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ヴェルディの「レクイエム」

 2週間後、サントリーホールに来ていた。

 19時開演。曲はヴェルディのレクイエム。谷也さんがテノールソロを歌う。アルフレードを歌ってから、少し重い声の演奏が増えていた。本来なら、もう少しリリカルな役のほうがいいのだが、谷也さんにも考えるところがあるのだろう。その事に、口を出す立場にはない。信じるしかない。


 オーケストラはフルオーケストラで、80名以上。しかも、トランペットのバンダが4名客席側に配置され、ティンパニーも4台入る。

 そのオケの大音量に負けないように、合唱も100名以上は必要で、しかもどのパートもまるでアリアのように、歌い上げなければならない作曲になっている。そのドラマティックなメロディは、多くの人を魅了し、TVやメディアでよくBGMとして使われているから、聞き慣れている曲の1つといっていい。3大レクイエムの1つである。


 当然、ソリストにも相応の実力を求められる曲である。すでに宗教曲の枠から外れていて、オペラアリアの様な、強く人間的な表現を必要とする。

 私も、一番好きなレクイエムだ。実際、何度か歌っているのだが、これは舞台上の全ての人が、エネルギーを出し尽くす演奏会になる。


「演奏会の後、一緒に打ち上げに出られない?」

 先日、突然そんなことを谷也さんが言い出した。

「えっ。部外者だから、無理です」

 と即答していた。


 合唱団主催の演奏会の打ち上げは、特別である。今回のようにオケがプロの場合、彼らはあくまで仕事の1つなので、打ち上げをする概念がない。

 打ち上げは、合唱団が主催するのだ。そこでは、指揮者、ソリスト、合唱指導者を囲み、一部オケの有志も参加し、皆が垣根を取り払ってのドンチャン騒ぎになる。

 合唱団は大抵、半年とか1年とか練習を重ねてくるから、本番が終わった後はお祭り騒ぎになるのだ。そんな場に、部外者は入る余地がない。

 ましてや、谷也さんの連れという立場で参加しようものなら、あっという間に噂になってしまう。それ、分かってる?


「それに、終わってすぐ帰らないと、終バス間に合わない」

 って、分かってるはずだけどなぁ。ヴェルディのレクイエムは、演奏時間が長いのだ。

「だから……だよ」

「だから?」

「いや、ちゃんと送るから」

「送るからって……。打ち上げ、飲むんでしょ?」

 どうしたの?


