ピンカートン
谷也さんの音大の同級生で、ソプラノの林ゆかりさんから、オファーが来た。彼女がジョイントコンサートを開くことになり、何曲かデュエットをとの依頼で、賛助出演である。
このところ、谷也さんは毎週のように歌っている。元々、勉強熱心な彼なので、レパートリーは広いのだが、やはり実際に観客の前で歌えることと、レッスン室で終わってしまったものとでは、当然自信に差が出てくる。
新しいレパートリーで出演したいところではあるが、なかなかロッシーニのオファーは来ない。まぁ、それ程ロッシーニは歌える相手も少ないのだが……。
と言うわけで、今回もモーツァルト中心である。1曲だけプッチーニのピンカートンがあったので、私も聴きに行くのが楽しみになった。
となれば、やはり運転手の指名が掛かる。今回は公共交通機関で十分なのだが、なにせいつも花束の数がすごいので、手で運ぶには少々難儀なのである。
それを回避するために、男性歌手はよく、オケやスタッフの女性に、貰った花束をプレゼントし、手元を軽くして帰る人も多い。ファンの方々には感謝なのだが、意外と対応に苦慮する問題でもある。今回は日曜日のコンサートなので、私が出張れてよかった。
林ゆかりさんは、リリコソプラノだ。少し線が細めだが、背も小さく、谷也さんと並ぶと様になる。彼女の不思議な魅力は、2点Fを超えた音域にあった。それまでは、少し下に入った歌い方をするので、響きを損しているのだが、Fを超えると途端に上に抜けるのである。しかも、柔らかい響きが保ち続けられる。
これなら、確かに蝶々さんの「ある晴れた日に」は、得意な曲になるはずだ。しかも、プッチーニばかりにはせず、2曲に絞っているので、賢い選択である。
実は蝶々さんは、結構中低音がよく出てきて、林さんのような声には、全幕は到底無理なのだ。
「学生の時は、全然違う声だったんだよ」
とは、谷也さんの弁である。そういう人は、結構いる。
「イタリアに留学してね。確実に声が変わった。隣にいても、歌いやすくなったよ」
学生の頃から、よく2人のペアで歌っていたらしい。彼女も谷也さんの活躍は喜んでいた。
「今回、谷也君のスケジュール空いてて、ほんと良かったー。私達だけでは、350席は埋められないもんねぇ」
と、ジョイント相手のメゾさんと、はしゃいでいる。
谷也さん目当てなのか、一般のチケット購入が、かなりあったらしい。(こちらも、うれしい限りです)と内心思うが、当事者ではないので、黙っていた。
割と早めに到着したため、まだ大丈夫かと、着替えを運ぶために、一緒に楽屋まで来ていた。そこでうっかり、林さん達に見つかってしまった。
谷也さん越しに「誰?」と書いてある顔でこちらを見られ、どうしようと思っていたら、「僕の運転手さん」と案外さっぱり紹介されて安心した。
「こんにちは」
笑顔で挨拶する。が、やはり、そうか……。警戒心剥き出しの、厳しめの表情で挨拶を返される。「あなた、谷也君の何?」という、散々見てきた顔である。
「では、会場で聴かせていただきます。終わったら、また伺います」
ビジネスライクに谷也さんに声を掛け、とっとと楽屋を後にした。
「お疲れ〜」
谷也さんの声が背後から掛かった。
「蝶々さんはなんと15歳で、嫁したのです。しかも、アメリカ人に」
とここまで聞いただけで、充分ドラマチックなストーリーが想像できる。
江戸時代、まだ開国していない長崎が舞台で、武家出身の娘が芸者になった設定なので、最後の自害に至るまで、日本人には割とすんなり受け入れられるオペラなのではないだろうか。
しかし、この日本女性の生き方や文化、習慣などが、イタリア人には理解しがたく、初演のミラノでは大失敗だったそうだ。
何より「名誉のために死を選ぶ」という武士道を、当時のイタリア人が理解できたとは思えない。プッチーニは存命中、スカラ座での再演を禁じたという。
まぁしかし、いくら当時の日本では、19歳では「トウ」が立ち、20歳ともなると「年増」と呼ばれ、21歳はなんと「大年増」と呼ばれていたとはいえ、15歳とはロリコンにも程がある、とツッコミはしておこう。
ピンカートンには、少し張りのある声が合うのだが、谷也さんのピンカートンは優しく柔らかい。アメリカのヤンキー野郎というよりは、海軍士官らしく品がある。
第1幕の最後、結婚初夜に向かう2人の愛の二重唱である「私を可愛がってくださいね」。蝶々さんの肩を抱き、引き寄せ「さあ、おいで。君は僕のものだ」と歌う姿が、なんとも色っぽく、生々しく感じるのは、私だけではないようだ。
