ロッシーニの「踊り」
6月だというのに、ヒドイ暑さだ。梅雨はどこに行ったのやら。
谷也さんは今日、北海道から帰ってくる。音楽事務所の千葉さんが同行しているので、送り届けてもらえる。ありがたい。
谷也さんは、デビューCDを引っ提げて、全国ツアーをすることになった。
「カニよりも、チョコがいい」
とおねだりしておいたが、覚えてるかなぁ。
自分のプログラムの仕事をサクサク片付けながら、帰りを待つ。
お昼は、ちらし寿司にお吸い物。谷也さんの好物のヒレカツも付けました。すっかり、夏のメニューです。
「ただいまー。こっちは、蒸し暑いねー」
「おかえり。お疲れ様でした」
この瞬間が、とても好きだ。谷也さんは、とても優しい。だから、纏っている空気も、とても優しい。この家に、その空気が充満していくこの瞬間が、とても好きなのだ。
今日は珍しく花束を1つ持って帰ってきた。ラベンダーが入っていて、とてもいい香りが部屋中に広まる。早速リビングに飾った。
昼食を終えて、谷也さんはベッドに倒れ込んでしまった。疲れている。やはり、同行した方が、楽になるんだろうか……。千葉さんに、遠くの場合は同行を持ち掛けられているのだが、今は谷也さんが断っている。
クーラーをつけているので、加湿器もセットした。ここで喉を傷めては、プロとして失格である。そっと、部屋を出た。
私は沓脱石にあった突っ掛けを履いて庭に出た。これだけ雨が降らないと、植木が焼けてしまう。葉が枯れるのではなく、焼けるのだ。今年も猛暑になると天気予報士がこぞって言っていた。夏の水やりは2回は必要だが、今日はありがたいことに雲がかかっているので、この1回でよさそうだ。
谷也さんのCDに入っていたロッシーニの「踊り」を口ずさむ。本来の4倍くらいのゆっくりしたスピードで。
随分前にこの曲は、私のレパートリーになっていた。20歳の頃だ。もちろん、まだ息の「通り道」が分からなかった時の発声なので、当然歌えたものではなかった。
しかし、当時の先生が、自分のレパートリーを増やすためなのか、私の練習曲としたのだ。1年程、抱え込んでいた記憶がある。今から考えれば、無謀なレッスンだったと分かるが、あのソプラノの先生は元気だろうか……。
テキストなどは、すっかり忘れていると思っていたのだが、久し振りに谷也さんの「踊り」を聞いて、思い出していた。やはり、若いころに身に付けたものは、しっかり記憶に残っているものらしい。
水を撒いたお陰で、少し涼しげな風になった。
アジリタは、息を腹筋でコントロールするものではない。いちいちそんなことをしていては、とても間に合わない。声帯を開閉して、送る息をコントロールするのだ。
声帯の周りの筋肉の準備運動が、必ず必要な発声法である。この曲を口にする時は、自然と準備運動をしている。癖みたいなものである。鼻歌なのにねぇ。我ながらクスッと笑ってしまう。職業病みたいなもんだな……。
吐き出しサッシの所で、谷也さんがこちらを見ていた。起きたらしい。指でクイッと中に誘う。「はーい」と返事をして、ピアノの部屋に戻った。
イケメンらしくなく、寝ぐせのついた髪に、Tシャツ、スエット姿である。ファンの皆さん、お許しを。疲れている時は、皆同じです……。
あれ? 疲れてるはずなのに、谷也さんはピアノに座る。突然「踊り」の前奏を弾き始める。首を傾け側まで行くと、半眼で歌えと訴えている。何ですとー!
実は、谷也さんと暮らして分かったことだが、彼は音にうるさい。音楽家らしく、実にうるさい。
私はお風呂に入りながら、テキトーに鼻歌を歌うことが大好きなのだが、そこに谷也さんのチェックが入るのだ。
「カリリン、調が違う!」
「今の音、ズレてたよ」
「ずっと、ダカーポしてるよ。そこは、ダルセーニョ!」
等々、わざわざお風呂まで覗きに来て、指導していかれる。
えーん、歌えない……。私の楽しみが……。いつも湯船に顔半分までつかって、ぷくぷく文句を言っている。
結局、谷也さんのいない夜だけ、思う存分お風呂での鼻歌ワンマンショーを開催することにしているのだ。
まさか、さっきの鼻歌を聞かれてしまったのか。ふぇ~ん。疲れてるんだから、聞き逃していただいて全然構いませんが!
