ドヴュッシーの「月の光」
「好きな作曲家?」
「マーラーとか、ブラームス?」
「なんで、そうなる?」
「だって、男の人好きでしょ。重厚系」
「いやいや、それ思い込みだから」
「じゃ、だれ?」
今夜は私の仕事帰りに合わせて、夕食を一緒にしていて、2件目のお店だった。もうお腹は一杯だったけれど、まだ話をしたくて、知らないお店だったけど入った。
ワインの専門店で、カウンターと小さいテーブルが壁沿いに奥まで続いている、細長くて奥の深いお店だ。かなり混んでいて、後ろの席は近いのに、誰も自分たちの声以外には耳を傾けないで、ワイワイと心地よい雑音と化している。正解だったようだ。
私は、ワインももう一杯だったので、やっぱりデザートを頼み、なんとなく聞いてみたくて聞いていた。
谷也さんは顎に手を当てて、じっくり考える。
「ドヴュッシー」
そのままの姿勢で、テーブルを見つめながら答える。
「えっ」
思わず声が出た。
「クロード・ドヴュッシー?」
「うん」
驚かれたことに驚いたように、顔を上げてこちらを見る。
「月の光……」
「そう」
と当たり前のように言う。
ますます不思議そうにこちらを覗き込む谷也さんに、何でもないという笑顔を送りつつ、ワインのグラスに手を伸ばした。
「あっ、ごめん。飲んじゃった」
谷也さんのグラスだった。動揺が隠せない。
「ドヴュッシーだと、変?」
「ううん……。私も好きだから……、ちょっと驚いただけ。何でもない」
これじゃ、「私の知らない谷也さん探し」どころではないな……。ここまで一緒だと、逆に引く。
黙ってしまった私に、すかさず谷也さんが攻撃を仕掛けてくる。
「カリリン、照れてる?」
身を乗り出して、言う。
「ぐっ」と頬張ったデザートを詰まらせる。これでは「そうだ」と言ってるようなものだ。
「好きな作曲家、一緒だったから? プッ、かっわいいなぁ」
と、ドS顔満載だ。この歳にかわいいとは、本当に失礼な!
「このパンナコッタ美味しいから、食べて」
と、無理やり谷也さんの口に放り込む。
「甘いなぁ。赤ワインには、合いません」
と言いつつ、なんだか嬉しそうに微笑んでいる。
お店を出たのは、10時過ぎてたから、もう帰る時間である。なんとなく、このまま帰りたくないのだけれど、足だけは駅に向かっていた、
谷也さんが手を繋いでくれる、そっと……。人前ではあまりしないのに。
「ラヴェルは? 亡き王女のためのパヴァーヌとか」
思わず隣に顔を向け、谷也さんを見つめてしまう。
「ふふ。やっぱり、こっちも好きか」
独りごちたかと思うと、私の頭を肩に引き寄せながら歩き続ける。
ちょっとむくれた。そう、何でも分からないで欲しい。
まだまだ通りは人がごった返しており、その喧騒がうれしい。酔っ払いなら、少しは許されるかなと思えて。
ふいに、谷也さんがこちらを覗き込むようにキスをした。
初めてのキスに、ちょっと驚いて立ち止まりそうになったが、谷也さんはそのまま私の頭を抱えて、歩く。
「好きだよ。カリリン」
そう言うと、そっと手に力が入って、もう一度こめかみにキスをした。
「大好きだよ」
もうすぐ駅に着いてしまう。もう少しだけ、一緒にいたいのに。大きな信号が青になったら、手を繋ぎ直して引っ張って行かれた。私の電車が、入ってくる時間だった……。
次の週の休日、午前中から会おうということになった。寝坊助な私は少しゴネたが、たまにはランチもしたいと押し切られた。
「なーに? 音楽図書館行くの?」
「ちょっと、付き合って」
と言って、スタスタ歩く。そういえば、行ったことなかったなぁと、ちょっとワクワクしながら、ついて行く。
