タミーノ
舞台の上で、全身鳥の羽を身につけたパパゲーノが、かわいい彼女が欲しいと歌っている。
愛知県芸術劇場コンサートホールである。本来、オペラ公演には向かないヴィンヤード型ホールであるが、今回は特別演出での公演だ。
舞台後方の客先に、舞台から直接上っていける階段を設営し、客席を舞台の一部にしてしまってある。舞台袖の上の客席まで使っているので、まるでバルコニー付きの2階建ての舞台を見ているようだ。
演出は、今名古屋で活躍する女性演出家によるもので、今回のオペラも注目されていた。
谷也さんは、王子タミーノ。美しいパミーナを思い、愛の歌を歌う。
私の後ろの席から、「ほぅ」とため息が聞こえる。のびやかで艶やかな声。そして、やさしい面差し。王子にふさわしい立ち姿である。
何のことはない。私も少しぼぅと見とれていたのに気が付いて
「いかん、いかん、こんな顔をしたのがバレたら、またあのドS顔を拝むことになる」
と、深呼吸して気を引き締めた。
やはり谷也さんにはモーツァルトのほうが似合う。
実は、先のヴェルディのレクイエムの公演が、しばらくの間クラシック界を騒然とさせたのである。
もちろん、指揮者の前園さんが、来年からイタリアのヴェネチアのオーケストラの常任指揮者に就任することから、話題にはなっていたし、ソリスト陣も今売り出し中の若手中心だったため、公演前からチケットの売り上げもよかったと聞いていた。しかし、それが騒動の中心ではなかったのだ。
あの谷也さんの「Ingemisco」が、賛否両論の的になったのである。
合唱団主催の演奏会だったため、その模様がすぐYouTubeにアップされた。それを見た視聴者が「こんなに泣けるIngemiscoがあるだろうか!」
とツイートしたのが事の始まりだった。
それからは、あっという間である。動画再生回数は20万回を超え、それと共に批判や中傷も同時に広がっていった。
「レクイエムをあれほどオペラ化してしまっていいのか」
という、古今東西ヴェルディのレクイエムで議論され続けている古典的なものから、
「俺はあそこまで、自分の声を犠牲にする勇気はないなぁ」
という歌い手立場の意見が出ると、
「いやいや、でも、第3曲では確かに美しい声に戻っているのだから、あれはテクニックのなせる業ではないのか」
まで、様々出ていた。
「困ったよ……。もう2度と、あんな歌い方はしたくないんだから」
とは、本人の弁である。そうだろう。
その後、ヴェルディの曲のオファーが何度かあったらしいが、断ったらしい。勇気のいることだったろうと思う。
「鉄は熱いうちに打て」とばかりに、畳み掛けるように出演を続けたほうが、知名度も上がるし、場数を踏むことは、演奏家としてステップアップになることは、間違いないのだ。
「ボイトレとも相談して、色々考えて、先に延ばすことにした」
谷也さんは、少し憑き物が落ちたかのように言っていた。
海外で活躍したり、コンクールなどで賞を取ると、当然のことながらすぐに国内での凱旋公演が行われれる。留学でも同じで、皆こぞってリサイタルを開催するのだ。
しかし、そこには大きなリスクが伴う。1番は、歌う曲についてのギャップである。そして、ほぼ日本語しか話さない、環境にある。
もしイタリアに留学した人が国内に戻った場合、観客は当然イタリアの曲を歌うと思っている。ところが、実際に留学した人は、イタリア物をほとんど歌わずに帰国することが、ままあるのである。
イタリアは歌の本場なのだから、当然イタリアの歌い手がごまんといて、しのぎを削っているのだ。そこへ外国から、イタリア語をネイティブに話すこともできない歌い手が来たところで、そんな人の歌を聴きたいと思うだろうか。
敢えて言うならば、もし歌舞伎の舞台に外国人がいたとしたら、どう感じるだろうか。
もちろん、イタリアの音楽界は歌舞伎界ほど閉鎖的ではないし、音楽は国境を超えるし、イタリア人以外の歌い手が多く活躍していることは、分かっている。
しかし、彼らは東の果ての国から来た、小さな東洋人にそこまで期待はしていないし、チャンスも与えてくれない。だから、イタリアにいる多くの日本人が歌う歌は、ドイツ語圏のものになるのだ。 つまり、イタリア人にとっては日本人は外国人なのだから、外国の歌を歌えということだ。
結局、イタリアではドイツものばかりを歌うことになり、日本に帰国すると、イタリアものばかり要求される。
言語によって、発声は違ってくる。声楽界の基本であるベルカント唱法は、イタリア語のために生まれたものなのである。イタリア語のシャワーを浴び続けてこそ、その耳は保たれる。
