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ドン・ジョバンニ

 谷也さんのレパートリーが増えていく。

「テノールって、オッターヴィオしかないんだよね、ドン・ジョバンニ。今度は真面目で一途な貴族代表。ジョバンニの当て馬ってところ? この間まで、王子だったのに〜」

 とのことで、不満なのかグレている。

「いいじゃない。放蕩三昧の堕落貴族の対抗馬なんだから、胸を張って挑みなさい!」

 と返すと、

「おもしろくないかも〜」

 と、大胆発言している。


 ジョバンニはバリトン歌手が歌う。ましてや、王子様キャラの谷也さんには、今は難しい。どうしても歌いたかったら、年齢を重ねて、声が変わってから挑戦すればいい。かのドミンゴですら、今はバリトン歌手として活躍しているのだから。

 ただし、バリトンになってまで、現役を続けるかどうかは、本人の考え方次第だが……。

 どちらにしろ、「女子、命」の役を、今歌う必要はない。演じたがっているように見えるが、何だか知らないが、腹立たしい。


 大体、このドン・ジョバンニを好きな女子が、世の中にいるのだろうか。

 まぁ、男性の憧れの、いや、夢の世界の生き物で、ルフィや悟空と変わらない。男のロマンというべきか、本能というべきか、ただ単にうらやましいだけなのかもしれないが、このオペラを好きな男性は多い。

 いや、男性でも「ルフィや悟空に謝れ」と、叫ぶ人達もいるかもしれないが……。


 現代に当てはめれば、一方的な婚約破棄、婦女暴行未遂、殺人、結婚詐欺など、その犯罪歴をあげればキリがない。当代切ってのプレイボーイ(死語だが)か、悪魔の使いかとでも言いたくなるキャラクター。まったく何が良くて、こんなに女子に人気があることになっているのか、さっぱり分からない。

 最後に地獄に落ちようが、この不快感が払拭されることはない。

「滅びの美学」など、「ケッ!」である。

 モーツァルトというより、脚本家のポンテの理想なのだろう。いや、モーツァルトも好色家との事なので、やっぱり世の男共の理想なのだろう。きっと、ポンテはモテない男だったに違いない。……と、思いたい。

 ジョバンニの解釈については、台頭するもう1つのものがある。「全ての女性に平等に優しく、博愛にとんだ愛情溢れる男性」というものだが、どこまでいっても男目線である。


 しかし、この最悪なキャラクターを主役に、モーツァルトがオペラにすると、当時のプラハで大ヒットすることになる。今でもポンテ3部作として、上演回数の大変多いオペラの1つである。

「フィガロの結婚」「コジ・ファン・トゥッテ」と同様、軽快で優美な音楽であるのはもちろんなのだが、第1幕で殺人は起こるは、第2幕でジョバンニが地獄に落ちるはで、他の2作とはかなり違った悲劇的な世界感があり、当時としても画期的な音楽であったことは、想像に難くない。


「でも、良かったね。魔笛の評価がよくて。続いてのモーツァルト」

「うん。やっぱ、実力かなぁ〜」

 とスカしているが、内心、本当に充実しているのが分かるので、とにかく順調だと安心する。


「でもこれさ、女性も悪いよね。スペインで1003人って、『無理やり』ばっかりじゃ無理でしょ」

「まあねぇ。私が唯一ジョバンニを褒めるところがあるとするならば、あの努力だわね」

「努力?」

「イケメンで剣の腕も立つ貴族なんだから、何にもしなくても女は寄ってくるはずなのに、ちゃんと自分から、年齢や容姿などお構いなく、どの子にも積極的に声を掛け、夜這いまで掛けるというエネルギッシュな行動を起こしてるわけだし」

「ふむふむ」

「しかも、一度手に入れてしまえば、ドンナ・エルヴィラの様な上等な女性でも、一切の後悔なく切り捨てていく潔さもある」

「なるほど〜」

 楽譜を眺めながら谷也さんが先を促す。

「でも、そこまでね。クズ男に変わりなし!」

 と一刀両断すると、ドハッと笑われる。

「でもさ、ツェルリーナだって、これから結婚式だっていうのに、ひと言で落ちちゃってさ」

 と言い出すので、

「あのね、話を現代に持ち込んじゃ、いけません。まず、情報がない。TVもなければネットもない。『女好きな貴族がいて、被害者が2000名にも及んでいます』という前情報がない」

「確かに」

「そこへもってきて、イケメンなんてめったに見ない田舎娘の前に、渋い大人なイケメンが来て、『お嬢さん、なんて素敵なんだ。私と一緒になりませんか』などと囁かれたら、クラッとくるのも仕方がないでしょ。しかも相手は貴族なのよ」

 そう、ブルジョワでもあるのだ。ツェルリーナは、したたか女子の代表だからねぇ。

「ふむ、そんなもん?」

「そんなもんです」

 とにかく、古今東西、何はともあれ、イケメンの威力は絶大なのです。

「イケメン谷也さんなら、わかるんじゃないの〜?」

 と振ってやると、

「う〜ん」

 と悩んでいる。そこで、悩むんかい! 否定しないのか〜い!