楽譜はもちろん、音楽に関する書籍にデジタル資料、古楽器の展示まである。もう、こんなところに来たら、半日は動かないだろ、普通! と思ったら、サクッと目的のものを見つけたらしい谷也さんが、テーブルにそれを広げて見ていた。「何かなぁ」と思い、隣に行ってそっと覗き込む。
「わぁ、セヴィリアだ! 歌うの?」
「ん……、違う。歌いたいけどね。アリアしか見てないから、全部チェックしとこうと思って。楽譜頼んだんだけど、ちょっと時間かかりそうで。今、僕少し時間あるから」
と言って、スコアを借りるために受付に向かう。
谷也さんのロッシーニは、素晴らしい。あの声であのアジリタは、ちょっと今歌える人がいない気がする。やっぱり、こういう努力の塊なのねぇ。と後ろ姿に応援と尊敬のまなざしを向けながら、後に続いた。
「カリリン、ロッシーニ好きだよね」
と、振り向きながら聞いてくる。
「谷也さんのロッシーニが好きなの! 絶品でしょ」
と言ったら、持っていた財布で、頭をコツンとされた。
「ロッシーニは、大変なんだぞ」
「知ってます〜」
と肩をすぼめる。
谷也さんは覚えているのだろうか。こんな風に、私の名前を知ってもらう前、谷也さんがその頃師事していた先生の門下生達で、演奏会を開催した。当時私が所属していた合唱団の仲間がその中にいて、聴きに行ったのだ。
そこで、彼はロッシーニを歌った。それは見事で、一瞬でファンになり、たまたまロビーで会った時、私が興奮気味に言ったのだ。「ロッシーニ歌いになればいいのに!」と。
まだ面識もなかったのに、今から考えれば、不遜な輩である。彼の隣にその日のピアノ伴奏者がいて、彼女が顔なじみだったため、気安く声が掛けられた記憶がある。もう14年以上前の話だ。懐かしい……。
ランチにしようと、図書館近くのパスタ店に腰を落ち着けた。
「誰かさん、ロッシーニ歌いになればって、簡単に言ってたよなぁ」
演奏会が近いので珍しくノンアルコールを手に、こっちをいつもの半眼で見る。ドSモードだ。
「えぇー!」と顔には出ていただろうが、あまりの驚きように声も出ず、メニューを落としてしまった。全く、これだから記憶力のいいテノールは、タチが悪い!
メニューを拾い、あらためて私に手渡しながら
「はい。誰かさん」
と、宣った。
「はぁ〜」と思わず全身から力が抜ける。
前でくっくっ笑いながら
「デザート決めるんでしょ」
と、これまた追い打ちをかけるので
「いま受けたダメージ回復のため、不可欠です!」
と憤然とメニューと睨めっこすることになった。
「覚えていたとは……」
思いもしなかった。つい、ボソッと呟いた。
「覚えてるよ。そりゃ」
相変わらず、ケロッと言う。
「だって、知らない人だったでしょ、私」
「そうそう。あの時、久保さんが伴奏だったんだよね。知り合いぽかったから、聞いたの。あの後」
なるほど、そういう事ですか。
「久保さんの伴奏する合唱団の、アルトのエースだって言ってたなぁ」
「一応、後で落ち着いてから反省はしましたよ。あの時、興奮状態だったとはいえ、随分不遜な奴だったと」
「興奮状態?」
「そうよ。ビックリしたんだから。きれいに抜けた声で、ロッシーニアジリタを軽々と歌ったんだから! もうロビーで見たとき、声を掛けずにいられなかったの。すごい人、見つけたー! って」
「ん」
とそっけない返事である。そりゃ、私ごときに言われても、嬉しくないよなぁと思っていると
「お陰でその後、ロッシーニばっかり練習する羽目になった」
とまっすぐ目を見て言う。
「えっ」
この日2度目に固まった私を認めると、谷也さんは微笑みながら、パスタに手を伸ばした。
「……そう、なんだ」
それしか、言葉にならなかった。