「いやっ」と思わず小さい声が、後ろの席から聞こえた。谷也さんのファンの人なのだろう。
私の声が、漏れたのかと思った……。
無事、演奏会が終わり、楽屋はごった返していた。出演者は少ないのだが、リサイタルやジョイントの場合、友人知人、音楽仲間や身内などが、勢揃いで楽屋に押し寄せる。
私も谷也さんの楽屋をせっせと片付け、まとめたゴミを出しに廊下に出た。終演後の楽屋の片付けは、結構自分達でやらなければならないことが、多い。
と、ふと視線を感じ、廊下の先にいる男性と目が合う。
「銀ちゃん!?」「花梨さん!?」
同時に声を上げていた。
ふわふわカールした茶色の髪で、昔とちっとも変わらない人懐っこい顔をした、銀岡君だ。皆「ギンちゃん」と呼んでいた
「クラリネットの銀ちゃんだよね? 第九の時の。うわ〜、何年ぶりー?」
「17年ぶりですか! 覚えててくれたんすね。感激っす!」
「やだー、そのしゃべり方、懐かしい。忘れないわよ。あんな素敵なお花もらったの、銀ちゃんが最初で最後だもん! ごめんねぇ。こんなおばさんになっちゃって」
「いえ、今でも十分綺麗っす」
「やだー、やっぱり銀ちゃん目が悪いんじゃない? 17年前も、思ったけどー」
「両目視力2.0っす!」
「もぉ、銀ちゃん、面白すぎ! 今も吹いてるんでしょ、クラ」
「あっ、そうか。花梨さんが歌ったのって、Gムジカ交響楽団でしたね。あん時、俺ヘルプで入ってたんですよね。まだ、音大の1回生だった」
「そうなの! てっきり、Gムジカの1人かと思ってた。定演だったもんね」
「そうでした。先輩に頼まれて。行ってよかったよなぁ、つくづく。思い出しますよ。綺麗だったんですよね、花梨さん。忘れませんよ。花渡すときなんか、ほんとドキドキで」
「うれしかったなぁ。私、驚いたし」
そう。男性に花を貰うなんて、あれが初めてだったなぁ。
「あの時、確かホディーガードが3人いて、近寄るスキもなかったんすよね。オケの仲間内じゃ、花梨さん結構話題になってたんすよ。でもその人たちのお陰で、声掛けられないって、皆言ってた。近づこうとすると、3人のうちの誰かが、必ず傍にいるって」
「うそー、いないよー、ボディーガードなんて」
「いや、花梨さんは知らないかも知れませんが、守ってましたよ、確かに。だから、俺、花渡すの舞台袖だったんです。そこでしか、話しかけられなかったんですから」
「えぇー、そうだったの? でも、ありがとねー。私の大切なファン1号さんだもんね。こんなところで会えるなんて、ほんとうれしい。で、今は。どこの交響楽団? 演奏会あるなら、教えて。行くから。LINE交換しよ」
と、スマホを楽屋に置いてきたことに気づく。
「花梨さん、やっぱり今もボディーガードいるじゃないですか。ヤバいっす、俺……」
と銀ちゃんの視線を追って、後ろを振り向いた。
谷也さんが、楽屋の戸口のところに寄りかかって、こちらをガッツリ睨んでいた。
「まったく、どこまでゴミ出しに行っているかと思えば……」
と言いながら、こちらにやって来る。
「こいつが、お世話になってるようで」
と私の頭を小突く。
「いえ、とんでもありません! 今日の演奏、素晴らしかったです。俺、ゾクゾクしました。ピンカートン」
銀ちゃんは少し興奮気味に、答えていた。
「で、花梨とは?」
レジェ―ロテノールとは思えない声で、問いただす。なんだか、脅してないか……。
「えっと、花梨さんが、第九のソロ歌われた時、俺、後ろのオケでクラリネット吹いてました。花梨さん、ほんとに綺麗で、憧れの的だったんです。本番、黒いドレス着て、楽屋から出てきた時なんか、袖裏でオケがどよめいたんですよ」
「やだー、銀ちゃん大げさだなぁ。昔の話でしょ」
「いや、だから、今でも十分綺麗だって……、あっ、すみません……」
谷也さんが、半眼で銀ちゃんを見ていた。
「LINE、僕のでいいかな。花梨にはあとで送るので」
「光栄です」
と言って、銀ちゃんは谷也さんと交換してしまった。
「申し訳ないけど、少し急いでて。花梨返してもらうね」
丁寧ではあるが、どこかトゲがないか、その言い方は。
「ごめんね。私、運転手さんなの。必ず連絡するね。頑張ってね、定演。聴きに行くからね」
と、お別れしている最中なのに、無理やり肩を抱えられて、楽屋に戻った。
「そんなに、急いでる? このあと、何かあったっけ?」
今日は打ち上げはなかったはずだ。
主役のお2人は、この後、色々片付けが大変とのことで、「後日また飲みましょう」と、さっき楽屋で言ってなかったか?
