越谷辰之助/石川啄木の「初恋」
越谷辰之助/石川啄木の「初恋」
教会に来ていた。理美さんの後輩の、福井鈴華さんのジョイントリサイタルだ。クラシックギターとのジョイントという、珍しい演奏会。小さな教会だが、歴史が古いらしく、市の指定文化財になっているらしい。教会は、公民館などより、よっぽど音響がいいのだ。
福井さんは、声も、そしてスタイルも、とても線の細いソプラノさんである。日本歌曲が中心のプログラムになっていた。「初恋」を歌っていた。
「福井さんって、お幾つくらいですか?」
と、曲の合間に小声で理美さんに尋ねる。
「う〜ん。確か30歳は超えてると思うよ」
と、今日も素敵なお洋服の理美さんが答える。
理美さんは、以前合唱団のヘルプとして参加した時に知り合い、今もお友達でいてくれる大事な音楽仲間である。音大を出て、今でも生徒さんを多数抱える、コロラトゥーラソプラノである。
「とても、見えませんね。大学出たてって言われても、疑わないなぁ」
「ああ見えて、鈴ちゃんはけっこう芯が強いのよ」
確かに、可憐なお顔には、意志の強そうな片鱗が見える。谷也さんと並んだら、きっとお似合いだろうなと、眺めていた。
TM合唱団の練習の帰り、谷也さんを中心にした数人が、私の後ろを駅に向かって歩いていた。谷也さんは、いつも女子に囲まれている。イケメンは大変なのだ。
ただ、不思議と嫌な感じがしないのは、谷也さんが誰に対しても、さっぱりとした対応をとっているからだろう。
「今日は、このあとどうするの? 食事していかない?」
と、この間、フォーレのレクイエムの時も一緒だったソプラノさんが誘っている。
「今日は、これからレッスンなんだ。今回は先生が、1週間しか日本にいないから、急に決まってね。大変だよ」
とのこと。あぁそういえば、理美さんがそんなこと言ってたなと、こっそり耳をダンボにしながら聞いていた。
「残念〜」
悲鳴のように女子2、3人の声がする。このままだと追いつかれるな、と思いながら、前を向いて歩く。案の定「カリリン、お疲れ様」と、追いついた谷也さんに声を掛けられた。
「今度さ、理美さんと、また3人で飲みに行かない」
と、他の女子に聞こえないように言う。その配慮は、大変助かります。余計な争い事には、巻き込まれたくありませんので……。
「そうだね。暑気払いといきますか。LINEいれるね」
「OK」
谷也さんはそのまま私を追い越して、行ってしまう。なんとも、他愛もない会話なのだが、他の女子には気に入らないだろうなぁ。
「ねえ、なんであのアルトさんのこと、カリリンって呼ぶの?」
ソプラノさんが谷也さんに聞いている声が、ここまで届く。小さい声だったのに、耳聡い……。
「さて、何ででしょう」
と、さっぱりと答えていた。また、そういう思わせぶりな……。可哀そうだろうが、その女子が。
私たち3人は、何度か色んな合唱団のヘルプとして参加しているうちに、飲み会をする仲間になっていた。谷也さんも理美さんも、大のワイン好きで、私はただのお騒がわせ好きで、気が合っていたのだ。
大体いつも、歌の話や、聴いた演奏会の批評や、発声のことや業界の裏話などで盛り上がり、そのままお開きになる気楽な会だった。
「響き、良くなってるね」
気づいたままを、谷也さんに言う。
「そう?」
「うん、雑味がなくなってきたっていうか、はっきり響く場所が決まってきたっていうか」
「そうだな……。ちょっと、掴んだこともあって……」
「こないだのレッスン、良かったもんね」
と言うのは、理美さんだ。2人は同じイタリアの先生についていて、お互いのレッスンの聴講をし合っている。なるほど。
「今のTM合唱団の先生も、谷也さんの声、相当気に入ってる」
「そうなの?」
理美さんは、今回TM合唱団には参加していない。TM合唱団は、毎回オーディションでメンバーを選出するため、いつも同じではないのだ。今回の合唱指導の先生も、理美さんは会ったことがなかった。男性である。
「そう! 声だけじゃないかもねぇ。気を付けないと、狙われてるよ〜」
と、谷也さんをイジる。
「僕? ストレートだからなぁ。残念だけど、要求には応えられないなぁ」
