カヴァレリア・ルスティカーナの「間奏曲」
谷也さんの存在が、あっという間にクラシック界に駆け巡った。
「日本にも、ロッシーニ歌いが彗星のごとく誕生した」
その一言一言が、ハッシュタグとなって。
これほどまでに、新しい才能を世界が求めていたのかと、驚きと喜びをもって知ることになった。
谷也さんにオファーが、殺到する。もちろん、ロッシーニの要請だ。
とても、個人では対応が難しくなり、音楽事務所に所属することとなった。これで、随分谷也さんの仕事は減ったはずだ。歌に専念できる。
あとは、どの仕事を選び、どうやって今の声を保ちながら次に進むべきか、あらゆる選択の連続になった。
谷也さんは今年で36歳である。ロッシーニのデビューにしては、遅い。つまり、スポーツ選手で言うところの選手生命を、皆危ぶんでいるのである。その「声」を、誰もが大切にして欲しいと望んでおり、コメントもそんなメッセージばかりだった。それは、本人も十分理解していた。
「ヴェルディを断っておいて、よかった」
今更のように谷也さんが言う。本当にそう思う。
「谷也さんの思う通りで、きっと間違ってないよ」
私では力になれないと分かりつつも、そんな風に答えた。
「ん」
とワインを飲みながら、小さく微笑んでいる。
今日は久しぶりのディナーデートである。何日ぶりに、正面から谷也さんの顔を見たのだろう。
「少し、痩せた?」
と聞くと、
「カリリンは相変わらず?」
とドS顔で言い放つ。ごまかしている……。
「ん〜! 私も痩せたので、そちらのデザートも、寄越しなさい!」
「カリリンのとこだけ、重力が変わったの?」
と追い込んでくるので、
「そう! 月と同じくらいにね!」
と返しておいた。負けないぞオーラを出しておく。
「おっ」と、顔で答えて、ちゃんとデザートをくれる。谷也さん、疲れが隠し切れない。
「先週の大阪の演奏会、どうだった。高橋さんのリサイタル」
「喜んでもらったよ。元々、僕はモーツァルトだけの賛助だったから、アンコールでロッシーニ」
「チェネレントラ?」
私は一瞬、不安になる。
「うん、後半だけね」
「よかった……」
安心した。あの1曲をフルは、ステージ最後のアンコールでは少しきつい。
「大丈夫」
こっちを向いて笑っている。相変わらず、私の不安をちゃんと分かっている。
「そういえば、高橋さんに『カリリンさん、元気?』って言われたんだけど、何でその呼び方知ってるのかなぁ? 目が点になった……」
と、私に聞かれても……。
「えーと、高橋さんにはバレてます。私達のこと。ヴェルレクの時」
谷也さんは一瞬驚いたが、
「だから、『大切にしさないよ』って、言われたのか……」
と、納得顔でおっしゃった。こちらの顔が赤くなる。
「大切にしてるよねぇ、僕」
と茶化したそうだったが、
「はい、とても」
と真顔で答えた。ちょっとテレた谷也さんは、ぽりぽり頭をかいていたが、「早く、帰ろ」と言い出す。
「疲れてるみたいだから、私自分の家に帰るね。ここからなら、歩いて駅までいけるし」
と申し出る。
「ダメ。絶対ダメ。帰っちゃダメ」
……子供か! 君は。
「さっき、デザートあげたでしょ」
とまで言い出す。どうせ、甘いもの食べないくせに、と思うが、もう少し一緒にいたいのは同じだけど……。
「だって、疲れて……」
「いいの!」
と、無理やりタクシーに乗せられた。
家に着くなり、玄関で苦しいほどのキスをされる。
「どれだけ、会いたかったと思ってる」
お怒りモードだ。そのまま、雪崩れ込むようにベッドに連れていかれた。
夜中、目を覚ました。谷也さんを起こさないように、そっとベッドを出る。まだ、真っ暗の中で自由に歩けるほど、谷也さんの家には慣れていない。スマホをライト代わりに、手に持った。
グランドピアノのある部屋の、掃き出しから明かりが差し込んでいた。カーテンをそっと開ける。満月だ。柔らかい光が辺りを包んでいた。サッシを開けると、どこからか沈丁花の香りが漂ってくる。ご近所さんかな。
そのまま、そこに座り込む。スマホから「カヴァレリア・ルスティカーナ」を選んで、小さな音で聴き始めた。
「寝られないの?」
と後ろから、声がした。
「ごめんなさい。起こしちゃった?」
「大丈夫」と言う代わりに、私の頭をくしゃくしゃする。
「カヴァレリアだね」
「うん……。このお家からは、月がこんなに綺麗に見えるのねぇ」
1枚大きな毛布を持ってきてくれて、2人で一緒にくるまった。
「カリリンの家からでも、見えるでしょ」
