カッチーニの「アヴェ・マリア」
谷也さんのCDが発売されることになった。音楽事務所といのは、すごいと素直に感動する。ここぞ、という時を逃さない。もちろん、ロッシーニを前面に推し、あと何曲か小曲を入れるらしい。
「この日を待ってたんだから〜」
とハートマークの目で訴えた。
「そう?」
谷也さんは軽く言っているが、今まで何度もお願いしてきたことが叶い、とにかくうれしい。
「だって、聴きたいって思った時に、いつでも聴けるんだよ。こんな幸せなこと、ないでしょ〜」
と身悶えしながら、「今日はシャンパンだ!」と、大急ぎで用意した。
「全部、スタジオで撮るの?」
「う〜ん、チェネレントラや、セヴィリアはオケだからね。いま、会場録音できないか検討中」
「すごい…」
「聴きたいなら、いつでも歌ってあげるのに」
って、こともなげに言うが、それは無理でしょ。
「谷也さんが思っている以上に、私はいつも聴きたがってるんです!」
と本当のことを言っておく。
「14年越しのファンの執念、ナメてもらっちゃ、困ります」
「うわ〜、昭和って怖い」
「ふんっ。自分は、まるで平成みたいな顔して……。はぁ、でもほんとにうれしぃ〜、もう1回乾杯!」
最近は、もうほとんどアルコールを摂らなくなった谷也さんも、優しい顔で何度も乾杯に付き合ってくれた。
昨日の夜は、久々に徹夜に近かった。
在宅勤務になってから、随分時間の縛りが減り、無謀な残業はしなくて済んでいたが、隣のチームにインフルエンザが2人も出てしまったのだ。納期の迫った時だっただけに、全員でのフォロ体制が組まれた。在宅勤務者も例外ではない。
朝の4時頃、なんとか、私の分は仕上げた。後は、知りません。非情と言われようが、これ以上は人のことを構ってはいられない。何せ今日から、谷也さんのレコーディングが始まるのである。せめて、きちんと見送りたい。
「昨日、遅かったんでしょ。よかったのに」
と言いながら、谷也さんが朝食を口にする。
「大丈夫。後でゆっくりするから。今日は、車?」
「ん。千葉さんが迎えに来てくれるって」
千葉さんは、音楽事務所の谷也さん担当のマネージャーさんだ。こちらも、なぜかかなりのイケメンで、谷也さんと2人で歩いてると、変なオーラが辺りを包み込み、すれ違う女子は皆目で追っている。私はちょっと苦手としている。
「千葉さん、苦手?」
「……」
鋭いなぁ、谷也さんは。
「私の人生に、イケメンは1人で十分なんです……」
睡眠不足が頭を曇らせていたのか、ふと心の呟きが声になってしまったらしい。
「プッ、えぇ、そんな理由!?」
谷也さんに吹き出され、ハッと我に返る。
「ひゃっ。今、声になってた……? えーと、正直に申しますと、あのキラキラオーラは、近寄ってはいけない警戒色のようで……」
と降参して、白状しておく。
「分かった、分かった。なるべく、合わなくていいように頑張るよ」
くっくっ笑いながら、薄めた特製「はちみつ生レモンジュース」を飲み干した。
お昼前、電話が入った。
「カリリン、ピアノの上に、封筒あるかな?」
「A4の、茶封筒?」
「そう。悪いんだけど、どうしても今日いるらしい。それ今からスタジオに持ってこられる?」
「……タクシー使うのね。分かった」
私はスタジオに急いだ。
「助かった。休んでたのに、ごめん。よかったら、少し覗いてく?」
谷也さんが、何だか冴えない顔で迎える。
「う〜ん、見たいのは山々なんだけど、迷惑じゃない?」
「大丈夫」
と言って、スタジオに招き入れてくれた。レコーディングエンジニアの皆さんと、今日の伴奏者の須田さんにご挨拶する。ちょうど、休憩中だったようだ。須田さんは、大学時代の先輩で、今はコレペティとして活躍中だ。音楽事務所も、この須田さんに紹介してもらっている。
書類が千葉さんの手に渡り、早速、録音見学である。
結局オケとの録音は、演奏会場ですることになり、今回はピアノ伴奏の歌曲を録音していた。Take3とのことで、時間との関係でこのままにするか悩んでいるらしい。
「さっきから、谷也さんの調子が良くなくてね」
と教えてくれたのは、苦手な千葉さんだ。千葉さんと、コントロールルームで聞いていた。冴えない顔は、このせいでしたか……。
「ん? ちょっと違うかな」
と思う。響く場所でいうと、感覚的には1cmくらいのズレだろうか。ほんのちょっと、小首を傾けた。
「カリリン、分かる?」
突然マイクを通して、ガラスの向こうから谷也さんが聞いてくる。
「Fisかな。ほんのもう少し上の後ろ」
エンジニアさんに教えられ、私もマイクを使って思ったままを口にした。
谷也さんは、もう一度、そこのフレーズを歌い直す。
「あぁ、なるほど。サンキュ」
と言って、その先を続けた。
「そうそう、これこれ。この声でなきゃ。いつもの、谷也さんのキラキラ声。むふっ」
と、ひとりほくそ笑んでいると、何だか視線を感じる……。ギョッとした顔で、皆に見られていた。
「ちょっ、今ので、何この変わり方! さっきまで、あんなに苦労してたのに……」
エンジニアの面々が、囁いている。
「えっ、何ですか!?」
こっちがビックリする。ひそひそ声で、千葉さんに聞くが、千葉さんも谷也さんの声を聴きつつ、片手で口を覆いながらこっちを凝視している。
だから、苦手なんだってば、そのキラキラオーラ。じっと見ないで欲しい。
無事にTake5まで終わり、次の曲に移る前に、谷也さんと須田さんが打ち合わせをしている。
