トニオ
「連隊の娘」の舞台稽古を、特別に見学させてもらっていた。滅多に谷也さんの練習風景を見学することはしない。演奏会当日の楽しみが減るのと、素人の私がノコノコついて行っていい場所ではない、と考えているからだ。
今回、ちょっと覗いてみないかと、半ば強引に連れてこられた。何かしら不安がある時にしか、谷也さんはこういうことはしない。
「もう一回、やってみてくれますか」
演出家のゲキが飛ぶ!
マリー役の橘彩智さんだ。コロラトゥーラソプラノの難役とされるこのマリー役を、オーディションで勝ち取った実力者と聞いていた。が、どうしたのか……。
高音が、届かない。Cどころか、Aも怪しい。響きだけ残して、pにすべき音までも叫んでしまう。悲鳴に近い。彼女のために、練習が遅々として進まない……。共演者も待ちぼうけでる。
この練習会場は、オケの常設練習場で、小さなコンサートもできるように、2階に客席が設けられている。そこに座って聞いているのだが、椅子の背にもたれることもできないほど、驚いてしまった。
前のめりになっていて、不満が隠せなかったらしい。ふと視線を感じて谷也さんを見ると、口に人差し指をトントンと当てて、下を向いて笑っている。
「カリリン、口が尖ってるよ」と言いたいらしい。ひゃっ、思わず両手で口を押えて椅子にもたれかかった。
「いじわる……」
「どう思う?」
と帰りの車中で、谷也さんが聞いてくる。
「どうもこうも、どうしてオーディション通っちゃったの? って思うけど…」
「実はね、主催者のゴリ押しらしい」
いとも簡単におっしゃった。
「えっ、この曲で!?」
「そう」
時として、演奏会の主催者がその伴侶や家族を、大事な役に出演させることは、ままあることだ。だから、例えばソプラノならば、その人よりも上手いソプラノは出演させないし、たとえ声量がない場合でも、遠慮なく1000人クラスの会場で演奏会を開くこともある。それで文句はないし、珍しいことでもない。
しかし! である。
今回は、大事な谷也さんのトニオのデビュー作なのだ。中途半端なことをやってもらっては困る! 憤然と、怒りが湧いてきた。
「運転手さん、落ち着いて」
谷也さんが助手席で笑っている。
「カリリンが怒っても、しょうがないでしょ」
余裕な発言です!
「でもぉ、どうするの?」
「僕は僕のできることを、全力でやるだけ」
とおっしぉる。ん~、人間が出来過ぎてやしないか!?
結局、本番当日に私が怒り出さない様、先に見せておきたかったらしい。準備もよすぎないか、まったく!
ロッシーニと並んで、必ず上げられるのがドニゼッティである。現在では、ベッリーニを加えた3人が、ベルカント・オペラの作曲家といわれる。ロッシーニに比べると、オペラに馴染みのない人の耳には、ドニゼッティの方がメロディアスで聞きやすいかもしれない。
その中でも「連隊の娘」のトニオは、2点Cを何度も連呼する役で有名である。谷也さんにオファーが来るのは、至極当然といえた。本人も、随分前から歌いたがっていたので、2つ返事の演奏会になる予定だったのに……。
本番を控えた1ヶ月前、情勢が大きく変わった。
「指揮者が、降りるって言い出しましてね」
と、千葉さんが話してくれた。
一向に進まないソプラノに、結局指揮者が音を上げた。さすがに時間がなかったため、かなり主催者側と揉めたそうだが、体調不良を理由に、ソプラノの降板ということで、なんとか落ち着いたそうだ。代役として、マリー役の経験があるアメリカのソプラノが呼ばれることになった。
「やっと、まともに音楽が進んでるよ」
とは、谷也さんの弁である。私も安堵した。逆に出演者の結束が強くなったようで、指揮者とも実に友好的に音創りが進んでいるらしい。
「連隊の娘」は、スイスのチロル地方が舞台で、孤児であったマリーをフランス軍の第21連隊の皆で育て、運命的な出会いをしたトニオと恋に落ち……。と、コメディタッチのハッピーエンド物語である。
ストーリーこそ単純で親しみやすいものなのだが、何せ主役の2人の歌が、どれもハイテクニックを要するものばかりで、この2人を揃えることができないのが、日本のみならず、世界的にも上演回数が少ない、大きな理由になっている。
1度だけ、橘さんと言葉を交わしたことがある。まだ降板が決まる前のことだ。谷也さんが次の演奏会の打ち合わせのため、どうしても車での移動が必要だった日だった。私が練習会場に迎えに行った際、その日は珍しく指揮者と谷也さんがずっと話し込んでいたため、少し練習会場の出口で待たされた。
「あなたが噂の、谷也さんの運転手さん?」
と声を掛けられた。