そこを離れて日本に帰国した彼らは、要求に従い、中途半端なままイタリア物を歌い続ける。
結果、潰れる……。
何度も、何人も、見てきた。あの有名なコンクールで優勝したソプラノですら、日本公演ではヒドイものだった。彼女は、すぐ生活の拠点をイタリアに戻した。そして、今日本で活躍する多くの歌い手が、海外に生活拠点を移している。
歌い手にとって、歌う曲の選択は、歌手生命に関わる大きな問題なのだ。「歌いたい曲」と「歌える曲」は違う。谷也さんは、それを決断した。
そして、やってきたのが今回の「魔笛」のオファーである。2人で思わず乾杯した夜のことは、忘れない。
この騒動がきっかけで、動画が2度程メディアで取り上げられたため、瞬く間に女性ファンが急増した。
そんな観客が、この演奏会にも少なからずいると思われる。開場待ちで並んでいた際、あちこちからそんな会話が耳に入った。
「それにしても、イケメンよねぇ」
「そうそう。今日のタミーノなんて、ピッタリ。萌えるわぁ」
と、3人前のご婦人達が騒いでいたし、
「なんとか今日写真撮ってもらうんだー。インスタ映え、間違いなし」
とは、後方の高校生らしい集団である。「オジ専か」と、ちょっと心配してしまう。
「参ったなぁ……」
こちらはこちらで、複雑な気持ちになる。最近では、何かあるとすぐ運転手の指名が掛かり、楽屋まで出入りしているのだが、せっかく増えたファンの前に、どの面下げて横に並んで出ていったらいいのかも分からないし、かといって堂々と自慢できるほど、輝かしく麗しい人生を送ってきたわけでもない私としては、一緒に行動しづらくなってしまっているのだ。
今日は名古屋なので、ちょっとはいいかと、あとで楽屋に行くことになっている。
「はぁ」と知らず知らずに、小さなため息をついていた。
舞台では、パミーナが初登場する場面になっていた。そのパミーナの登場に、会場がどよめいた。
なんて可愛らしいお姫様なのか! 今回パミーナを演じるのは、ロシアから来たエカチェリーナ・ソコロワ。抜けるように白い肌。フワフワの巻き毛のブロンド。頬にはほんのり赤みが差し、まるで生きたフランス人形だ。
「綺麗……」
思わず言葉にしていた。
指揮者が肝入りで連れてきたらしい。谷也さん曰く、「もちろん、マエストロの彼女です」とのこと。「もちろん」という言葉には、かなり語弊があるが、ないこともないので聞き流していた。
「こんなかわいい人だなんて、聞いてませんけど!」
思わず、客席でひとり、頬をふくらましていた。
こんな可愛い人ならば、写メの1つでも撮って話題にしただろうし、綺麗なものが大好きな私が、単純に喜ぶことくらい見抜いているだろうから、もしかしたら共演者特権で、食事でもご一緒できたかもしれない。そしたら、こっそり参加して、ちゃっかりお話なんかしちゃったりしただろうに……。
う〜ん、これは問題だ。ここまで話題にしなかったということは、逆に意識してるから……?う〜ん。
舞台はザラストロの神殿。ここでは、演出家の狙いが遺憾なく発揮される。この会場にはパイプオルガンがある。それをまるで聖堂にあるそれかのように、見事に演出しているのである。
ザラストロも、2階からの登場となった。照明のなんと美しいことか。
「パミーナを助けなければ、それが僕の務めだ!」
タミーノの谷也さんが歌う。
「どうぞ、どうぞ、お救い下さい」
「パパゲーノが見つけたか! 会えるのか、パミーナに!」
喜びにタミーノが歌う。
「会えるんだよ。当然!」
ツッコミが、止められない。いつのまにやら、半眼になってしまっていた。
見た瞬間に恋に落ちるタミーノとパミーナ。いや、実際、この2人ならありえるかもしれないと思うほど、お似合いだ……。
エカチェリーナはロシア人の歌手らしく、少し強い声をしていた。スピントソプラノに近い。谷也さんとの2重唱になると、声がギリギリ溶け切らない。ただし、2人が並んだステージは、まるで宝塚の舞台を見ているかのような、華やかで美しい景色だった。
モンモンとしているうちに、このオペラで一番有名な「夜の女王」のアリアが始まった。
こちらは、二期会のコロラトゥーラソプラノである。名古屋が地元だと、理美さんから聞いた。理美さんの音大の後輩らしい。
今日、理美さんも一緒に聴きたがっていたが、ボイトレの生徒さんの都合がどうしても変えられず、泣く泣くあきらめていた。理美さんが一緒なら「名古屋めし」堪能したのになぁと、食いしん坊根性がムクムクよみがえる。