 まぁ、そんな他愛もない話をしながら、今日は谷也さんの家で、まったりしている。

 谷也さんは、半年後の演奏会のスコアを眺めていた。グランドピアノで音を確認しながら、譜読みをしている。学生時代に重唱は歌ったことがあるが、その他は今回が初めてとのことで、今から取り組んでいるのである。やっぱり、頭が下がる。


 谷也さんの家は、都内にある一軒家だ。築30年との事で、小さいときから住んでいる実家であるらしい。8年前にリフォームし、設備は新しく快適である。

 お兄さん家族がいらっしゃったのだが、公認会計士で、職場に近い都内のマンションに引っ越されたそうだ。ご両親も、あちこち段差があるこちらの家より、マンションのバリアフリーのほうが楽との事で、お兄さんたちのマンションの割と近くに、別のマンションを購入して住んでいらっしゃる。


 谷也さんは、グランドピアノがあるこの家を離れられないらしい。マンションでは、さすがに難しい。

 小さい時から音楽の環境をくれたのは、お祖父さんだったそうで、いつも家ではクラシック音楽が流れていたそうだ。その時聴いたカルロス・クライバーに感動し、この道に進むきっかけになったらしい。

 今でも、立派なステレオと本格的なスピーカーがある。レコードも壁一面の半分ほどが埋め尽くされているから、かなりの数になるのだろう。昭和の時代の、古き良き家だ。私も居るとホッとする。


「カリリンなら、どうするの?」

 ピアノを弾きながら、谷也さんが聞いてきた。

「ん?」

「もし、愛した人がジョバンニみたいな人だったら? エルヴィラ派、それともツェルリーナ派?」

「即刻、お別れします」

 即答だった。

「うわっ! 早!」

「ジョバンニがクズ男だからってわけじゃ、ないんだけどね」

 と笑いながら、続ける。


「ちょっと真面目な話だけどねぇ。練習の邪魔にならないかなぁ……?」

 と聞くも、「大丈夫」とのこと。

「私ね、昔から思ってることがあって……」

 さっき温めておいたワインをひと口飲むと、胸のあたりがふんわりあったかくなる。

「人を好きになるって、理屈じゃないでしょ。ましてや、相手も望んでくれるのなら、もうそれは止められない……」

 もうひと口、ワインを飲む。


「だから、好きな人と一緒にいたとしても、違う誰かを好きになってしまうことは、しょうがないことだと思ってるの」

 ピアノの音が止まった。

「ほとんど、不可抗力に近い。会った順番が、後か先かって違いだけ」

 谷也さんが、おもむろにピアノの蓋を閉じた。今日の練習は、もう終わりらしい。私の言葉を聞いてくれる。

「だから、自分の好きだった人が、他の人を好きになったら、わたしは直ぐに土俵から降ります……」


「随分、物分かりがいいんだな……」

 椅子から立ち上がり、移動してくる。

「だって、仕方がないと思うから。一瞬でも、私じゃないその人のことしか考えられなかったのなら、私はもう傍にいるべきじゃないって思う。多分、恨むのも違うし、自分を哀れに思うのも違う。決まってた順番だったんだ、って思うんだよね。その人が先だったかもしれないし、私が後だったかもしれない」


 私の座っている後ろまで来た谷也さんは、立ったまま上からワインを横取りしつつ、「それで」と目で促している。

「愛してもらったのは間違いないし、幸せだったのも本当なんだから、もう私の分は終わりっていうか……。あとは、次の人の番だから、受け入れるしかないっていうか……。多少は、ジタバタするかもしれないけど」

「それ、男からしたら、都合のいい女なんじゃない?」

「ああ、だから、黙ってるのは止めて欲しいな。ちゃんと、言って欲しい。そしたら、ちゃんといなくなるから」

 谷也さんの目を見て、答えた。


 ソファの背に半分腰をかけて、私の後ろにいた谷也さんは、私の髪をそっと手に取り、息を吸い込む。

「いい匂い。家から、シャンプー持ってきたの?」

「うん。お先に、お風呂頂きました」

 と、頭を倒して上を見上げながら、お礼を言う。

「ちゃんと、持って帰るから」

「いいよ。そのまま置いといて」

 谷也さんの言葉に、また気持ちが暖かくなる。


「でもそれは、カリリンにとって、辛いことではないの?」

 谷也さんが髪をなでながら、そっと聞く。

「自分の辛いより、相手の次の幸せのほうが、大事」

 と、自然と笑顔になった。ひとりに、戻るだけだ……。


「僕も、お風呂入ってくるね」

「ホットワインいる?」

「今日はいいよ」

 と背を向けかけて、足を止めた。改めて私の顔を見る。

「僕は、無理だよ。何があっても、カリリンからは離れない。どんなに醜くても、君の傍にいる」

 そう言い残して、お風呂に向かった。


 その日、彼はいつもより強く、そして何度も私を求めた。まるで、自分の痕跡を、私に残すかのように……。やさしい腕に、今は包まれていたいと思う。

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