最近は、オケの人からも結構気さくに声を掛けて頂き、1度共演した方々にも、顔を覚ええてもらえるようになっていた。そのお陰で、前よりは谷也さんの隣にいることが苦ではなくなっていたのだが……。
うわっ、久し振りの高圧的あいさつ! と思いながらも、
「はい」
と素直に答えておいた。
さすがの私も、「すてきな声ですね。楽しみにしています」とは口が裂けても言えず、「お疲れ様でした」と無難にやり過ごそうと思っていたのだが、意外にも向こうから話が続いた。
「次の演奏会の予定は、決まってらっしゃるのかしら?」
「はい、リサイタルが3ヶ所、その後オペラの予定もありますが」
と答えると、
「ふ~ん」
と返事が返ってきた……。うん、この人、期待を裏切らないな、と思いつつ、
「よろしければ、ご案内をお送り致しますが……」
と、こちらも様子見で、社交辞令を返す。
「とてもいい匂いですね。どちらのシャンプーをお使いかしら?」
こちらの言葉には応えずに、突然、変化球を投げられた。隙を突かれて、思わずどうでもいい質問に答えてしまった。
「普通のどこでも売っているものです。資生堂ですが……」
「あら、そう。……まぁ、演奏会の案内は、谷也さんに直接聞きますから結構ですよ」
と、無礼なまま帰って行った。
ドッと、疲れる。こういう、女の闘いを一方的に仕掛けられるのは、ほんと疲れます。
「カリリン、なんかゲッソリしてない?」
戦の原因の張本人が、移動の車の中で他人事のように聞いてきたのを思い出す。イケメンの周りは、なかなかに平和が訪れません。
舞台では、トニオとマリーが愛の二重唱を歌っている。「僕はあなたを愛している」「この愛を失うくらいなら、命を失った方がいい」と。
本当に、何度聴いても、なんて艶のある声なんだろう。谷也さんの声が、会場に突き抜けるように響き渡る。マリーもお茶目で、連隊の男達に愛されて育った娘らしく、愛おしい娘役を軽やかに歌い上げる。
マリーのために自分の故郷を捨てて、このフランス軍の隊員になると決意し、無事連隊の仲間になり、マリーとのことも皆に許しを貰った時に歌い上げる「友よ、楽しい日よ」が始まった。
なんでこんなに「C」が簡単に出るのだろうというくらい、易々と歌う。何度も何度も、強く張りのある声が響き渡る。それは、会場を制圧する、圧倒的な声だった。
もう、「谷也さん」ではなく、彼は世界的テノールになる「谷也修二」なのだと、痛感する。
劇中にも関わらず、ブラボーコールが止まらない。谷也さんは次の演技に入った。が、まだブラボーコールが終わらない。
すごい! アンコールだ。オペラの途中で、アンコール……。聞いたことがない。私は今後語り継がれるだろう演奏を、今聴いているのだと鳥肌が立った。
もう一度、アリアが繰り返される。もう一度、ブラボーコールが飛び交う。本当に、すごい……。
第2幕でトニオがマリーの叔母(実は母親)に「聞いてください、奥様」と懇願するアリアで、泣いてしまった。
こんなに「愛」を歌える人なのだ。そういえば、ずっと、そうだったか……。ロドルフォの時も、アルフレードの時も、ピンカートンの時も、情熱的な人だった。
優しすぎて、分からなかった……。
「この恋をあきらめるなら、いっそ命を落とすしかない」と、最後のAにもかかわらず、pにしてみせる声の、なんと美しいことか……。
何度、カーテンコールがあったのか。終演後、夢見心地で楽屋に向かった。
最近の演奏会では、出演者が演奏後お客様を送り出す。なので、まだ谷也さんは楽屋に戻っていないだろう。先に、楽屋で待っていた。嵐の前の静けさだった
楽屋が一斉に騒がしくなる。皆が戻ってきたのだ。これから一時、戦争の様な喧騒になる。谷也さんも戻ってきた。興奮のオーラが全身を取り巻いている。なんて声を掛ければいいのか、分からないほどだ。
「おめでとう!」
「あぁ! カリリン、ありがとう!」
ステージのエネルギーを全身にまとっていて収まらない。
いっぱい、いっぱい、称賛を受けてきたのだろう。それに相応しいテノールだ。充分に満喫してください。
どんどん、楽屋にもお客様が訪ねてくる。きっと、1時間くらいは身動きが取れないだろう。とにかく、着替えだけは済ませて、荷物をまとめる。いつもの花束やプレゼントも、全て車に移動しなくてはならない。今日は打ち上げがあるので、この後そちらに向かうことになる。まだ皆さんに囲まれていたので、谷也さんには告げずに、荷物を抱えて、いったん楽屋を出た。
ここは、駐車場が遠い。戻った時は、割と楽屋も落ち着いていた。谷也さんの楽屋もドアが閉まっていて、どうやらお客様も皆さん帰られたようだ。谷也さんが待っているかもと、少し急いで戻る。ふと、見覚えのある人が谷也さんの楽屋に入っていった。橘さん……?
