アルフレード
その日は、空気がキンと寒い日だった。14時過ぎ、フロントガラス越しに虹が見えた。
「今日、いつになっても不思議ではありません。牧原さん、悠斗さんの傍に居てあげてください」
病院からの連絡を受け、仕事を早退させてもらい、車で向かう最中のことだった。
余命宣告をされてから、ちょうど1年。心は静かに覚悟ができていた。どれほど愛しても、いつかは分かれる時が来る。言葉にすれば容易いのに、どうして気持ちはいつまでたっても納得してくれないのだろう。どうして、こんなに心が痛いのだろう。
あれから、5年が経った。今年も1月18日が近づく。スマホ上に「永眠」の字を見つけ、体中がショックに満たされる。毎回、毎回、いつになったら慣れるのだろう。
舞台の上では、アルフレードの心が叫んでいる。ヴィオレッタの最後に寄り添い、「田舎にいったら、君は元気を取り戻す。帰ろう」と懇願している。涙が止まらない。私は、何に泣いているのだろう。谷也さんに? それとも、悠斗に?
今日の谷也さんは、壮絶だった。1幕で恋に落ち、それは見事にまっすぐな青年で、2幕で現実を突きつけられ、愛した人を無残に突き放してしまう。3幕で後悔と懺悔の中で、最愛の彼女を見送る。
谷也さんの声が、最近変わった。
「今の先生? 韓国のバリトン。奥さんが日本人で、コレペティをしてる」
そんなことを、先日聞いたばかりだ。
「ずっと、CD聞いてイメトレするでしょ。そうすると、いつのまにか、その人の声に似てきちゃうんだよね。そのままレッスンに行くと『うーん、それ、谷也君の声じゃないよね』って、言われるんだよ」
と言う。びっくりして、彼の顔を見つめてしまう。
「……いい先生だね。本当に、いい先生」
「うん、僕もそう思う。やっと、見つけた」
良い歌い手は、耳もいい。そして、そのいい耳で聞いた声を、無意識のどこかで再生しようとしてしまう。
自分の声を保ち続けるのが、いかに難しいか。
ソリストとして活躍しだした今も、谷也さんはもちろんボイストレーニングは欠かさない。
声帯という臓器は、再生をしない。だから、使えば使うほど磨り減っていくのだ。それを分かっているから、声を出す練習を減らす歌手もいる。歌い過ぎてはいけないのだ。
ただし、やはり声帯をコントロールするのも筋肉なので、全く歌わないと衰えていってしまう。バランスが難しい。
私ですら、今まで何人の「先生」と呼ばれる人たちのレッスンを受けたことだろう。個人で発声を学び始めた頃は、それこそ貪るようにレッスンに通った。
毎日歌い、先生も毎日違った。指摘されることをそのたびに繰り返し、できているのかいないのか、分からないまま次の指摘を受け続ける。
そして、良かったと言われた箇所まで、再現ができなくなり、次のレッスンで、また最初からやり直しになる。
ずっとそうやっていると、心が疲れてきて、やはり止めたくなる時もある。そこを乗り越えて、今があるのだ。プロなら更に屈辱的な思いを何度もするのだろう。
それだけでも、私は彼らを尊敬する。
「息の通り道」が分かると、分かっていない「先生」がいかに多いか、思い知らされた。分かっていなければ、小手先の表現など、全く意味をなさないというのに。
「名選手名監督ならず」とは、歌の世界でも同じだ。本人がどんなに活躍していても、天才的で教わる前からできてしまったような人だと、他人には教えられない。
逆に、天性の「声」の持ち主でなくても、「正しい発声」をする人もいる。そういった人は、「名医」と呼ばれるようになる。
残念だが、日本には圧倒的にその数は少ない。「やっと、見つけた」谷也さんは、その時点で人より数歩、いや何十歩も先を進むことになるだろう。
「打ち上げ終わったー」
とLINEが来たのは、夜11時を過ぎた頃だった。
「お疲れ〜、終電間に合う?」
「ホテル取ってあるから。今回、今日までアゴ足付き」
ハートマークがついている。
「売れてるテノールは違うわねぇ」
「いやいや、それほどでもー」
「で、今日、どうだった?」
アルフレードが聞いてくる。
「あいかわらず、いい声だなぁって、聞いてました」
