ロドルフォ
ガラコンサートが終わり、ホールの外に、わっと人が吐き出された。ガラス張りのホワイエの大きな窓から、明るい日差しが降り注いでいる。マチネならではの素敵な瞬間だ。
先程までの声の饗宴を身にまといながら、いつもと違う時間を共有した人々の、興奮の声が充満していく。
通勤の満員電車さながらのホワイエ。そこに出演者が楽屋から出てきて、歓声があがる。タキシードやドレスの面々を中心にして、輪があちこちにできる。
それぞれの知り合いを探し当て、語り出したり、撮影したり、ハグし合ったり。この時間が出演者にとっても、大切な宝物の時間だろう。
その様子を2階のバルコニーから眺めながら、大きく深呼吸をした。谷也さんを見つけようと探し始めたが、実はファンに囲まれた彼を見るのは、あまり好きではない。
1階に降りるのは、もう少し後にしよう。などと考えながら、階段の近くで足を止めた。
「あれ、牧原さんじゃない?」
男性の声が、私を呼ぶ。
今日は、音楽仲間は一緒に来ていないし、こちらにはあんまり知り合いもいないはず。ゆっくりと、振り向いた。
「やっぱり、久しぶり。元気だった?」
肩幅が広く、身長も180cmはある、均整の取れたスーツ姿の男性が立っていた。
「篠崎さん……。お久しぶりです」
「何? こんなところまで聴きにくるなんて、誰か知り合いでも出てたの?」
「ええ、テノールで。篠崎さんは?」
「NCR響の仲間が、3人もバックの合唱で駆り出されてね。相変わらず、男は引く手あまたで、少しでも歌えればいいらしい。あと、スザンナも知り合い。」
「あぁ、可愛らしい声でしたね。そっか。こちらが、篠崎さんの地元でしたね。」
相変わらず、日本人離れした甘いマスクをしたイケメンである。2つ年上だったか。渋味が増して、いわゆるエリートの「できる男」を醸し出している。
「そういえば、遼子ちゃん元気ですか? まだ、ホルン吹いてる?」
「一時休団してたんだけどね、今年、復帰したんだよ。やっと子育てがひと段落したって。息子、音大に行ったんだよ。」
「すごい! 音教? 器楽? まさか、歌科?」
「ピアノ」
「うわ、ほんとに、すごいな! でも、ホルンじゃないんだ。遼子ちゃん、複雑だろうね〜」
などと、さすがに離れていた時間が長かったので、近況報告だけでも、あっという間に時間が過ぎる。
そんな流れで、「篠崎さんは? ご家族は?」と、何気なく、本当に何の思いもなく、聞いた。
それまで、にっこり笑って話していた顔に、少し影が落ちる。
「ちょっとね。色々あって……」
と、聞いてはいけないと思わせる目をする。取りなすように、篠崎さんが聞いてくる。
「花梨は? もう、牧原さんじゃないんだろ?」
昔の様に名前で呼ばれ、すこし動揺しかけたが、確かにこの年にもなれば、苗字が変わっているものだ。
「行き遅れちゃって」
言い慣れたセリフを口にしようとしたら、篠崎さんは指輪をしていない私の左手を見つめていた。
「結婚、してないの……?」
あぁ、そんなこと気にするんだなぁ、などと思いつつ、暢気に微笑んで返事の代わりにしたら、左手をがっしり掴まれた。「何!?」
「どうして……。あの時、俺はあんなに愛してたのに。どんな思いで君を忘れたと思ってるんだ……!」
そして、何かに気づいたかの用にハッとして、
「まさか、また辛い恋をしてるんじゃないだろうな!?」
と言い放って、掴んだ手を離そうとしない。
時間が、一瞬にして16年前にさかのぼってしまう。何も返すことが、できない。
突然、左後方から誰かが現れ、彼に掴まれたままの私の腕に、そっと触れた。
「大丈夫です。今は、僕が愛してますから」
そのまま私の左手を彼から奪い、自分の右手で握り締める。ひとつになった手を下ろし、私の横に立ったのは、谷也さんだった。目の前の篠崎さんを、見つめる。
「えっ!」目を見開きそうになってしまうのを、私は必死で我慢する。助け舟を出してくれているのだ。