楽屋のドアを開ける。谷也さんが、ソファで横になっている。その横に、上半身をかがめて橘さんが立っていた。
谷也さんの手が、橘さんの頭を引き寄せ、唇を重ねていた。
心臓が、止まったかと思った。
「えっ……」
と声にならない声が、喉から漏れる。
はじかれたように、谷也さんが目を見開く。ゆっくり、こちらを見て
「カリリン……」
と呟いた。
動けない。衝撃のあまり、体が付いていかない。
その時、橘さんだけが動いた。私の横を通り過ぎる。
「ちゃんと『花梨さんじゃ、ないですよ』って、言ったのだけれど……」
と、私に言い置いて部屋を出て行った。
部屋を、飛び出していた。
「カリリン!」
谷也さんの声がしたと思うが、はっきり覚えていない。頭のどこか片隅だけが、いやに冷静で、まずは家に戻り、仕事の道具と簡単な着替えだけを持って、そこも飛び出した。どこを、どうやって移動したのか、最終的にはビジネスホテルの一室に逃げ込んでいた。
「もう、傍にはいられない」その思いだけが、私を突き動かしていた。
ずっと、そのホテルで仕事をこなした。携帯に、何度か連絡が入ったが、全て取らなかった。
あの、光景が、目に焼き付いて、離れない……。
仕事をしていれば、忘れられる。寝ることもできないので、落ちる寸前まで没頭した。3日もすると、心が少し冷静になってきた。ゆっくりではあるが、自分の世話ができるようになった。
シャワーをあび、着替えを済ます。コインランドリーで洗濯を済ませ、部屋に戻る。あぁ、せめて水分をと、ポカリも手に入れる。
どんなに、泣いても、心は楽にならないことを悟り、泣くことも止めた。5日たった辺りで、ちゃんと先のことを考えようと思い始める。
なのに、少し力を抜くと、もうすぐリサイタルの日だな……と、思いが逆戻りしてしまう。
けじめをつけて、日常生活に戻った方がいい。谷也さんがいなかった時の、自分の時間に戻るのが、一番早くこの苦しみから逃れる術なのだ。方法は、知っているはずだ。ひとりは、慣れている……。
何日経ったのか、数えることも止めてしまった頃、会社の東先輩からメールが来た。
何だろう? 今の仕事は、先輩のチームとは違うプロジェクトのはずだが……。
「久しぶり。元気してる? 携帯、繋がらないんだけど、電話していい?」
とのことだ。
そういえば、充電も切れてたか。慌てて、携帯バッテリーをコンビニで購入し、連絡を入れた。何だか、もう何年も聞いてなかったかのように、先輩の声を聞いた。
「すみません。充電が切れてました」
「すごいよ。今、隣に誰がいると思う!?」
先輩が突然聞いてくる。
「何と、前川先輩!」
ビックリの発言をする。
「えっ、どうしたんですか? 先輩方、連絡取りあってらっしゃったんですか!?」
前川先輩は、私が新入社員だったころ、チーフを務めていた憧れの先輩だ。有能で美人でそつがなく、当然早くに結婚されて、円満退職されていた。
「本当に久しぶりに、お会いしたのよ。牧原さんも、来られない?」
「あの……。すみません。ちょっと今は、出られなくて」
と力なく答える。電話の向こうで「私ひとりじゃ、ダメみたいね」と、懐かしい前川先輩の声がしている。
「もう一人、集まってるのよ。竹野さん、覚えてる?」
覚えてるも何も、竹野先輩は東先輩と同期で、私の同僚の教育担当だった。竹野先輩とは一番気が合った。行動力や考え方、スピリチュアルな思考まで、一番影響を受けた先輩だ。
ただ、その一途さゆえに、少し心のバランスを崩し、そのまま退職されてしまった先輩でもある。
「竹野先輩、お元気だったんですか!?」
と、思わず叫ぶ。
「ちゃんと、生きてるよ! 今すぐ、出てらっしゃい。皆んなで同窓会やろう!」
と懐かしい声が返ってきた。
さすがに、会いたいと思う。力を振り絞って、出掛けた。
40分後、
「先輩! お久ぶりです。お元気でしたか?」
と、待っていた先輩たちの輪に飛び込んだ。
「竹野先輩、ちゃんと髪の毛がある。あのまま、出家しちゃうんじゃないかと心配してました!」
「何を抜かすか! そんな軟な女子では、ありませんぞ。今やすっかり、二児の母でありPTA会長を務め、夫の母の介護もこなす、スーパーママさんであります!」
