優しいジントニック(1)
どうぞよろしくお願いいたします。
王都の商業区のはずれ、流民街の程近くに、一軒のバーがある。
入り組んだ路地裏にあり、存在を知っている者でなければ、なかなかたどり着けない店だ。
薄暗い路地をくねくねと進んだ先、まるで闇夜に浮かぶ月のようにポツンと光る灯りの下に、その店はあった。
入り口の扉の上に、酒業を営む証である、酒樽の形をした吊り看板を出している。その看板には、見慣れない異国の文字が刻まれている。
『BAR UNDERNEATH THE MOON』
教えられた通りの看板を発見して、ディートリヒ・ルーベンシュタインはホッとため息をこぼした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ディートリヒは王国騎士団第一士団の副団長である。
第一士団は、一から十まである騎士団の中で、近衛騎士が所属する組織だ。
そのため、普段であれば彼は王城に勤務し、王城の宿舎に起居していて、こんな風に城下に来ることはほとんど無い。
けれど今日は、来月に控えた王太子のお忍びの視察のため、王都防衛を担う第三士団の副団長とともに、流民街の偵察に来ていた。
流民街はその名の通り国外からの流民が住み着いている場所で、城下では治安があまり良くない場所でもある。王太子はその治安改善のため、視察を決定したのだ。だが、場所が場所なだけに、事前に地理の把握が必要だった。
第三士団の副団長は三十代の、ラルフ・アルトマンという、一見すると温和そうな男だ。妻子持ちの彼は、大層な愛妻家で子煩悩と聞く。だが、彼はその見た目とは裏腹に、かなりの手練れだ。
近衛である第一士団が貴族の子弟で構成され、家柄や見目が重視されているのとは異なり、第二〜第十士団の騎士は完全に実力主義で選ばれている。
第二~第十士団は麾下に多くの兵を抱えるために、上に立つべき騎士たちには侮られないだけの力量が求められるからだ。
そのため、副団長に上り詰めるだけでも相当な実力を要求される。
隣を歩く温和そうな男が、第三士団でも一、二を争う剣の使い手だということを知っているディートリヒは、その彼が何気なく目くばせをしてきたことで、背後に立った男をサッと羽交い絞めにした。
アルトマン同様、ディートリヒもまた、後を付けてくる者に気が付いていたので、対応は早い。
「ってぇ!」
ディートリヒに取り押さえられた男は、腕をねじられ、手にしていたナイフをポロリと取り落とした。
「物取りにしては物騒ですね」
ディートリヒがそう言えば、「そうですね」とアルトマンがナイフを拾いながら答える。
丁寧な物言いは、同僚であり、年下であるはずのディートリヒに向けたものとは思えない。
彼は、ディートリヒが近衛でも屈指の高い身分であるために、何度言っても敬語を崩してくれないのだ。
「最近、帝国から流れてくる者が増えたと聞きます。彼らは祖国で色々と悪さをしていたところ、粛正にあい、国を脱してきたとか」
「やっかいですね」
「まあ、それを取り締まるのが第三士団ですからね。やるしかないです」
アルトマンは男の手を、ポケットから出した革ひもで縛り上げた。こんなものを用意しているとは、さすが、王都警備を担う第三士団というべきか。その仕事に抜かりは無さそうだ。
今日の二人の服装は、その辺の庶民と変わらない質素なものだ。騎士団の制服では偵察にならないため、こうして庶民の服を纏っている。
武器も、それぞれナイフを一本持っているだけだ。庶民が剣を持っているのはおかしいし、そもそも、剣が無くても二人の腕前ならばナイフだけで事足りる。
ディートリヒは、万一襲ってくる者がいても、適当に伸しておけばいいと思っていたが、アルトマンは変装しているこんな時でも職務に忠実なようだ。
そんなことを考えながら、手慣れた様子で男を縛り上げるアルトマンを見ていると、作業を終えた彼はディートリヒに向き直った。
「もう夕方ですし、今日はこの辺が潮時でしょう」
そういうアルトマンの視線の先には、わらわらと集まりだしたやじ馬がいた。
「こいつを詰め所に引き渡して、引き揚げましょうか」
ディートリヒは頷いて、アルトマンとともに第三士団の詰め所に向かう。
第三士団は王都内に複数の詰め所を持っており、そこを拠点としている。その内の、最も近い所に向かう。
「アルトマンさん、このあと一杯どうですか?」
普段、ほとんど酒を嗜むことの無いディートリヒが誘えば、アルトマンは微かに目を瞠り、そして首を横に振った。
「私は夜勤なので、詰め所に戻ったあとは、そのまま仮眠を取って、また勤務なんです」
「それは大変ですね」
ディートリヒがそう言えば、アルトマンは申し訳なさそうに肩を落とした。
