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41.影の君

この頃、アカデミアはひとつの話題で持ちきりだ。


良家の子女、なかでも優秀なものしか通えない国立問政官養成アカデミアは、限られた範囲しか門戸を開かない。

選ばれし者には、選ばれるだけの理由がある。

裕福な家庭しか潤沢な教育は授けられないし、そういう環境に育てられた人間は基本的に「お上品」なのだ。下世話ではしたないことを恥じる良識があり、分別も己を律するだけの精神的熟成を許された者だけがそこに集う。

それでも、好奇心は、理知の範囲の外にある御せないナニかなのだ。


シリス教授の”影の(きみ)

その話題が、さざ波のように広がっている。

ただでさえ良家の、平たく言えば上流階級のものならだれもが知っている、あのイワクツキの元公式寵姫が公式の場に出てくることがまずは度肝を抜く出来事なのに、その本人が、ちかごろ謎の人物をいつも従えているのだから嫌でも注目は集まった。

人間嫌いで必要最低限しか人と関わらないシリス教授、その事情も背景も察してあまりあるため、お育ちの良い人々はそこにあえて触れない。

けれど、そんな教授がいつもいつも陰のように従えている謎の人物、いつも全身黒い衣服をまとい、頭から紗の黒いベールをかぶり、とくに口元には黒い布をかさねて垂らしている。

この国では、各障碍がある者が周囲にそれを知らせるための目印として、用いられるものがいくつかある。

黒い布は、見たまま、それを”自由に操れない”という目印機能をもっている。

目が不自由なものは、目元に黒い布を。

言葉を話せない者は、口元に布を。

だから、シリス教授が連れているその女性が、口元に黒い布をあてがっているのは、つまり、そういうことなのだ。周囲は無言のうちにそれを了承した。


時おりシリスが背後に控えている彼女に何かを言う。

こくり、と首肯を返している姿は何度も目撃されているので、耳は聞こえるのだろう。

だが、黒に身を包んだその女性が言葉を発しているところは、誰も見たことがない。

よくもわるくも目立つその女性を、いつしか生徒たちも、教職員も、”影の君”と呼ぶようになった。

遠縁にあたる者なのだという簡潔な説明以外、シリスも彼女について言及しない。

だから憶測が憶測を呼ぶのだが、やはり育ちがいい人々は、その憶測に悪意や下品な色を乗せない。

言葉の不自由な血縁者を、シリスが引き受けているのだろう。

もともと貴族出身のシリスが、そんな慈善活動をする必要などないけれど、さすが高貴なひとは課せられた義務も我々より大きいのだろう。

そんな風に、シリスと、黒い衣装でそれに従う影のような女性を、周囲はいつしか受け入れていた。


「っかーーーー!あっつい!!」

人目が途切れたのを察し、私は口元の布を、ばっさばっさと上下に煽って、皮膚に新鮮な空気を走らせた。

「行儀悪いわよ」

シリスに小声でたしなめられて、つーんとそっぽを向いて見せる。いいじゃんこんくらい。暑いんだもん。布は熱がこもるしさ。

シリスはいいよ。涼やかな衣装に身をすっきりと包んでいて、髪も高く結い上げて涼しげだ。

私はどうだ。

ただでさえ、黒い色は太陽光を集める。

目や髪の色を目立たなくさせるために、頭巾のように黒いベールをすっぽりかぶり、さらになにを言われてもうまく返せなくて『言葉の不自由な女がシリスの近くにはべっている』なんて王宮に伝わったら一発で身バレする、それを少しでも緩和しようと(つっても、実際にこっちの言葉はやっぱり流暢に使えないので、ややこしさを回避する目的もある)、こんないでたちなのである。

楚々と、誰とも視線を合わせず(目が合って興味を持たれても困る)、しずかにシリスの金魚のフンを演じている。

とにかく、ユカリがこの国立施設に名誉館長的な感じで就任するのを、そしてお供としてアレンがくっついてきて、あの緑の服を運んでくれるまで、ひたすら目立たないようにここで過ごせばいいのだ。

シリスいわく、もう目途はついてるとか。

なら、逃げ切れるかもしれない。

そういえば。

「アレン、手紙、とどく」

シリスの秘書的な役割と解されているのか、シリス宛の書類や手紙を代理であずかることが多々あった。

シリスが教壇に立っている間や、なにやら会議とかしている間の私は、やることがない。

今日はそうやって家にひきこもっていたら、アレンからの手紙がとどけられたのだ。

「めずらし」

そう言いながら手紙を受けとり、ちょっと乱暴な感じで封を開けるシリスの横顔は、少しだけ疲れている風だ。

最近の彼女は忙しい。

私という厄介なものを引き受けつつ、仕事に研究に、そして暗躍に。

一気にやることが多すぎる。

しかも手を抜かないタイプなので、きっと負担も相当なのだと思う。

申し訳ないけれど、私が元の世界に戻るまでの辛抱だから、勘弁してほしい。心中でそっと詫びる。

私の意思を知ってか知らずか、封筒のなかの紙(たぶん手紙)の文字に目を走らせ、シリスは何事か眉根を寄せた。

よくない知らせなのだろうか。

無言でも私の視線はうるさかったのだろうか、ちら、とシリスと目線があった。

シリスはだいじょうぶよ、と言うように微かにうなづく。

そういう聡さが、彼女の魅力だ。

「アレンから、あなたへ」

シリスが、紙の束に挟まれていた何か黒いものを、はらりと手のひらに振り落とした。

押し花だ。

「アレン、わたしのこと、書く?」

アレン、私についてなんか言ってた?なんだって?という意味で、単語をつらねる。

シリスは正確に読み取ってくれたようで、静かに首をふった。

「何も書いてないから安心して。下手に検閲されたらバレるでしょ」

最近は彼女が使う高度な単語も聞き取れるようになった。話せないけれど、言っていることはなんとなく読み取れる。

でも、表情はちょっと読めない。

それはシリスがそういうタイプだからなのだろうか、考えていることがとにかく分かりにくい。

お菓子を作っているときと、研究しているときは、妙にイキイキしてわかりやすいけれど。

「はい」

ぺら、と私の手のひらに移された押し花は、黒くて見覚えのある花。

なんだっけ、ルキ、じゃなくて、

「ライキ」

ぽつりとこぼれた花の名前。

私が押し込められた、あの宮の周りにびっしりと、空間のすべてを埋めるように敷き詰められていた花。

あまりいい思い出がない。

わざわざこんなものを、私に?アレンが?

ちょっとだけムッとした。

イヤミかよ。

しかも手紙に私のことは特に言及していないのに、この花をあえて押し花に加工してまで送って来るとか、マジでどんだけ嫌味で性格悪いのあいつ。

紗のベールに覆われた私の表情を、シリスは正しくに読み取ったようで、小さなため息とともに何かをボソッとつぶやかれた。

なんて言ったのか聞き返す前に、彼女がすたすたと歩いていくので、私もあわてて後を追う。


――気のせいじゃなければ、ドンカン、とか言ってた?シリス。







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