「ずっと会えてない、あれから……。会いたいんだ」

 あれから……、ドビュッシーの夜のことだ。

「谷也さん……」


「ちゃんと会うから。終わってから、体を休めてから。疲れちゃうでしょ、ヴェルディだよ……」

 説得できるだろうか……。

「本当はすぐにでも会いたいんだ。頼むよ……。このままじゃ、歌えない……」

 尻すぼみに声が小さくなる。

 明日は指揮者とソロだけの合わせで、翌日は合唱が入ってオケ合わせ。次の日、午前中のゲネプロで、そのまま演奏会本番を迎える。予定は詰まっている。


 ここまで追い込んでしまったのは、私だ。きっと彼は、亡くなった人が私にとってどんな人だったのか、もうちゃんと分かっている……。

「どうしたら、谷也さんは安心する?」

 ゆっくりと、丁寧な声で聞いた。

 携帯越しに、谷也さんが一瞬、動揺したのが分かる。

「ごめん……。会いたい」

「分かった。打ち上げ、出ます。それで、谷也さんが歌えるなら」

 ただし、運転手扱いにしといてね、と付け加えておく。

「ありがとう。助かった……。本番終わったら、楽屋に来てくれる。話、通しとくから」


 結局、そのまま連絡すら取れずに、今日を迎えてしまった。谷也さんは大丈夫だろうか……。第1声を聞くまで、安心できない。ただでさえ、ヴェルディなのだ。

 合唱がスタンバイし、オケのチューニングが始まる。終わったところで、ソリストと指揮者が登場する。

 ……大丈夫。いつもの谷也さんだ。信じよう。


 タクトが上がる。チェロのpp(ピアニッシモ)が鳴る。

「Requiem eternam ―永遠の安息を―」

 ほとんど聞こえないくらいの合唱が、Andante(アンダンテ)で続く。

「Dona eis, Domine」

 そのまま祈りは続く。


 今日の合唱には、全てのパートに何人かの声楽経験者がヘルプで入っている。声で分かる。特にテノールとソプラノは顕著だ。

 その数人を核にして、全体の音を引き上げている。市民合唱団員だけでは、どんなに人数がいても、無理な曲なのだ。


 突如「Kyrie eleison ―主よ、慈悲を与えたまえ―」とテノールソロが、雷光のように入ってくる。

 衝撃的だった。こんな声だっただろうか。天性のロッシーニ声だと思っていた谷也さんの声は。


「最後まで、もつのか……!」

 眉間に、自然にしわが寄っていた。


 第2曲「Dies ire ―怒りの日−」。この曲が一番有名な曲だ。

 冒頭、合唱はSemple fフォルテと言っても過言ではない。ティンパニーとバスドラムが合唱を追い込むように駆け巡る、嵐のような曲。

 これに続いて、華麗なバンダの登場である。こればかりは、会場で聴かなければ醍醐味は味わえない。今回はきっちり4本入っており、更にサントリーホールなので、ワンワン唸る様に「審判のラッパ」が鳴り渡る。

 ここまでの2曲と次の2曲は、いい。テノールソロは休める。問題はその次からだ。


「Quid sum miser ―何を? 哀れな私は―」

 不安を歌う。強弱が入り組んで、バスを外した3人のソロの声が織りなされる。

 pp(ピアニッシモ)が硬い。谷也さんなら、もっと柔らかい響きを持っている。やはり、何かが違う。


「Rex tremendae ―御稜威(みつい)の王よ―」

 審判を行う王に対して、救ってくださいと懇願する。

「Salva me ―救ってください―」のテノールは、他のソロと同様、合唱を先導する役を担う。f(フォルテ)は、響きを保っている。が、何かが足りない。合唱と共にff(フォルティシモ)にかき消され、分からなくなってしまう。でも、いつもと違う。何が? 必死に探る。

 

 発声的な表現でいえば、前は開いている。谷也さんの真骨頂なので、これは当たり前。では、何……?

 そんなことを考えていたら、女声ソロ2重唱の「Recordare」が終わってしまった。

 次が、ヴェルレクの中でテノールソロにとって一番大事な曲「Ingemisco −我は嘆く−」だ。


 最初、p(ピアノ)で入ってくる。大丈夫だ。すぐcrescendoしGで張る。

 声が違うのではない。嘆いているために息が入らないのだ。本当に泣くと「歌」は歌えない……。どうしたのだ……。

 谷也さんの得意な音域でのfフォルテが続く。

 心配なのに……、心がえぐられる。こんなに不安な気持ちで聴いているのに、悲しみが伝わってきて気持ちを持ってかれそうになる。何なのだ、この胸の詰まりは。


 ……アリアなのだ。やはり、この曲はオペラなのだ。死を悼み、残されたものの悲しみに寄り添い癒すための、宗教音楽「Requiem」ではない。

 ヴェルディが「これはオペラのように歌ってはいけない」といったことは有名である。だがしかし、やはりこの劇的な音楽を、本当に教会で演奏する音楽として作曲したとも思えない。

 そして、少なくともこのマエストロは、単なる宗教音楽は望んでいないのだ。その様に、指揮している。

 だから、谷也さんはそれに呼応している……。谷也さんの最後の希望の響きの変ホ長調B♭で、神への懇願が終わる。嘆きの絶唱だった。


 呼吸の横隔膜の下がりが浅い。響きの後ろ、深みが浅くなってきてしまっている。

 どうしよう。この曲が最後ではないのに、既に満身創痍だ。どうしたらいい……。

「Lacrymosa ―涙の日―」

 ソロ4人で「Pie jesu」とアカペラで歌いきる。この曲のテノール最後の小節が終わる。とにかくここまでは、もった。

 バスソロと合唱が「Amen −アーメン−」と歌い、これで長い第2曲「Dies ire」が終わった。


 えっ……!マエストロが指揮台から降りる。休憩が20分入るのか! 今しかない!