と高らかに宣言する。
「先輩らしい~。前川先輩も、お元気でしたか~?」
思わず先輩の両手を取って、挨拶をした。
「はいはい。元気でしたよ。ずっと旦那について海外にいたから、こっちは私も久し振りなの」
と、相変わらず華やかな空気を振り撒いている。
「そういう牧原さんは、ちょっとやつれたな……。情けないぞ! 一人で頑張って生きてきた女が!」
東先輩がゲキをくれる。事情は分からなくても、神髄は外さない。何でもお見通しだな……。
「何があったか知らないが、あんまり人を心配させるもんじゃない」
そう言うと、ゆっくり後ろを振り向いた。
そこには、谷也さんがいた。
驚きで、思考が停止する。
「連絡をもらったのよ。私にたどり着くまでに、苦労したみたいよ」
東先輩が言う。
「こんなに、必死に探してくれたんだから、牧原さんもちゃんと対応しなさい。逃げていいのは、誰かの命が掛かった時だけ。先輩達だって、あなたのために集まってくれたんだから、踏ん張んなさい!」
と、背中を押された。残りの2人の先輩は、優しい笑顔でうなずいている。胸が熱くなる。
「これから、私達3人は本当に同窓会をするの。あなたのお陰で集まれたんだから、感謝してるわよ」
と前川先輩が言い、
「どうやら、女の一大事らしいから、きちんと選択しなさいよ。後悔しないようにね」
と竹野先輩も応援をくれる。もう、逃げるわけにはいかないらしい。
「皆さん、情けない後輩のために、本当にありがとうございました」
頭を下げ、ゆっくりと谷也さんの元に向かった。
谷也さんも深々と東先輩に頭を下げ、待たせていたタクシーに乗り込んだ。
3人に見送られて、タクシーは出発した。
私は谷也さんの隣に乗り込んだ。前を見ると、助手席に千葉さんがいた。ゆっくり、思考が戻ってくる……。
そうか、今日はリサイタル当日なのだと気が付く。
時計は午後5時30分を回っているのだから、谷也さんがこんなところにいて、いい訳がない! それでも、誰も口を利けずに、演奏会場に到着した。
楽屋まで、千葉さんは付いてくる。
「カリリン、一度だけでいいから、話を聞いてくれないか」
椅子に座り、きちんとこちらを見て、谷也さんが言う。部屋の入り口で立っていた私は、突然、あの光景がフラッシュバックして、足がすくむ。思わず後ずさってしまった。
「逃げないで下さい、花梨さん! 時間が、無い」
千葉さんの声が後ろからしたかと思うと、そのまま前に回り込んで私の両腕を掴んでいた。
「何があったか、私は何も聞いていません。しかし、あなたに連絡が付かないことが、彼にとってどういうことか、分からないんですか!」
冷静な千葉さんが、怒っている……。
「谷也さんは、強い人です。どんなことがあろうと、無責任な結果を残す人ではありません。私がいないくらい、どれ程の問題があるのでしょう」
私は、思わず口にしていた。
「我々は、彼に賭けてるんだ! 歌うことが、どれほど繊細なことか、あなたが一番分かっているでしょうに。もう少し、自分の存在の価値を、自覚して頂きたい!」
「千葉さん」
谷也さんの声で、千葉さんが我に返ったように、私の腕を離してくれた。
「今回の件は、全面的に僕が悪いんです。彼女を責めないでもらえますか」
いつの間にか立ち上がって、千葉さんの後ろに来ていた。肩を掴み、私から離す。
「部屋の外で、待っています」
そう言うと、千葉さんは出て行った。
沈黙が落ちる。
「少し、痩せたね。カリリン」
そっと、谷也さんが私に触れようとした瞬間、私は反射的に後ずさった。
谷也さんの動きが、止まる……。私は、目を見ることもできない。
「あの日、君を待ってたんだ。あの後打ち上げだったから、少し休もうと思って、ソファに横になってた」
思い出したくもない。掌を握り締める。
「誰かが、部屋に入って来たから、てっきり君だと思っていた。あの時……、匂いが、カリリンと同じだったんだ。髪の匂い……。いつもの、カリリンのシャンプーの香り」
驚いて、顔を上げた。谷也さんが、苦痛に顔を歪めている。同時に、橘さんの声が甦った。
――どちらのシャンプーをお使いかしら?