「それだけ?」
「泣きました……」
「うぉ、やった! 今度おごる! いつがいい?」
「じゃ、来週のどこかで」
「えぇー!? 明後日の日曜日は?」
18日だ。この日だけは、悠斗に会いに行く。
「ごめん。先約あり」
「うーん、了解。また、連絡するよ」
お互いに「お休み」スタンプで終わる。
この時はまだ、彼の疲れに気が付かなかった。やはり文字では、分からない。
桜並木が有名な川に掛かる、橋の上に来ていた。
あの日、昼間虹が出ていたのに、夜になって雪が降った。1年に2度か3度ある、ドカ雪。しんしんと降り積もり、夜半過ぎに一度止んだ。病室の窓から眺めると、月がぼんやり輝き、外灯が白く染まった街を浮き出していた。桜の枝にも、雪が吹き付けた後がくっきり残っていた。
あの光景は、忘れないのだろう。胸の痛みと共に、いつまでも思い出せてしまうのだろう。
「悠斗さんの容態が落ち着いているので、牧原さんも仮眠してくださいね」
と、隣の空いたベッドに、看護師さんがシーツをセットしてくれた。ほんの少し体を休めようと、横になった。
ふと、目が覚める。15分も寝ていない。呼吸が、彼の呼吸の間隔が、空いていた。血圧が、どんどん下がっていく。目の前のナースステーションに駆け込むと、看護師さんも病室と繋がっている、彼のバイタルの画面を凝視していた。サッと、内線電話を掛けた。
「先生、来てください」
スローモーションのように、いつまでも、いつまでも忘れられない。
「君のこと、もう守れなくなっちゃったなぁ」
と窓の外を見ながら、囁くように言っていた悠斗。眠るように静かに逝った悠斗。思い出すのは、楽しかった時間ではなく、最後の時間ばかりだ。
ここにも、やっと来られるようになった。彼を亡くしてから数年は、近くを車で通ることもできなかった。
あの日のように、今日も風が冷たい。
「約束したのに、なんで迎えに来てくれないの?」
毎年、この日に思うことは同じである。
最近は、その後に、「よっぽどそっちが楽しくて、こっちのことなんか忘れてるのねぇ」などと、毒づくことができるようになった。
「また、来るね」
と声に出して、ゆっくりと歩き出した。
携帯が鳴った。谷也さんだ。
「今、どこ? 先約、済んだ? 迎えに行くよ!」
「ちょっ、待った。谷也さんの家から、遠いから!」
「大丈夫。もう、途中まで来てる」
さすがに、無言になった。私の用事の優先度は! と、文句を言いそうになったところで、
「会いたい……」
ポツリと電話の向こうの声が言う。
悠斗。こんな風に言ってくれる人が、います。少しだけ、迎えに来るの、遅くなっても大丈夫だよ。
駅まで私が出て、そこに迎えに来てもらった。助手席に乗り込む。あったかい。
「相変わらず、強引だなぁ」
と文句を言いつつ横目で彼を見る。前を見ている目が、少し暗い。
「顔色、良くない……。疲れが、取れないの?」
「夕飯、何がいい? カリリンが、一杯食べれるところ、行こ!」
答えになってないし、「私が」食べれるところって……、どうしたのだろう。
「じゃ、こないだ行ったイタリアンは? ここから近いし」
「よし来た!」
谷也さんは少し笑って、車を向かわせた。
道中、やはり口数が少なく、心配になる。
「谷也さんのアルフレード、きっと評判になるよ。ヴィオレッタも良かったけど。これから、2人のペアがきっと増えると思うなぁ。高橋愛良さん、谷也さんに引っ張られて、2重唱なんか、演奏の最中に、グッと良くなっていったから」
「うん」
と小さく呟いて、突然私の手を取ってグッと握り締めて「冷たいね」と言ったきり、黙ってしまった。
とにかくお店に到着し、少し安心する。
「カリリン、一杯食べて」
といわれて、手っ取り早く2人分のコースを注文する。
谷也さんは、スパークリングしか飲もうとしない。
ひたすら私が食べて、谷也さんは追加したワインを飲みつつ、それを眺めているばかり。
「ぜーんぶ、食べちゃうよ」
と言いつつ、彼が3杯目のワインを手に取ろうとしたところで、
「そのワイン味見したい」
と言って、谷也さんのグラスを取り上げた。