何故に今更レッスンなどしなくてはならないのか。イヤだと、顔の全ての筋肉を歪めて拒否するが、この人のドSは疲れていると倍増する。
もう一度、前奏の最後の4小節を弾き直し、アゴをくいっとあげて、続けて歌えと目で訴えている。
はぁ~、職人気質の暴君イケメンテノールは、手に負えない! たぶん、彼は半分、まだ寝ている……。
こうなったら、いいわよ。起こしてやる!
moderateのテンポで弾いてくれたので、とりあえずそれで歌い始めるが、この歌はこのテンポでは、実は歌えないのだ。どうするか……。さっき、声帯は準備運動しておいたから、なんとかいけそうか……。
accelをかける。もっと早く! 一瞬、谷也さんの目が驚いて、こちらを見ようとしたが、すぐ楽譜に戻った。さすがにこの程度のスピードには、余裕で合わせてくれる。が、まだ遅い。息が苦しいではないか! 更に、accelする。最初の倍、つまりallegro120bpsくらいに持っていく。テキストは頭に入っている。
「うぉっ!」
と谷也さんが言った。そちらが始めたのだ。知~らない! 更に、スピードを上げる。まぁ、私のアジリタもこれが限界だ。そして、この曲は伴奏も大変難しいのである。
後半に入る。容赦はせず続けるが、フェルマータはちょっと余分にカデンツァを入れて、伴奏を休ませてあげる。ちゃんと待つから、さすがですね。
最後は、4小節のロングトーン。谷也さんが、イヤリングのようなワンフレーズを弾き切り、終わった……。一瞬の間があった。
「カリリン! なんちゅう、隠し玉持ってんの!」
と、中途半端な関西弁が飛んできた。
「てへっ」
とおどけて、少し逃げる。
「まったく、このロッシーニ歌いを前に、よくも僕よりも早いテンポで歌ったな!」
「目が覚めた?」
今日はいつもと立場逆転。くっくっ笑って、更に逃げる。
「真剣に伴奏、弾かされた……」
後ろから捕まえられて、観念する。
そのまま私を抱え込んで
「カリリンの匂いがする。いい匂い」
とソファに倒れ込んだ。甘いキスをされて、思わず
「やっと帰ってきたね」
と目を見て言った。
「早く、会いたかった」
声が揃う。2人で笑ってしまった。
ふと、いい香りに気が付いて、
「そういえばこの花束、どうしたの?」
と、1つだけ持って帰ったお花のことを聞いてみた。
「この間、大きな地震があったでしょ、北海道」
「うん。確か震度7のところもあったね」
「実はね、昨日の北海道の演奏会に、被災者の方が聴きに来てくれたんだよ」
千葉さんによると、「TVCMの曲、とても癒されました。ぜひ、演奏会、聴きに行きます」と、そんなメールを事務所宛にも、もらっていたそうだ。
「楽屋まで花束持ってきてくれて、『カッチーニ聞いて、感動しました』って、カバンから亡くなった妹さんの遺影を出してね、『一緒に聴きました』って……」
地震で目が覚めたら、自分1人が家の外にベッドごと押し出されていた。他の家族は、皆、土砂崩れに呑まれてしまったと語ったそうだ。
「そう……」
「カリリンに、会わせたかった……」
CDまで買って下さったようで、もちろんサインをしたとのこと。写真も一緒にとって、握手をして見送ったそうだ。
「どんな言葉を掛けていいか、分からなかったんだ。カリリンなら、きっとやさしく言葉が掛けられたと思うんだ」
「ううん。掛ける言葉なんて、誰も分からない……。谷也さんの歌で十分だったと思うよ」
「うん……」
「多分、歌を聴きに来てくれるだけでも、すごく力が必要だったと思うから……、谷也さんの声で、心が……、ほんとに少しずつだと思うけど、楽になったんだと思う。谷也さんの歌には、そんな力があるから。これからも、谷也さんの歌で、泣いてもらえるといい。泣いて……、泣いた分だけ、心が休まるといい……」
花を見ながら、そうな風に話した。じっと聞いていた谷也さんが、
「カリリン、やっぱり一緒に来て欲しい」
とまっすぐ見つめて言う。
「思ったんだよ。彼だって、一瞬で妹さんや家族と別れることになったんだ。僕達だって、本当に何があるか分からないでしょ。ずっと一緒にいられるような気になってたけれど、そうじゃないことに気が付いたんだ。少しでも、カリリンと一緒にいたい。同じ景色を見ていたいんだ。そのために、やれることは、やろうと思うんだ」
谷也さんは、一気に言葉にした。
「うん……」
「カリリンの仕事のこともあるから、今まで同行断ってきたんだけど、なんとか調整できないかな」
強い目で、見つめられる。
「分かった。相談してみる。私も、できれば一緒にいたいと思ってたから」
と言えば、満面の笑みになった谷也さんに「ありがとう」と言われた。
色んな景色、見せてください。
「舞台の上から君を見つけられれば、僕は安心なんだ」
その夜ベッドの中で囁かれた。
「カッチーニは、いつも君のために歌ってるんだから」
結局、仕事を退職することにした。その代わり、外注として契約することになった。これならば、こちらの都合で仕事の量を調整できる。急な話ではあったが、東先輩も賛成してくれた。
「今を、一生懸命よくすれば、結果はあとから付いてくるから、頑張んなさい」
と、いつものありがたい励ましと共に。
谷也さんに思い切って頼んでみる。
「あのぉ、一緒に行くことを約束する代わりに、お願いが……。お風呂での鼻歌チェックを、見逃していただけないでしょうか?」
「あぁ、それは無理」
いつもの半眼で即答された。
音楽の神様、どうぞ彼を調伏しちゃって下さい。アーメン。