いつまでも、ずっと
日本に帰国する前に、1日だけヴェネチアの観光をした。帰国後、1週間後にはリサイタルが予定されていたので、早く帰ることを提案したのだが、
「新婚旅行は、一生に1回だけでしょ」
と言って、思い出づくりをしてくれたのだ。
ヴェネチア広場に向かった。どこからか、ピアノの音がする。ここは、広場を囲むように、カフェや雑貨やお土産を扱う店に、高級なヴェネチアングラスを扱う店まで、様々な店舗が軒を連ねている。それらは全て回廊でつながっており、歩いているだけで十分楽しむことができた。
ピアノは、カフェレストランの前に、ちょっとしたテントをもうけて、その下で演奏されていた。夜になれば、何ヶ所か同じようなお店があり、こちらの演奏が終われば、あちらの演奏が始まるといった具合に、ずっと音楽が鳴っているらしい。今はお昼なので、演奏をしているのは、ここだけのようだ。
谷也さんと手を繋いで、ピアノに向かう回廊を歩いていた。ピアノを弾いていたのは、カフェの店員の様にも見える。白いジャケットに、黒の蝶ネクタイ。ふわふわの金髪で、青い瞳。まるでアニメの世界から飛び出してきたような超絶イケメン。外なのだから、もちろん音は悪い。なのに、よく弾いてるよなぁと感心しながら、ずっと彼の顔を見て歩いていたらしい。
ふいに、そのピアニストの彼が私の視線に気づいたらしく、目が合った。と、その瞬間、私に向かってウィンクをした……! 彼は、にっこり笑って、そのまま鍵盤に目を落とし、弾き続ける。
うわぁ~、ビックリした~。こんなことってある!? まるで、映画かドラマみたい。いやいや、今時こんなベタな設定、ドラマでもないよなぁ。うわぁ~、ウィンクだって~!
彼はずっと笑顔でピアノを弾いていて、通り過ぎる瞬間、もう1度だけこちらを見て微笑んだ。うわぁ~、たまらん! 甘くてかっこいい~! イタリア人って、すご~い!
「カ~リ~リ~ン~っ!」
やばいっ! 谷也さんと一緒だった……。半眼で、こちらを睨んでいた。
「僕が1番じゃ、なかったの! こないだ、そう言ってたよね! 世界級なんでしょ! なんなの、今見とれてたよね!」
うわぁ~、何故にバレてる~?
「だって~、生まれて初めて……」
顔が、またニンマリしてしまう。
「ウィンクなんて、誰でもできるんだよ!」
えぇ、それもバレてたの~!?
「あいつ、殴ってやろうか!」
いやいや、それはダメでしょ。
「僕だって、いつもカリリンに愛の歌、歌ってるでしょ」
「だって~、ウィンク……」
「もう、大和撫子なんだから、しっかりしなさい!」
手を引っ張られて、水辺まで連れてこられた。
「まったく、千葉さんといい、イタリア人に骨抜きって、どうなってるの!」
まだ、お怒りです。
「……何、その千葉さん発言?」
急に出てきた千葉さんの名前に、片眉が上がる。
一瞬、谷也さんの顔が「まずいっ!」となったが、片手で口を覆い、あっちを向いてしまう。
「何、何~?」
回り込んで、顔を見る。ニコニコしてしまう。何かな~?
「もう、武士の情けで、カリリンには内緒の予定だったんだけど、う~ん、あいつが悪い!」
と、見えなくなったピアノの方向を睨んでいる。まったく、何度も言うが、子供か! 君は。
「千葉さん、こっちで女性にすごくモテてたの、知ってる?」
へぇ~、知らない。まぁ、あのイケメンも国境を越えるレベルだけど。こっちは、それどころじゃ、なかった……。谷也さんの歌のことや、食事のことや、時間のことや、色々一生懸命でした。
「こっちの女性は、積極的だからねぇ。僕が連絡先を聞かれるんだよ。それどころじゃないのに」
あら、大変だったのね。それも、知らなかった。
「一人でホテルに泊まったの、何日あったのか……」
「うわぁ~、意外と手が早いのね、千葉さん」
ある意味、感心です! まったく、気が付かなかった。
「情熱的だからね、女性も」
って……。ん? 何故にそれが分かるのだ……?
「なぜ、そんな事が手に取るように分かるのかな~?」
つまり、あなたも誘われたと……!
「いやいや、僕はそれどころじゃなかったでしょ。それに、カリリン一筋なんだから」
落ち着きがないぞ、谷也修二!
ぐっと睨んで、仁王立ちで、腕を組む……。と、後ろから、カンツォーネが聞こえてきた。ゴンドラに乗った船乗りたちの歌だ。
ダメだろう! 空気が、和むだろうが……。
谷也さんが声を出して笑ったかと思うと、おもむろに私の顔を両手で挟んで、おでこにキスをした。まだ機嫌が直らない私に、今度は瞼にキスをする。
「さあ、ケンカは終わり。ゆっくりしてる暇はないよ。全部、見ちゃうんでしょ。ガイドブックの見どころ」
もう、キスでごまかされるほど、子供ではあません。が、仲直りには賛成。逆にこんなことでケンカできるなんて、思ってなかった。これも全て、谷也さんが成功したからです。ありがとう。幸せだ……。
「う~ん、とりあえず、日本に帰るまで休戦ってことで手を打ってあげる。世界のテノールに免じて」
満面の笑顔で、笑う谷也さん。やっぱり、あなたの笑顔が、世界で1番です。自慢の、旦那様です。
「ためいき橋、見るの!」
「よし、行こう」
また手を繋いで、歩き始めた。
「いつまでも、同じ景色を見ていたい。あなたの歌を聴いて、幸せでいたい。今は、それだけ」
「何回でも、君のために歌うよ。舞台から君を見つけて、君のために歌う。ずっと」