食事を終えて、腹ごしらえに歩こうという。時間もあるし、天気もいいし、「デザート食べたよね」と言われ、しょうがないと付き合う。
「じゃあ、私がTM合唱団で谷也さんに声掛けた時、もしかして、気が付いてたの?」
「あぁ、あれって練習始まって、ちょっと経ってたよね。1ヶ月くらいだっけ?」
「そう。こっちはすっかり知ってたけど、さすがに最初からは声掛けられないでしょ。だから、そろそろ私もTM合唱団の一員だって認識したかなーってところで、声掛けたんだよね。私、音大出てないからアルトで話す人もいなかったし。男声はそうでもなかったけど、女声はほとんど音大出身者で、グループできてたし」
「確か、追加メンバーのオーディションのために、練習の開始が遅れた時だったっけ」
「そうそう。そうだった。みんな練習会場の外待ちで、私ロビーの椅子に座ってて、隣が開いてたから」
「僕、座ったんだよね」
と話を谷也さんが引き継ぐ。
ふふ、懐かしいなぁ。
ちょっと休もうと、公園の中のベンチに腰を掛ける。
「リサイタルでもジョイントでも、なんでもいいから、演奏会あったら行くから、教えてって、言われたんだよなぁ。ビックリしたよ。まだソロ活動する前だったし……」
「ファンクラブでもあったら、入ったんだけどねぇ。調べようがなかったから、教えてもらおうと」
「今でもないよ。ファンクラブなんて」
と、笑ってるいので
「そのうち、できるんじゃないかなぁ」
と真面目に言っておく。
「僕、すぐ教えたでしょ。携帯番号」
「うん」
「いつもはあんなに簡単に教えないよ」
「……」
まただ。一体、今日は何度固まらせたら気が済むのだろうか。
急に私の顔を両手で挟み込んで、顔を近づける。
「ロッシーニのことも、演奏会あったら行くっていうのも、うれしかったんだよ、本当に。君が言ってくれたから、やれるかもしれないと思ったし、やろうと思ったんだ。いつか言いたかった。ありがとうって」
「えっ……」
昔のことが走馬灯のようによみがえる。
「私が言ったから……?」
「そう」
谷也さんが、優しく笑っている。
「うそ……」
「嘘じゃないよ」
やだ、泣きそう。我慢しようと、思わずうつむきそうなるのを、谷也さんの両手がさせてくれない。
「だって……、そんなこと、思いもよらない……」
本当に、思いもよらない。胸が熱くて、涙がこぼれてしまった。
「ずっと、忘れたことなかったよ、カリリン。やっと、手に入れた」
と、そのまま唇を重ねられた。
昼間ですよ……、バカップルでしょ。
あぁ、でも、ありがとう。お礼を言うのは、私です。谷也さんの胸に顔を埋めた。
「もうすぐ、誕生日でしょ。その日、僕オケ合わせで一緒にいられないから、今日がその代わり。おめでと」
「忘れてくれていいのになぁ。この歳になるとね、誕生日って……。でも今日の事は、ずっと忘れないね。ありがと」
手を繋いで街を歩く。一緒にいられる幸せに、心が「トクトク、トクトク」と静かに音を立てていた。
と、後ろから救急車の音がする。なんだろうと見ていたら、私たちの目の前の交差点で止まった。人だかりが出来ていた。
「イヤー、お願い!息をしてー!」
叫び声が、こだまする。
倒れていた誰かがストレッチャーに乗せされる。それに縋るように、女の人が泣き叫んでいる。
突然、目の前に悠斗の顔が浮かんだ。心臓が、痛い。……、息ができない。
「息をして!」
そう叫んだのは私だ。看護師さんが枕を外して、本人が楽に息をできるようにと顎を上げる。なのに、息が止まっていく。
「悠斗! 息をして!」
最後に、大きくひとつ息を吐いて、あなたはもう2度と息をしなかった。
「カリリン……? どうした!? 花梨!」
谷也さんの声が、聞こえなかった。