千葉さんが聞いてくる。
「谷也さんから聞いてはいたんですが、カリリンさんも歌を歌われるんですよね?」
「カリリン」は、勘弁して欲しいが、言い出せない。この歳では、恥ずかしい。そういえば、さっき皆に聞かれたか……。
「えっと、ほんの趣味で」
「で、さっきのアドバイスですか?」
「その前の声でも、充分よかったのですが、あのままでいくと、あの後のフレーズがきっと少し歌いづらくなると思ったので。響きがほんのちょっと、繋がらないかなと……。すみません。素人がでしゃばってしまって……」
シュンである。
「いや、正直ビックリしまして。我々では、何が悪いのかさっぱり分からず、このままでもいいんじゃないかと言っていたのですが、あなたのアドバイスの後の声が、あまりに素晴らしかったので、あぁ、こんなに違うものなのかと……」
「綺麗ですよね、谷也さんの声。大好きなんです」
我慢しきれず、自分のことでもないのに、自慢した。ふふっ。ちょっと、あきれられたかもと思いながらも、ニタニタ顔が止められない。もう少し、自制心をもって、大人の顔をしろ! と思うのだが、今日は寝不足なのだ……。許してほしい。
「これは、参りましたね……。よかったら、最後まで聞いていって下さい」
と言ってもらい、素直にお礼を言った。が、打ち合わせの時間が長引いて、待っている間に少し眠くなってきた。ちょっとだけ、私もこの場所に慣れてきたらしい……。
「次の曲、こっちに変えてもらえますか?」
谷也さんの声が、遠くでしたような……。
あぁ、カッチーニのアヴェ・マリアだ。大好きな曲。しかも、谷也さんの一番優しくてやわらかい響きの場所が、ずっとロングトーンで続く。泣きそう……。
「カリリン、起きて」
谷也さんにそっと起こされた。何故だか、頬を指でそっと拭われていた。
「……やだ。寝てたの、私?」
焦る。しかも、泣いていたらしい。
「15分くらいだよ。疲れてるでしょ。徹夜だったもんね」
と、すごく優しいのですが……。
「あと、2時間くらいはかかるから、先に帰っていいよ」
「ごめんない。邪魔しちゃって」
またもや、シュンである。
「違う。カリリンが来てくれて、本当にいい録音になったから。ありがと」
う~ん、何だかわかりませんが、すみませんでした。
帰ろうとすると、エンジニアさんから声を掛けられる。
「カリリンさん、次も来られますか?」
「そう、ぜひ来てくださいね。カリリンさんいると、僕ら仕事が早くて助かります」
と別の人も言う。……、えーっと、何故に? しかも、皆がカリリンと呼ぶ……。
「彼女のことは『花梨さん』で、お願いします」
谷也さんがビシッと宣言する。
「えっ、ダメですか? さっき、谷也さんそう呼んで……」
「それは、僕だけですので! 皆さんは『花梨さん』で」
と、途中で遮ってまで決然と言い放つ。
「すみません……」
と私が眉を下げ、頭を下げたところで、スタジオの皆が揃って笑顔になった。
「では、花梨さん。次も、ぜひ来てくださいね。お疲れ様でした」
と送り出された。
「そこまで、送ります」
千葉さんが、スタジオから出てきた。
「何だか皆さんに気を使わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
改めてお詫びをする。
「いや、皆あれは本心で言ってます」
「最初のアドバイスも助かりましたが、実はカッチーニどうするか、悩んでたんですよ。本人が入れたいとは言ってたんですが、ロッシーニとは、あまりに色合いが違うので、このCDにはふさわしくないかと……」
なるほど~。
「でも、さっき彼が歌い出したのを聞いて、皆で無言で顔を見合わせました。全然、ロッシーニと違う表情の声で歌われて……。彼の視線を追ってよく見たら、花梨さんがウトウトしていてね。あぁ、これを見たから、彼はあの曲を歌い出したんだなと気が付きまして……。もう、他のTakeはいらないと思えるほどの出来でしたが、念のために続けて、もう1Take取りました。あれなら、十分でしょう」
更にこちらを見ながら、千葉さんは続ける。
「彼は、あなたのために歌っていたと、思いますよ」
思わず、赤面する。そして、胃の辺りから、じんわりと温かいものが広がっていった。
「大好き、なんです。谷也さんのカッチーニ。1度、お願いして歌ってもらったことがあって……。谷也さんの中の一番温かい響きで歌ってくれて、子守歌みたいって言ったんです。包まれているみたいって……」
「愛に、ですか?」
千葉さんは、私が言い淀んでいた言葉を、恥ずかしげもなく続けた。目を瞠ってしまう。
「やはりね」
と言われ、耳まで赤くなるのが分かった。
「いや、聴いていて、皆分かったと思います。あれは、そういう歌でした。必ず今回のCDに入れますよ」
と約束してくれた。
谷也さんのデビューCDは、あっという間に重刷された。1万枚売れれば大ヒットと言われるクラシック界で、それを優に超え、まだ売れているのである。
もちろん、ロッシーニが高く評価され、イケメンジャケットも大いに女性の買い手を増やしたのだが、あのカッチーニが随分高評価で、TVCMで使用されたのが、一番大きい要因となった。
「カリリンの念願、叶った?」
「うん、これでいつでも谷也さんの声で寝られる~」
私が大喜びしたのは、言うまでもない。
「まぁ、カリリンは僕の歌がなくても、よく寝てるけどねぇ……」
谷也さんのドS発言にも磨きがかかっている。