「今」が、ゆっくりと戻って来た。
(誰だ、こいつ!)を貼り付けた顔で、篠崎さんは谷也さんを無遠慮に見つめ返し、そのタキシード姿を凝視していた。
「あの、テノールの谷也さん。今日のステージで……」
と、ここまで言うと、
「あぁ、ロドルフォか……」
と答え、少し間を空けてから「いい声だった」と、紳士然として付け加える。
私は、ゆっくり息を吐き、気持ちを落ち着けた。今なら、自然に言えそうだ。
「案外、幸せな人生を過ごしてるんですよ」
その瞬間、谷也さんは手をぎゅっと握り締める。
篠崎さんは、はじかれたように私を見つめた。
篠崎さんは一瞬強く眉を寄せたかと思うと、まるで自分が何かの苦痛を我慢しているかのように顔を伏せる。
ひと呼吸置いて顔を上げたとき、そこにはもはや苦悶の表情はなかった。
「じゃあ、これで失礼するよ。……花梨も、元気で」
そのまま、吹き抜けのホワイエに続く階段を下りて行った。
酔っ払っているならいざ知らず、シラフではもう無理である。手を離して歩き出そうとした。が、谷也さんがまた手を握り直して、小さくささやく。
「ダメ。まだ、見られてる」
そっと、ホワイエを見下ろすと、本当に篠崎さんがこちらを探ってでもいるかのように見つめながら、出口に向かっているところだった。
谷也さんは私の手を引っ張り、出口とは反対側の通路に連れて行く。もう、1階は見えない。
「余計なこと、した?」
やさしく微笑まれて、心臓が脈打つ。
「ううん。助かった。ありがとう……」
と、やっとのことで答える。
「後悔は、ない?今なら、間に合うよ」
谷也さんが、こちらを覗き込むように聞いてくる。
小さいけれど、きっぱりとした声で答えていた。
「彼の手は、もう随分前に離してしまったから」
それを聞いて、握っていた手を離そうとしていた谷也さんが、もう一度しっかり握り直してきた。
「そんなこと言われたら、手が離せなくなるよ」
「……!」
目を見開く。もう、どうしたの? 早く、いつもの2人に戻ろう。
「さっき言ったことは、本当だから」
「……」
目を見つめて言われ、思わず見返すことしかできない。
――大丈夫です。今は、僕が愛してますから
言われた言葉が甦り、言葉に詰まる。
私は、ただ谷也さんの声が聴いていたかっただけだ。音楽仲間でいてくれれば、それで充分だ。それ以上は、望んでいない……。やっぱりダメだ。手を離そうとするが、谷也さんが離してくれない。
「花梨姐さんは、強いな……。まだ、逃げる気?」
「谷也さん……」
堰が、切れてしまった……。
押しとどめていた気持ちが、溢れてくる。
なぜ、「仲間」のままでいさせてくれないのか。
この声を、失いたくは、ない……。
「もう、降参……」
空いた右手を軽くあげ、大きなため息とともに、呟いた。
「これからも、よろしくお願いします……でいいのかな」
ほっとしたように、何のてらいもなく、谷也さんは言ってのける。
「いいよ。こちらこそ、よろしく。カリリン」
出演者全員の記念撮影をするからと、遠くから呼びかけられ、やっと手を離してくれた。
「あなたのファンに見られたら、私刺される……」
さすがにちょっと文句を言ったら、
「大丈夫だよ。ファンなんて、いないから」
と、笑顔で楽屋に戻っていった。
「うそばっかり……」
さっきまで写真撮影で囲まれていた人が……。
もともと、車なので打ち上げに出ないとのことで、帰りに一緒に食事でもしようと約束していたから、各々の車で創作料理のお店に向かった。
「私のお勧め」と連れてきたお店で、カウンターと4つのテーブルだけのお店だが、出される料理はどれも納得する味で、外れることはない。
カクテルを出すので、深夜を過ぎるあたりからは、バーの雰囲気に変わっていく。
今日は、飲めなくてと、馴染みの店長と話しつつ、カウンターの端に座り、メニューを決める。長身で顎ヒゲがよく似合う店長は、料理をするため奥に移動した。