ステージの上では、特設階段の踊り場、つまり2階客席と同じ高さに立って、夜の女王が「母の恨みを晴らすため、あいつを殺せ!」と、娘であるパミーナに命令している。3点Fがきっちり出るのかどうか、途中の音程が正確かどうか、この曲への観客の興味は、ほぼそこに集約される。
見事なF!何度も繰り返されるこの音を、全てきれいに到達させて、なんと余裕すら感じる。若いとはすばらしい……。
2幕になり、パミーナがタミーノから愛されなくなったと勘違いし、自ら死を選ぼうと嘆き悲しむ姿の、何と可憐なことか。男でなくても、傍に近寄って慰めてあげたくなる。なんだか、胸がチクチクしてきた。情けない……。
無事パパゲーノは、念願のかわいい彼女パパゲーナと出会い、悪役「夜の女王」は退治され、ため息と喝采に包まれて、オペラが終了した。
カーテンコールを何度も受け、喜びに満ちた谷也さんを眺めるうち、谷也さんのキャリアは、今日改めて始まったのかもしれないと思った。
「ここは、楽屋へ行くのがなかなか難しい会場ねぇ」
と思いつつ、やっと谷也さんの楽屋に到着する。わざわざ迎えの人を寄越してくれた意味が分かった。
部屋にいないので、ステージ裏を探す。舞台裏でも、まだ皆に囲まれていた。オケの女性陣だ。「ほんとに苦手なんだよなぁ。ファンに囲まれてる谷也さん」
と眉を下げながら、囲みがなくなった隙を狙い、こっそり声を掛ける。
「お疲れ様」
瞬間、満面の笑みで迎えてくれるのはありがたいが、それ、女性陣に見られたら、私地獄だから。
部屋に戻りながら、
「一緒に帰ろ〜」
と嬉しそうに言っているが、
「ここは名古屋なので、無理ですよ」
と小さい声でツッコミを入れた。
「そうだった……」
足を止めて、唖然としていた。
オペラの公演後にも打ち上げがある。さすがに主役なので、途中退席と言うわけには行かないのだ。今日、谷也さんは名古屋に宿泊する予定だ。「一緒に泊まろう」と散々ゴネられたが、私にも仕事というものがあるので、何とか説得した。
「後日改めて、今日のお疲れ様会は開くから」
と、今回は別々に帰ることを約束してある。
楽屋部屋に戻ると、
「どうだったー? 僕のタミーノ王子!」
と両手を腰に当てて、仁王立ちする。
改めて近くで見ると、悔しいがカッコイイので、思わずいつもの言葉を口にしてしまいそうになるが、ぐっと堪える。
「教えてあげない」
ボソッと答える。谷也さんは目を瞠って、
「あれー? いつもの『写真撮らしてー』は、どうしたのかなぁ?」
と、こちらをニコニコ顔で覗き込んでくる。全く、自覚のあるイケメンテノールは、タチが悪い! いかん、このままでは谷也さんのペースだ。今日はそういう訳にいかない。反撃開始。
「エカチェリーナさん、綺麗だったねぇ」
「そーお」
「お人形さんみたいだったじゃない」
「性格は、キツイよ」
「あんな可愛い人、一緒に写真の1枚も撮りたいなぁ」
「いいんじゃない。頼もうか?」
あれっ? 意外と普通にしている。う〜ん。いや、谷也さんのことだ。ポーカーフェイスの可能性も捨ててはいけない。
「聞いてなかったけどなぁ、私」
「何が?」
「あんなに可愛い人だってこと……」
「あれ、言ってなかったっけ? マエストロの彼女だって、話したよね」
はい、それは聞きましたが。あそこまで可愛い人とは、聞いてませんでした!
口が尖がっていたらしい。谷也さんが思わずここで噴き出した。
「もう、カリリン、可愛すぎ!」
だから、この歳にかわいいとは、何事だ! と常々言っているだろうが!
上目遣いに不機嫌面が止まらない。
「だ〜か〜ら〜」
谷也さんがドS顔になっている。あっ、やばいのでは……。
「言わなかったんでしょ」
くっくっと笑っている。
「!」
「大体、彼女ロシア語以外、話せないんだよ」
「えっ!」
やられた。つまり、コミュニケーションは取れない。
普通、クラシック音楽をやっていると、かなり外国人との接触が増える。大抵は英語で、歌をやっている人だとイタリア語とか、楽器の人だとドイツ語の人もいるが、それぞれに意思の疎通をしている。
谷也さんもいつもは英語でコミュニケーションを取っている。まあ、音楽仲間で使う言葉はほぼ決まっているので、少しの日常会話ができれば、大きな問題にはならないのだそうだ。
優しい笑顔に戻った谷也さんが、
「写真、撮ろうか。2人で」
と言って、私のスマホを要求する。
私の顔の横にピッタリ顔をつけて、自撮りモードでカシャリと撮ってくれた。そのまま片手で頭を引き寄せられ、頬にキスをされる。
「カリリンだけだってば」
と囁かれ、そのままもう一枚撮られた写真には、満面の笑みの谷也さんと、耳まで赤くなった私が写っていた。