしぼりが差し出される。それを受け取った時、おしぼりの熱さに、自分の体が冷えていたことを改めて実感した。


「さあ、これをどうぞ」


 そう言って差し出されたのは、はちみつ色をした液体の入った、湯気の立つ、耐熱ガラスのカップだった。カップにはレモンの輪切りと、シナモンのスティックも入っている。


「体が温まるように、少しだけウイスキーを加えてあるのですが、お酒は大丈夫ですか?」

「はい」


 茉優はコクリと頷いて、両手でカップを持った。じんわりと手のひらが熱くなり、心が(ほぐ)れて行くような気がした。

 そっと口を付けると、ウイスキーの微かなほろ苦さとともに、はちみつの甘さが口に広がる。そして鼻に抜けるシナモンの香り。とても美味しい飲み物だった。


「……とても温まります」


 茉優がそう言えば、店員の男性はニコニコと微笑んだ。


「ゆっくり飲んで、風邪をひかないように温まっていってください」


 その優しい言葉に、茉優はこらえきれなくなった。ポタリ、ポタリと涙があふれ出し、止めることができない。

 祖母が亡くなってから、茉優はずっと泣くのを我慢していた。自分が泣いたら、あの優しいおばあちゃんが心配してしまうような気がして。


「す、すみません」


 手で涙を拭いながら謝るが、一度あふれてしまった涙は、なかなか止まらなかった。

 店員の男性は何も言わず、茉優に再び温かいおしぼりを差し出してくれた。

 そのおしぼりで目をそっと抑えていると、ゆっくりと涙が引いていく。


「すみません、急に泣き出したりして」


 茉優が謝ると、店員の男性は「気になさらないでください」と優しく微笑んだ。


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