 私は受付に走った。


 昨今のヴェルディのレクイエムの演奏会では、休憩なしの場合がほとんどだ。確かに、その方が音楽が切れることなく、緊張感が保てる。しかし、宗教音楽としては、次の「Offetorium −奉献唱−」の前で休憩が入っても全く問題ない。以前は、よくこの形式が取られた。

 多分このマエストロは、次の曲から合唱の並びを変えるつもりなのだ。


「すみません! どうしてもすぐに、テノールソロの谷也さんに、このメモを渡してもらえませんか! 次の曲が始まるまでに!」

 受付の手伝いらしい学生さんに駆け寄った。私の血相が変わっていることに気が付くと、すっと立ってくれた。このお嬢さんも、音楽をやっている人なのだと分かる。

 まだ谷也さんは4曲も歌わなくてはならない。このままでは、どんどん声が締まっていってしまう。

 彼女は「分かりました」と真剣な顔で私のメモを受け取った。そのままロビー横の関係者出入口から楽屋に入っていく。どうか、どうか、間に合って!


 休憩が終わり、合唱がひな壇に戻る。やはり、合唱のパートの並びが変わった。


「谷也さん……」

 祈る気持ちで、第3曲が始まるのを待った。

 チェロの重厚な音が静かに始まる。メゾと谷也さんの「Domine」の声が重なる。


「あぁ、あぁ、よかった!」

 谷也さんの声が戻っていた。なんて優しい響き。張りのある、そして奥も伴った深く綺麗な声……。

 4重唱の後、テノールソロがppピアニッシモで歌い上げる「Offetorium」の、ファルセットかと思うほどの繊細な響き。これこそ、谷也さんの最高級の響き。


「神よ。感謝します……」


 休憩が入ったことで、谷也さんのみならず、合唱も他のソリストも随分柔らかい響きになった。

 後は、ただひたすら、ヴェルディを堪能する。

 輝かしい「Snctus」。金管に続き、合唱が喜びを解放すかのように歌い上げる。

 ユニゾンの美しさで歌う「Agnus Dei ―神の子羊―」。

 アカペラでの3重唱がある「Lux eterna ―永遠の光―」。

 バイオリンのトレモロpp(ピアニッシモ)から始まる美しい曲。ヴェルディが、ソプラノを外した意味が分かる。このハーモニーにソプラノはいらない。

 谷也さんの声から、キラキラ粒子が降り注ぐ。途中の無伴奏部の3声は、圧巻である。本当に、元の声に戻って、よかった。

 最終曲「Libera me −我を救い給え− 」。

 ソプラノソロに先導され、合唱が追随する。歌うのではなくて、ささやく。楽譜も「Sprechs timme(×印)」になっており、歌と語りの中間のように繰り返す。

「Dies ire」「Requiem eternam」が繰り返され、最後にもう一度「Libera me」が歌われる。

 深い祈りのうちに曲が終わった。

 爆発するような拍手とブラボーコールに、会場が揺れた。


 ホワイエの喧騒から少し離れた位置で、一旦長椅子に座った。

 こんなに緊張した演奏会はなかった。舞台に立っていたほうが、よっぼどリラックスしている。とにかく、楽屋に行かなければと思いながらも、あの人混みに混ざって、移動する気力が出てこなかった。

 演奏会が終わって30分くらい過ぎた頃に、ようやく楽屋口に到着する。私の入館パスが用意されていたので、そのまま入って、エレベーターに乗り込む。このホールは私も出演したことがあるので、ソリストの楽屋もほぼ予想できた。