「カリリン、今日は家で、反省会!」
と、谷也さんがおっしゃる。
「はて?? 何の?」
と思いつつ、急いで楽屋を後にした。
今日も数多くの花束に埋もれる帰りの車中、何やら谷也さんはご機嫌斜めである。
「第九……ドレス……」
ブツブツ呟いている。夕食を家で食べるとまで言い出し、途中買い出しもする。
「簡単で早いので、しゃぶしゃぶね」
と私が勝手に決め、谷也さんはスパークリングとワインを2本も買おうとするので、ワイン2本は棚に戻して、レジに向かった。まだ、家にあったよ、いーぱい!
家に着くなり
「一体、どうなってるのか、説明してもらおうか」
と凄まれたが、身に覚えがないので怯えるネタがない。
「はぁ…」
と覇気のない返事をするだけだった。
「で、カリリンは第九の『ソロ』を歌ったの!?」
「えっ、言ってなかった?」
と惚けたが、そうだった……。
谷也さんにも理美さんにも内緒にしていたのだ。あんまり銀ちゃんが相変わらずで懐かしかったので、すっかりそのことが抜け落ちていた。
「えっと……、昔の若気の至りです」
「しかも、オケの定演で?」
「あの……、どこからお聞きでしたでしょうか?」
前も、こんなことがなかったか……。
「あんなお花もらったの、最初で最後って、どんな花!」
ほぼ、最初からだな。
「赤いバラを一輪……」
「で、ボディーガードは?」
「ホントに知らなくて……。ただ、あの頃、確かによく一緒にいたは、テノールとバスの2人で……」
はぁ〜と、谷也さんが大きくため息をつく。
「ドレスの写真、ないの?」
「実家に帰れば、あるかも。デジカメは持ってなかったし、スマホもない時代だし」
「僕、知らないことばっかり……」
と、うなだれる。
「まさか、他にもソロ、歌ったことあるとか?」
「……もう一回、第九と、モツレクも……」
「ねえ、カリリン……。何でソロ止めちゃったの?」
「谷也さん……。才能の限界です。何も知らなかったから、できただけなの」
本当だ。何も分かっていなかったし、発声も素人だった。本当に、一時の気の迷いとでも言いたいくらい。だから、言わなかった。私の中では、完全に終わった出来事なのだ。
「黙ってたことを、怒ってるの?」
「そう!」
と強めな返事に、戸惑った。
でも、すぐにいつもの谷也さんの声が返ってくる。
「ごめん、違う……。僕の知らないカリリンを自慢されて、嫉妬したんだ……」
まただ。どうして、そんなに谷也さんは心配するんだろう。神様からもらった天性の声の持ち主で、イケメンで、今では引っ張りだこのテノールなのに。
「手に入れたと思った途端、いつもすり抜けていっちゃうんだよ。カリリンは」
私は席を立った。テーブルを回って、谷也さんの前まで行ってひざまずく。谷也さんの膝に両手を置き、言葉を尽くした。
「私が好きなのは、谷也さんだけなのに? 谷也さんのこと考えると、こんなに胸が熱くなって、今でも手を繋いでくれるだけで、飛び上がりたくなるほどうれしいのに? こんな思いをしてるのは、私だけなの?」
谷也さんが驚いて、顔を上げる。
「若い時の私をあげられなくて、一番悔しいのは、私なのに……。どうして、谷也さんがそのなに苦しむの?」
私の目をじっと見つめたかと思うと、やっと、抱き締めてくれた。
「ごめん」
と、呻くようにつぶやく。それでも、まだあなたは不安なの? 私は、どうしたらいい?
「一緒に、暮らそう」
強く抱き締めたまま、谷也さんは、そう言った。