第32話
次の日の放課後。エイミーの部屋に行き、羊肉が良いらしいという話をすると、やっぱりねと彼女も頷いた。
「私も寮の管理人さんに話を聞いたら、『羊肉のワイン仕込みが1番だ』って言ってたわ」
「まあ、そんなに評判ならぜひ試してみたいわね」
「ということで貰ってきました」
どん、と重たい音を立てて麻の袋がテーブルに置かれる。近寄って開けてみると、そこには赤黒い塊が鎮座していた。
「えっ……これは? 」
「調理場の人に羊肉の話をしたら、これをくれたのよ」
「これが例の羊肉のワイン仕込みなの? 」
「そうなの。なかなか迫力あるわよね」
袋をさらに広げて、肉の全貌を見る。普段使っている教科書を2冊並べたくらいだろうか。厚みもティファニーのこぶしほどある。
顔を近づけると、わずかに酸っぱい臭いがした。
「……美味しそうじゃない。鳥にあげるにはもったいないわ」
「元は人間が食べる用に仕込んだんですって。まあでも、聞いたところ半分腐り始めているらしいから、興味本位で食べない方がいいかもね」
エイミーが人差し指でぷにっと肉を押すと、肉は指の形にへこんだ。この弾力の無さは、確かに腐り始めている。
「決行は明日の放課後から、長くて今週末までよ」
「つまり、シリルが来るまで今週ずっとやり続けるのね? 」
「そうよ。ゲームでは『5月の第一週』としか言ってなかったから、こうするしかないわね」
まあエサが手に入ってしまえばこっちのもんよ、とエイミーは自信満々に胸を張った。
翌日。白い可憐なワンピースという出立ちで麻の袋を肩に担いだエイミーに連れられ、シリルとヒロインのイベントが発生すると思われる東屋へ向かった。
「ここなんだけど。どう? 見覚えある? 」
連れて来られた東屋はウッドチップが敷かれた道から少し外れたところ、庭の木々の間の日の差し込むスペースにひっそりと建っていた。ティファニーの実家にあるものより少し大きいだろうか。白くてシンプルなそれは、緑の中によく映えていた。
ここで当たりだと思うんだけど、と言うエイミーに、ティファニーも頷く。
「なんとなく見たことある気がするわ。特にこの、この辺の確度から」
「やっぱり!? 私もここの道から見た感じが、ゲームのスチルと同じような気がするのよね! 」
エイミーはたたっと東屋に駆け寄ると、中に置いてある白いベンチにそっと腰かけた。そして視線を斜め上へ向ける。
「……どう? 」
「まあ、凄いわエイミー! ものすごくヒロインっぽいわ! 」
「本当? 表情の作り方を研究した甲斐があったわね!」
そう嬉しそうに微笑むと、エイミーは肩にかけていた肉の入った袋を中央の丸テーブルへおろす。近くへよると、昨日より鋭さを増した酸っぱい臭いがティファニーの鼻をつんと刺激した。
「さあ、役者は揃っているわ。あとはこいつの威力ね」
「……昨日より形が崩れていない? 」
「私の部屋3階だから暑いのよ。そんな所で保管してたんだから、こうなっても仕方ないわね」
熟成肉と考えればそう悪いものじゃないわ、とポジティブに言い切ると、エイミーは袋からナイフを取り出した。日差しを受けて刃がきらりと光る。
「きゃっ! 今度はなに? 」
「小鳥にあげるには大きすぎるかと思って。ちょっと切っておいてあげようかと思うの」
「……確かに。小鳥さんからしたら、食べづらいことこの上ないわね」
「さあ、いくわよ」
エイミーは肉の中央にぐっと刃を突きたて、前後に動かす。しかし、弾力を失った肉はナイフを柔らかく受け止めるだけである。
「……切りにくい、わねっ」
エイミーはさらに力を込めて肉に刃を食い込ませる。そのままぐぐぐと押し引きすると、肉からじわりと赤黒い汁が染み出てきた。グロテスクである。
ぎりぎりと力任せにナイフを動かして、どうにか真っ二つに切れたところでティファニーはエイミーの腕を止めた。
「エイミー、あまりここに時間を掛けていられないわ。いつ頃シリルが来るか分からないんでしょう? 」
「……確かにそうね。仕方がないけど、このサイズで行くわ」
東屋をぐるっと囲う柵の上に、肉をバランス良く置く。なんだかクッションを干しているみたいだ。
「さあ、あとは私はどこかに隠れれば完成ね」
「でも、できれば近くで見守っていてほしいんだけど」
「そうね、私も近くで見ていたいわ。……ああ、あそこの茂みなんてどう? あそこならシリルにも多分見つからないし、いいんじゃないかしら? 」
あそこ、と指をさす。東屋をはさんでシリルの通る道のちょうど反対側、背の低い茂みが続いている一角だ。
「あそこならエイミーとシリルが一直線に見えると思うの」
「そうかも。ただ、シリルが私の方を向くと、ちょうど茂みを正面から見る形になるのが心配だけど……」
「大丈夫よ。あなたがシリルの視線をしっかり捕まえてくれていればね」
「……分かったわ」
「じゃあ、頑張ってね」
少し緊張した面持ちのエイミーと握手をして、東家から離れた。
茂みの裏に回ると、そこには緑の芝生が一面に生えていた。ふかふかの芝は柔らかく、手で触っても湿っている感覚はない。ティファニーはゆっくりと腰を下ろした。芝生に直接座るなんて、いつ振りだろうか。
スカートの裾を直して茂みの隙間から覗くと、東屋のベンチに静かに座るエイミーが見える。口元には薄く微笑みを乗せ、午後の日差しを楽しむような眼差しはきらきらと輝き、優しげに庭の花に向けられている。そっと柵に置かれた手の横には、汁を滴らせた肉。
ーー……ちょっと待って、これ、大丈夫かしら?
これまで鳥を呼ぶ方法ばかり考えていたが、こうして引きで見てみると、理想とは程遠い完成度ではないだろうか?
ふと視線を移すと、テーブルの上にきらりと光るものが見えた。
ーーしまった、ナイフ出しっぱなし!
こんなところがシリルに見られたら、せっかくの美しいシチュエーションも台無しである。
どうやって伝えよう、ここから叫ぶ? それとも一旦茂みから出た方が早いだろうか?
思わず腰を上げたとき、遥か上空、ケーンという声が響いた。