「そもそも、なんで、からまれてたの?」
と、篠崎さんの事を聞いてくる。
「からまれてたって……」
眉が下がり、情けない気分、この上ない。
「いつもなら、あんなのサラッと受け流しちゃうのに。カリリン、固まってるから」
「う〜ん……、どこから聞いてたのかな?」
「花梨って、呼び捨てにしたところから。(何だ、こいつ!)ってムカついてたら、手まで掴んでて。(離せよ!)って止まらなくなってさぁ……。気がついたら『音楽仲間カテゴリー』逸脱しちゃってたよ」
と、ケロリと言う。
「花梨姐さん、必死にそれ、守ってたのにねぇ……」
谷也さんを見たまま、固まった。
「いつ、そのカテゴリー外してもらえるのかなぁって、眺めてたんだけど」
ニコニコ笑っている。
「待ちきれなかったみたい。勢い余っちゃった」
って……。
「まぁ、どちらにしても、もうそろそろ限界だったけどね」
って……。
「はぁ〜」と大きくため息をつきつつ、額に手を当てた。
谷也さんは、くっくっ笑いながら、「かわいいなぁ」と小さな声で呟く。
はぁ!この歳に向かって、かわいいとは何事か! もう一度、固まりつつ、さすがに、睨んでおいた。今日はもう、消耗が激しくて、反撃するまでの復活は、できそうにない。
「昔の歌仲間で、本当に久しぶりに会ったから、近況報告してただけで。彼はNCR響でバイオリン弾いてるから、コンマスになったのか? とか、ホルン吹いてた友達は元気か? とか、そんな話だったんだけど……」
「ふ〜ん。コンマスに、なったって?」
と、半眼で聞いてくる。
「トップサイドだって。まだまだ、頑張る先輩諸氏に譲ってもらえないよ。って、笑ってたんだけど……。そのホルンの友達が結婚して、子育て済んで、最近やっと復帰したんだって話から、急に君は? ってなって……」
「薬指に指輪がないのを、見つけたわけか」
私は頷く。
「なんでこんなこと、気にするんだろうって、不思議だった。彼は、とっくに結婚して、お子さんもいるはずだし……」
「そう……」
谷也さんが、前を向き、少し遠い目をする。
――どんな思いで君を忘れたと思ってるんだ……!
会話が途切れる。ノンアルコールを一口飲んで、一度肩の力を抜いた。
「ここまで話して、何なんだけど……。この話、もう止めない?」
と言ってみる。
「話したくない?」
と、彼らしい優しさで聞いてくる。
「ううん、そうじゃなくて……。私、正直いうと、篠崎さんの下の名前も、思い出せないくらいなの。だけど、谷也さんって頭いいでしょ。記憶力すごいし。私が彼をすっかり思い出さなくなっても、きっと、私より長く彼のことを覚えてることになると思うから……」
びっくりした顔になって、真面目に聞いている。
「私、それ、ヤダな」
「うん……、そうか。分かった」
その後は、もうその話には戻らずに、今日の演奏会のあれやこれやを批評しつつ、
「谷也さんは、いつものキラキラ王子様声で、今日も一番だった」
と褒めまくり、
「ども、ども」
とウーロン茶で乾杯し、食事と一緒に、存分に会話を楽しんだ。
店を出ると、すっかり夜が始まっている。ここからは、お互い自分の車で帰宅することになる。
「カリリン」
後から出てきた谷也さんの声で、振り返る。ゆっくり近づいてきて、少し躊躇した間があった。
「一度しか聞かないから、答えて欲しい」
と、真摯な声で囁く。
「もう、辛い恋はしてないんだよね……」
一瞬、息が詰まる。
「谷也さん……」
「本当に、昔の事なの。それに、私の言ったことも、本当だから……」
と答えて、まっすぐに彼を見た。
――案外、幸せな人生を過ごしてるんですよ
大変ずるい笑顔を湛えたかと思うと、頭を引き寄せられ、そっと抱きしめられた。
「仲間」のままでも、充分幸せだったけれど、もう、ごまかす為に離れなくてもいいんだな。と、改めて思う。
「帰ろっか……」
「うん……」