涙が止まらない。どうしたらいい。死んでしまった。悠斗が死んでしまった。
1時間後、やっと駆けつけた悠斗の家族に後を託し、私は帰宅することになった。私はいつまでも、ここにはいられない。家族ではないのだから。
ご両親から
「1人じゃなくてよかった。牧原さんがいてくれて」
と言ってもらい、
「最後まで看取らせて頂いて、ありがとうございました」
と挨拶をした。
「最後のお別れをさせて下さい」
と言う私に、ご家族が気を利かせて2人きりにしてくれた。
「もう、行くね。お別れだよ。ずーと、一生忘れない。愛してる」
そう悠斗に語り掛けると、悠斗の目に……、涙がたまっていた。固く閉じられていたはずの目に……。あぁ、ちゃんと聞こえてるんだと、泣き崩れた。
後は、また雪の降りだした街をどう帰ったのか、ほとんど記憶にない。
気が付いたら、谷也さんが隣にいた。2人で椅子に座っていた。谷也さんは両手を組んで、足元を見つめている。私は、彼の肩を借りて、寝ていたらしい。
「ごめんなさい」
小さく声を掛けた。気が付いた谷也さんは
「大丈夫?」
と優しく聞く。
「ここ、どこ?」
周りを見渡すと、ラウンジの様に見える。
谷也さんは、大きく息を吐いた。
「話せる?」
と確認してくれる。
「事故があったんだって。あの交差点で。歩いてた人が巻き込まれたらしい。覚えてる?」
「あぁ、……うん。ここに、どれくらい、いる?」
「2時間くらいかな」
「2時間……! 私、ごめんなさい。よく覚えてなくて」
横に座っていた谷也さんが席を立ち、私の前でしゃがむと、両手を取り、真っ直ぐ見つめて聞いた。
「どうした? 何があった?」
ゆっくり、心に沁み込む声だ。
「……」
悠斗の涙が、目に浮かぶ。息が、また止まる。
ぐっと両手に力を入れて、谷也さんがさっきより更にゆっくりと聞いた。
「カリリン、誰かが亡くなったんだね、目の前で……」
答えられない。手を放してもらおうと両手を引くと、強い力で抑えられた。
「この手は、離さない。絶対」
と言って、目を逸らさない。
谷也さんの温かさが、手から伝わってくる。大きく息を吐く。その息さえも震えていて、自分ではどうしようもない。でも、この谷也さんの手には応えたいと思った。
「今、傍にいて欲しいのは、谷也さんです」
と、何とか声にできた。
一瞬ひどく顔を歪めたかと思うと、そのまま私の頭を包み込むように、強く、抱きすくめられた。このぬくもりを、手放したくはなかった。
交差点の手前に、このシティホテルがあり、とにかく落ち着かせるために、ここに連れてきてくれたらしい。食事できるかと聞かれて、もうそんな時間なのかと驚いた。さすがに、食事は無理だと答える。
「このまま、1人の部屋に帰したくない」という谷也さんに連れられて、最上階のバーに移動した。
そこには大きなグランドピアノが置かれている。時間を決めて、何時間かおきにピアニストが入るはずである。何度か聞いた覚えがあった。
私にはカクテル。自分には、グラスワインを頼む。谷也さん、今日は飲めないのに……。
谷也さんは何も聞かない。ただ、「苦しくない?」と何度も確認するだけだった。
「もう、大丈夫だから、帰ろう」
と言う私に、ふいに、谷也さんが「誕生日プレゼント」と言って席を立つ。バーテンの傍に行って話をしていた。そのまま、グランドピアノに向かう。そっと蓋を開け、鍵盤に指を下ろした。
「あぁ……」
音が鳴った瞬間、涙が溢れた。
ドビュッシーの「月の光」。
谷也さんが弾くその曲は、私の思い通りのドビュッシーで、まるでそう弾いて欲しいことを分かっているかのように、全身を包み込む音だった。
「愛している」と、その音が語っていた。