グラスを返す代わりに、全然手を付けられていない前菜の中から、イベリコ豚の生ハムをフォークに取って、谷也さんの口の前に突き出した。思わず反射的にパクッと口にする。
「んっ、おいし」
とモグモグするので、すかさずカツオのマリネと香草をフォークに刺して、口に入れる。
そのうち、自分のフォークとナイフで、やっと食事を始めてくれたのを見届け、ワイングラスを端のほうに返した。
メインの牛ロースを食べたあたりで、やっと顔色が戻ってきて、ついでにフワフワしていた魂まで体に戻ってきたようで、
「なんか久しぶりに食事した気がする」
と、不穏な発言をした。
「やっぱり……」
溜息と共に呟く私を見て、目元を優しく微笑ました谷也さんが話し出した。
「毎日さぁ……、毎日目の前で、死んでくんだよ、ヴィオレッタが。キツくてさぁ……」
思わず目を見開いてしまった。彼はポツポツと続ける。
「舞台稽古が始まって、2幕までは良かったんだ。喜びと怒りと、驚愕と。3幕になってからが地獄。どんなに懇願しても、彼女は自分の手の中で弱っていく。『自分がいなくなった後は、新しい人を見つけて。私は見守っています』とまで言って、置いていくわけだ。それが、繰り返されるんだよ。戻れないんだ……、家に帰っても」
役作りをする方法は、人によって様々なタイプがある。オペラはとにかく歌に重点が置かれるので、役者ほどには感情的な役作りを求められない。
もちろん、演技――所作といったほうがしっくりくるかもしれない――が上手いほうが歌も聞きやすくなるし、舞台上で重宝されるのは間違いないのだが、それよりも、その時の感情を「声」として表現できることの方が肝心なのだ。逆にそれを理解し具現化することに、全てのエネルギーを割くといってもいい。
なぜこの休符なのか? 何のためのダイナニズムなのか? 楽譜に記さていない空間をも、いかに掴み表現するのか。それはテクニックであり、人間性であり、それこそが歌手にとっての役作りというべきものなのだ。
こんな風に、役を自分自身に引き込むタイプの歌手は、ある意味珍しいし、危険だ。本当に泣いてしまっては「歌」は歌えなくなってしまう。
それに、今までの谷也さんは、そうではなかった。あくまでも演技として役をこなし、どちらかというと理性的な音創りをして、声としてもあまり大きく感情表現しないでここまできたのだ。
天使のような中性的な存在に近かった彼が、人の形をとったというべきか。だから「壮絶」だと感じ、涙したのか……。
「誰か、大丈夫かって言ってくれる人、いなかったの?」
「今思えば、優治が何度か言ってくれたんだけど、『何? 大丈夫って?』て……、分かんなくてね」
佐々木優治さんはガストーネだ。役ばかりでなく、私生活でも学生時代からの谷也さんの友人である。
「この2日、久しぶりにまともに寝て、無性にカリリンの顔が見たいって思って」
と言っている谷也さんは、満面の笑みだ。そして、デスリ顔で付け足す。
「ごはん食べてるカリリンの顔!」
「はっ? 何をどうしたら、そこで『ごはん食べてる』私に繋がるのかな!」
と、グイっとスパークリングを呷る。何だか分らんが、失礼である。
「ほらほら、それ」
くっくっ笑いながら、続ける。
「生きてるって感じ、満載!」
笑っていた顔が、つくづくと眺める顔になった。
「……やっと、戻ってきたって、思える」
真顔で、真正面から見られて、思わず目線を外してしまった。
「まぁ、お役に立ったのなら、構いませんが……」
と不機嫌顔でデザートを頬張った。
「僕のも、どうぞ」
と笑いながら差し出すので
「当然です」
と平らげた。
「これからは、少し気を付けた方が……」
差し出口かと思ったが、きちんと谷也さんの顔を見て言う。上手く気持ちをシャットダウンする術を、身に着けるべきだが……。
「うん、そうだね。きちんと考える」
谷也さんは、締めのエスプレッソを口にしていた。
よかった。本人も、その危険性を十分理解している。
ほんのり色付いた彼の顔をみながら「おかえり」と小さく言うと、ゆっくり「ただいま」と答えて、テーブルの上でそっと手を握ってくれた。