ゾッとした。
私は、そんなやり方で、人を愛したことはない。想像もできなかった。
「じゃあ、『花梨さんじゃないですよって、言った』っていうのは……」
確認せずにはいられない。今度は、谷也さんが驚く。
「彼女は、一言もしゃべってない……」
「そんな……」
本当に、そんな愛し方は、私にはできない……。
「どちらの言うことを信じるかは、カリリンにまかせる」
谷也さんは、私をまっすぐ見つめながら、静かに語った。
「僕は、君を失うわけにはいかない。でも、僕の油断が君を傷つけたんだ。どうやったって、それは取り返しがつかない。だから、待つよ。君が許してくれるまで、待つ……。どうしても、それだけは伝えたかった……」
谷也さんは、外の千葉さんに声を掛け
「じゃ、後は頼みます」
と言って、私を会場に送り出した。
客席に、千葉さんと2人で並んで座った。後から分かるのだが、私が帰ってしまわないように、わざわざ、千葉さんの席まで用意してあったらしい。
会場は、満席である。「連隊の娘」の成功は、谷也さんの人気を不動のものにした。今や、チケット入手困難な音楽家の1人に名を連ねているらしい。
千葉さんが、演奏が始まるまでの間に、私のいなかった時のことを、ポツリポツリと話してくれる。
今回のことに、橘さんが絡んでいることは、すぐに分かったらしい。楽屋で見たという人が何人かいたとのことだ。
彼女は、谷也さんに相当執着していたのだそうだ。主催者である親族に、「連隊の娘」の話を持ち込んだのも、谷也さんと歌いたかったというのが、一番の目的だったらしい。あらゆるコネを使い、谷也さんとの共演の実現に、漕ぎつけたらしかった。
なのに、自分が降板することになり、その感情が、すべて間違った方向に向いてしまったのだと、私は知ることになる。同じ女性として、とても、悲しいと思った。そこまで好きだったのだと思うと、やはり、それは悲しいことだと思った。
谷也さんのリサイタルは、いうままでもなく素晴らしかった。今回の曲は先日のドニゼッティを中心に組まれている。まだ、オペラの本公演が終わって間もないため、役も体に沁みついているし、声にも全く破綻は感じられない。
愛を、歌い続ける。
それが、私にはたまらなかった。1つずつの言葉が、声が、心に刺さる。
本当に、千葉さんがいなければ、逃げ出していたかもしれない。
自分がいかに、谷也さんを愛しているのか、思い知らされることになって……。
何度も続くカーテンコールにこたえて、アンコールが歌われる。私の記憶がまだ確かなら、ロッシーニが歌われるはずである。が、流れてきたのは違うメロディだった。あの、カッチーニのアヴェ・マリア……。
――カッチーニは、いつも君のために歌ってるんだから
両手で、顔を覆って泣き崩れる。嗚咽を漏らさないようにするのが精いっぱいだった。
演奏会が終了しても、立ち上がることができない。千葉さんが、腕をとって立ち上がらせてくれた。
「早く、彼のところへ行ってあげてください。彼が、待ってる」
会場を出て、観客の流れに逆らって、楽屋口に向かう。そこに、谷也さんが待っていた。もう、涙で視界が霞む。やっとの思いで目の前に立った。
「触れても、いい?」
と、谷也さんが優しく聞く。私は、谷也さんの胸に飛び込んだ。谷也さんが、強く、抱き締めてくれた。
「カリリン……。結婚しよう……」
「ちゃんと、式も挙げよう。東先輩達も呼んで、千葉さん達にも参加してもらおう。君は僕のものだって、皆に知らせたい」
「谷也さん……」
「愛してるよ、カリリン」
「私も、愛してる」