 ごった返した楽屋の中で、谷也さんの部屋を見つける。ノックをし、中に声を掛けた。

「谷也さん、牧原です。入って大丈夫ですか?」

 返事がないのでどうしようかと思ったが、いつまでもドアの前で突っ立っていてもしょうがないので、そろりとドアを開けて中に入った。


 谷也さんは、椅子に座っていた。視線を落とし、ぐったりうつむいている。まだ着替えもしていない。

 彼の前まで行き、しゃがんでそっと声を掛ける。

「谷也さん」

 ゆっくりと、顔を上げる。ぼぉとした表情が、我に返った。

「カリリン……」

 そう言ったかと思うと、目の前の私の肩に、倒れるかかるように頭だけ預け、腕をゆっくり上げて、私の頭を抱え込んでしまった。


 どれくらいそうしていたのか。谷也さんの体から、少し力が抜けて、やっと顔を見ることができた。

「お疲れ様。演奏会、無事終わったよ……」

「……怖かった。終わらないかと思った」

 そういうと、しゃがんでいた私の上半身を引き上げて、強く抱きしめた。

「カリリン、もう傍を離れないで」

 一瞬泣いてしまうのかと思うくらいの、悲壮な声でささやく。

「うん……。分かった……」

 私も谷也さんの背に腕を回した。


 なんとか谷也さんを着替えさせ、とにかく楽屋を出た。もう他の楽屋の片付けも、あらかた済んでいた。

 よく見れば、谷也さんの楽屋には花が溢れていて、いかにファンが多いかがわかる。男性に花を贈るのなんて、女性と相場は決まっている。それを両手一杯に抱え、駐車場にあった谷也さんの車に詰め込んだ。


 打ち上げに出席するために、夜の赤坂に繰り出す。会場はこの近くとのことで、車はこのまま、この駐車場に止めておくことにした。

 会場に着くと、谷也さんはあっという間に囲まれてしまう。私はなるべく邪魔にならない場所に落ち着いた。人数分の椅子はあるが、立食様式になっている。知り合いがいない私にとっては、ありがたかった。

 合唱団団長の乾杯で始まり、指揮者やソリストが順に挨拶をする。食事は豊富に用意されていて、飲み物も本格的だ。ワインもイタリア、フランス、日本産まで揃っている。スパークリングも、シャンパンである。

 なかなか谷也さんはゆっくりさせてもらえず、当然私の傍には来られない。楽譜にサインを求められ、何台ものスマホに次々収まり、あちこちから乾杯の音頭に引っ張り出されている。でも、これも無事終わったから味わえる嬉しい悲鳴だ。


 私の隣に、女性がグラスを持って話しかけてきた。ソプラノソロの高橋愛良さんだ。ヴィオレッタを歌った彼女である。やはり、これからこのペアでの出演は、どんどん増えていくんだろうと思った。

「牧原といいます」

 と挨拶をし、今日の演奏も、この間のヴィオレッタも、素晴らしかったと伝える。すると、いきなり質問が飛んできた。

「あなたが、カリリンさん?」

「えっ」

 さっき苗字しか名乗らなかった。しかも、その呼び方は谷也さんだけなのだが。

「そう、ですが……」

 怪訝そうに、高橋さんを見つめてしまった。

「やっぱり。歌をやってらっしゃるんじゃ、ないですか?」

 と、またも質問だ。

「あの……」

 返答に困り、相手の真意を伺うために、体を向けて真正面から見つめた。

 ふふっと笑って、彼女はシャンパンをひとくち、口にした。


「谷也君、休憩前、危なかったでしょ」

 とさらりと言う。さすがに、よく分かっている。

「ゲネから少し心配してたんだけど、私も精一杯だったから、何が危ないのかよく分からなくて、アドバイスのしようがなかったの」

 あぁ、そうだったのだ。谷也さんの状態を心配してくれる人が、同じ舞台に立っていたのだ。


「そしたら休憩中に、受付から何やら慌てて谷也君あてに連絡が来て……。私ちょうど彼の楽屋に最終打ち合わせに入ったところだったの。谷也君、疲れててね……。一瞬、このまま休憩後、出られないんじゃないかと思ったくらい」