突然決まった王太子の視察は、第三士団のうちでもわずかな人間にしか知らされていないと聞く。今回の視察の対象に、第三士団自体も含まれているからだ。
そのため、本来であればもっと下の人間がやるべき仕事を、副団長である彼が自ら行っている。ディートリヒも副団長だが、そもそもディートリヒは王太子付きのため、こちらは本来の仕事の一環でもあるので、余計な仕事が増えた形になるアルトマンの方が負担は大きい。
話しているうちに、流民街近くの詰め所に着いていた。先ほどの男を引き渡すと、そこでアルトマンと別れる。
と、アルトマンがディートリヒを呼び止めた。
「もし、この近くで飲まれる場所をお探しでしたら、良い店を知っていますよ」
そうして教えられたのが、商業区のはずれ、路地裏に忘れ去られたようにポツンとある店だった。
ドアを引いて開けると、カランと微かなドアベルの音がして、客の訪いを知らせる。
ディートリヒが店内に足を踏み入れると、そこには落ち着いた空間が広がっていた。濃紺の壁紙に、ウォルナット材のカウンター。6席あるカウンター席のスツールは、壁紙に合わせた紺色のファブリックで、高い座面でも座り心地が良さそうだ。
通路を挟んだ反対側には、二人掛けのテーブル席が二つ。同じくウォルナット材で、脚の長いものが置かれている。そこに置かれたスツールも、カウンター席と同じものだ。
灯りは多すぎず、吊り下げられた橙色のランプが、カウンターとテーブル席の上、そしてカウンター奥の棚だけを照らしていた。
カウンターの奥には、多種多様な酒のボトルが整然と置かれている。壁際のランプの灯りが多彩な色の酒瓶を通して反射し、まるでステンドグラスのように美しい。酒瓶そのものも、インテリアの一つになっているかのようだ。
商業区の酒場街にも、こんな店はない。
(良い雰囲気の店だな)
そう思いながら、ディートリヒが人気のない店内に足を踏み出したところ、スッと足元に寄って来る影があった。
「キツネ……?」
赤茶色の毛の動物は、ふさふさの巻尾を振りながら、ディートリヒの靴の匂いを嗅いでいる。毛の色や被毛の様子は、まるでキツネのようだが、キツネは巻尾ではないし、くりくりとした黒い瞳は、黄金のキツネの眼とは異なる。狡猾そうなキツネよりも、少し間抜けな、純朴そうな顔立ちだ。
「犬ですよ」
不意に若い女の声がして、そちらを振り向けば、カウンターテーブルの向こうから、小柄な黒髪の女性がこちらを見ていた。犬と同じく黒い瞳をした女性だ。髪はきちんとシニヨンにまとめられ、白いシャツをパリッと着こなしているが、歳は若く、女性というより少女と言った方がしっくりくる。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
耳に心地の良い、柔らかな声で女性がそう言ったところで、彼女が店員だと気づいた。
「少しだけ、撫でても?」
ディートリヒがチラリと巻尾の犬を見てそう訊ねると、女性は相好を崩した。
「はい、ぜひ。その子も喜びます」
許可を得たディートリヒは、片膝をついて犬の顔をよく見た。ディートリヒの知らない犬種のその犬は、つぶらな瞳でディートリヒをじっと見返してくる。
自分が敵ではないと知らせるため、そっと手を出し、匂いを確認させたあと、首元をゆっくりと撫でた。
ディートリヒが撫でてやると、犬は嬉しそうに尻尾を振る。目を細めた犬は、口元が笑っているように見える。
ひとしきり撫でた後、名残惜しそうにディートリヒがカウンターの席に着くと、犬は入り口近くの、犬用と思われるラグの上に寝そべった。
「可愛らしい犬ですね。何という犬種ですか?」
ディートリヒが余所行きの丁寧な言葉遣いで訊ねると、女性はディートリヒに冷たい水の入ったグラスと、温かい手巾を出しながら、「シバです」と答えた。
「シバ?」
この国の言葉ではない、珍しい音に、思わず聞き返していた。ディートリヒが知っている限り、そのような犬種は無かったはずだが……。だが、見たことがない犬が実際に目の前にいるのは事実で、自分の見識が狭かったようだと思いなおす。
「初めて見ました。可愛い犬ですね」
「ありがとうございます」
犬を褒められると、自分のことのように店員の女性は喜んだ。
自分の周りに、こんな女性はいない。美しい宝石や、ドレス、そしてそれらを身に着けた美しい自分を褒めて欲しいと、媚びを売ってくる女たち。そんな彼女たちに辟易していたディートリヒは、自分ではなく犬を褒められて喜ぶ女性に、少しだけ興味を持った。
自分も犬を飼っているからだろうか。自分の飼い犬を褒められる嬉しさはよくわかるし、嬉しそうに微笑む彼女を、素直に可愛らしいと思った。
読んでくださりありがとうございます。