とのことで、大笑いである。
音楽業界は、そちらの方が結構いらっしゃる。
「えぇ、谷也さんって、そうじゃないかって、まことしやかに言われてるよ〜」
実際に私も何度か噂に聞いたことがあったので、更に追い込んでみた。
「心外だー! いつも、女の子に囲まれてるのに……」
と、ワインを呷るので、
「だからじゃない〜。ひとりに決めずに、いつも囲まれたままだから、興味がないのかと勘繰られるんだよー」
本音を混ぜつつ私は続けた。
本当にそうして欲しい。早いとこ、誰かに決めてくれれば、こっちもすっきりする……。
この声に惚れた私も悪いのだが、これ以上の気持ちにならないように制御するのも、なかなか至難の業なのだから……。
「鈴ちゃん、覚えてる? 福井鈴華さん」
先日の、華奢なソプラノさんだ。以前TM合唱団にも参加していたので、谷也さんも見知っているような気がした。
「ああ、鈴ちゃん。覚えてる。彼女がどうしたの?」
やはりか。相変わらず、大した記憶力である。
「谷也さんと、お似合いだなぁと思って」
「だめだよ〜、鈴ちゃんは。自分がガッツリ歌っていたい人だからねぇ。ああ見えて」
と、思わぬところから横やりが入る。そうなのか? 理美さん。
「谷也君を支えようとか、一緒に歌おうとか、全く思わないタイプ」
「えぇ、でもあの声では、ソロでこの先、そんなに活躍できるとも、思えないんだけど」
と、不遜な発言をしてしまう。
「きっついなぁ、カリリン。もうちょっと、歯に衣、着せよう」
正直なだけですが……。
「でもさ、お人形さんみたいで、かわいいじゃん。似合うと思うんだけどなぁ」
「ダメダメ。鈴ちゃんは、ない!」
理美さん〜、一刀両断しないで〜。
「そうなの? ダメなの? 残念だなぁ。ところで、どんな声だったっけ? 鈴ちゃんって」
と、興味あるんじゃない〜。だれでもいいから、早く決めてー!
そんなんで、今日はお開きになる。2人でフルボトル2本は開けておきながら、まだまだ余裕なのだが、電車の時間が迫っていた。声のためにも、程々にしてくださいよ、2人共。
理美さんは、路線が違うため、途中で分かれた。谷也さんと、2人で歩く。
「カリリンは、僕に彼女作って欲しいんだ」
一瞬、言葉に詰まる。が、笑ってやり過ごす術は、身につけている。
「だって、自分で言ってたじゃないの、彼女欲しー!って」
と、前の飲み会の時ね。
「そんなこと、言ったっけー」
と、ケロッとおっしゃる。これだから、酔っ払いはタチが悪い。
「まぁ、カリリンがそう思ってるなら、別にいいけどね」
横目で見ながら、何気に言う。
いいよ。さっさと、作ってください。何なら嘆願書の署名、集めようか?
ツッコもうと思った矢先、グッと腕を掴まれて引き寄せられる。
後ろから、酔っ払いの団体がやってきて、ぶつかりそうになるのを避けてくれたらしい。
「花梨姐さん、気をつけて」
「……」
引き寄せたまま、耳元で言う。……やめて欲しい。心臓が止まりそうになる。
「おばさんなんだからさぁ」
「なんですとー!」
と、離れながらおどけて、ツッコむ。
これでいい……。
こうやって、何度か近づいたことはある。不思議と、そんな時はこの「花梨姐さん」を、谷也さんは使う。
最初は、ただの「姐さん」だった。私はそのままで良かったのだが、理美さんも「姐さん」のため、呼び方が「花梨姐さん」になった。
そのうちに、実は理美さんは「姐さん」と呼ばれることがあまり好きではないと、私も谷也さんも気づき、名前で呼ぶようになる。そこで、何故だか私だけ「カリリン」になったのだ。
う〜ん、恥ずかしい。生まれてこの方、この呼び方をされたことはない。呼ばれるたびに、胸がザワついたが、今ではすっかり慣れた。
何だか、年下に転がされているような気がしてならない。
まぁいっか。気にしない。このままの関係でいる分には、構わないだろう。酔っ払いの戯言である。今日も、いい飲み会でした。
「じゃあね〜」と手を振りながら、別々のホームに分かれた。
LINEが入る。
「カリリンは、何で彼氏作らないの?」
谷也さんからだ。
「さて、何ででしょう」
と、パクっておいた。