 やはり、そうだったんだろう。あれは、精も魂も尽き果てる歌い方だった。

「そしたら、その受付さんが持ってきたメモを見てね、彼、へたり込んだのよ、その場に。ズルズルって。そこで呻くように『カリリン……』ってひと言ね」

 ビックリしたのよと、思わせぶりな目でこちらを覗き込んでいた。

「最初、人の名前だとは思わなかったんだけど、さっき2人でここに入ってきた時、ピンと来たの。あぁ、この人が『カリリン』なんだって」


 さすがに驚いた。彼女の観察力がすごいのか、それとも、違う何かがあるのか……。

「諦めるわ、谷也君のこと。声のパートナーで、手を打つことにした。あれだけ劇的に彼を立ち直らせることは、私にはできそうもないから」

 と、明るく笑う。

 やっぱり、そうなんだ。だから、谷也さんのことが、こんなに良く分かったんだと内心納得しつつ、どんな顔をしたらいいのか、分からなかった。

 でも、まっすぐこんなことが言えるのだから、自信も知性も、そして美しさも持ち合わせた人なのだと思う。

「ありがとうございました。お話してくださって。これからも、お二人の演奏、本当に楽しみにしています」

 と頭を下げた。

 優雅に微笑んで離れて行ったかと思ったら、そのまま合唱団のメンバーに囲まれてしまった。まさしく、ソプラノに相応しい華やかな人だった。


「先生」と呼ばれる人達の挨拶や感想、合唱団への賞賛や感謝の言葉など、大体一巡したあたりで本格的な宴会となる。

 1時間くらい経った頃だろうか。谷也さんが、やっと私の隣に来た。

「1人にして、ごめん。もう、帰ろう」

「えっ、いいの? あと1時間くらいは続くでしょ。挨拶聞いてるだけで楽しいから、いいよ。気にしなくて」

 驚きながら伝えたが、

「もう、大丈夫。皆への挨拶も終わったし、さっき団長にも、指揮者にも、先に帰るからと挨拶してきた」

 と言う。

「さすがに、疲れた」

 と、小さく笑う。

「ほんとに運転手してもらっても、いい?」

「大丈夫。飲んでないから」

 対面的な言い訳が本当になってしまったが、元々本当にそうしようと思っていたので、問題ない。

「じゃ、帰ろう……」

 谷也さんの途中退席の案内が、団長から皆に伝えられ、「お疲れ様」の嵐の中、合唱団の皆の拍手で会場を後にした。高橋さん達、他のソリストはまだ残るそうだ。高橋さんにだけは、私もきちんと挨拶し、こちらも「お疲れ様」と挨拶を交わした。


 谷也さんの家に向かう。初めての道なので、慎重に運転した。花束の香りに包まれた車内で、谷也さんは助手席に深く身を沈めていた。

「カリリン……」

 次の言葉を待つが、沈黙してしまう。

「疲れてるでしょ。ナビがあるから、平気だよ。少しでも寝て」

「……皆に、『Ingemisco』泣いたって言われた」

 ボソッと谷也さんが言った。

 そうだろう。本当に、鳥肌が止まらなかったのだから……。嘆きの懇願だった。だからこそ、発声的には危なかったのだ。

「分からなかった……。どうして、こんなに声が出ないんだろう、って」

「……うん」

「でも、何かに引っ張られるように……、あぁ、あれはタクトだな……。今、分かった」

「……うん」

「もう、後先考えてなんかいられないくらい、全精力で何とか最後まで歌えたんだ」

「……うん」


「メモ見て」

「うん」

「声を出して、はっきり分かった」

「うん」


 ――今日は舞台後方の席で聴いています。私のために歌って。


 あの時、とにかく息が入らず、響きを支えることに全エネルギーを使っていたから、後ろの支えが恐ろしく小さくなっていたのだ。意識を後ろに向ければ、谷也さんなら一瞬で元に戻るだろうと思った。


「君を失うかもしれないと、怖かった。ずっと、この2週間怖くて……。でも、最後の言葉を読んで、体中の力が抜けたよ」


 ――愛してます


「もう、今日は帰さない……」

 私の左手を、谷也さんがしっかり握り締めた。

「うん……」


 その日初めて、谷也さんの家に泊まった。

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