「街灯とか、看板の電飾とか、高い建物もあって、こんなに綺麗には見えない」
「そっかぁ。気が付かなかったなぁ」
ずっと「カヴァレリア」が流れている。オペラがメドレーになっているバージョンだ……。
「5年前……。谷也さんが、ヘルプで入った合唱団が「カヴァレリア」歌ったの、覚えてる?」
「あぁ、そんなことあったなぁ。アルフレードも歌ったかな。聴きに来てくれたよね」
「うん」
久し振りに会った時だ。まだ、音楽仲間だった。
「あの日ね……。彼が亡くなってから百日目で、卒哭の日だったの……」
谷也さんが、一瞬ひるむ。
「卒哭ってね、慟哭から卒業する日っていう意味なの……」
「カリリン……」
谷也さんが、ゆっくり私の手を握ってくれる。恋人繋ぎだ。
「聞くの、辛い? 辛いなら……」
「いや。話してくれるなら、聞く」
待ってくれてたんだよね……。ありがとう。
「彼が亡くなって、私どうやって過ごしていたのか、あんまり記憶がなくて……。なんにもする気が起きなかったのだけは、何となく覚えてるんだけど。だから、演奏会も行けるかどうか、自信がなかったの。でも、谷也さんソロ歌うって言ってたし、行かなきゃって思ってて……」
「うん……」
「だから、当日券で入って」
ゆっくり、息を吐く。
「それまでね、何となく、彼が傍にいるような気がしてて。何が、どうってわけじゃなかったんだけど。信じられないかもしれないけど……」
「信じるよ」
スマホからは、復活祭の合唱が流れ出した。死から復活したイエスが、天に昇天していく音楽である。
「この合唱が始まったら、突然涙が止まらなくなって……」
あの時の感情が甦る。息が詰まる。
「ふいにね、あぁ、今彼が旅立ったんだなって、分かったの……。私の傍から、いなくなったって……。逝っちゃったって……」
泣いてはいけないと、必死に我慢する。
「あんまり私が泣いてばっかりいるから、心配で傍を離れられなかったんだなぁって……。いつまでも、こっちにいちゃ、いけないのにね……」
とうとう、涙が溢れてしまった。
「ごめん……」
涙を見られたくなくて、思わず手を離そうとしたら、谷也さんが強く握り直して、離してくれなかった……。
こんな話、谷也さんにしてはいけない。ましてや、泣いてはいけない。5年も経ったのだ。もう、少しは大丈夫かと思っていた。やっぱり、無理なんだ……。
「忘れ……られないと、思う……」
気が付いたら、曲が「間奏曲」に変わっていた。
それは、この悲劇のオペラとはかけ離れた、全てを癒し、許す、天上の音楽。マスカーニの代表的な1曲だ。
谷也さんは、黙って聞いている。ただ、手を繋いで。
「それでも、いいの?」
こんなことも、本当は聞いちゃいけないのに……。でも、聞かないと、先には進めない。
「忘れなくて、いいよ。それも全部、カリリンだから……」
もう一度、手に力をこめて握った。
「それに……、カリリンを失うより、よっぽどいい……。ヴェルレクの時、分かったよ」
こっちを向いて、にっこり笑って言った。
――カリリン、誰かが亡くなったんだね、目の前で
――彼、へたり込んだのよ、その場に
――君を失うかもしれないと、怖かった
あぁ、あの時……。もう谷也さんの中では、答えが出ていたの……?
嗚咽が、漏れた。谷也さんは、ただ黙って私が泣き止むまで待ってくれた。
「もう、人を好きになるのは止めようと思ってたの。もう、失うのはやだなって思って。始めなければ、終わらない……。だから、谷也さんとも『仲間』でいるつもりだった……」
「分かってたよ……。だから、僕が始めたんだ」
――大丈夫です。今は、僕が愛してますから
――まだ、逃げる気
「一緒に暮らそうって言ってもらって、本当に嬉しかったの」
繋いだままの手に、谷也さんがキスをする。
「ちゃんと、悠斗のことも話さないといけないと思って……」
「彼の名前、悠斗さんなんだね……。どれだけ、一緒にいたの?」
「9年……、最後の1年は病気で、ガンだったの……」
「そう……」
「だけど、ロッシーニでこんなことになって……。分かってたんだけど。谷也さんのロッシーニ、1度聴けばどうなるか……。きっと、これから谷也さんは世界に出ていくことになる」
きっと、そうなる。
「そしたら私……、足手まといになる。それは、イヤなの……」
「もう、一緒にはいられない……」
ゆっくり、谷也さんがこっちを見た。
「ずっと、声を聴いていたかっただけなのに……。どうして、こんなに好きになっちゃったんだろう……」
また、ひとりになる。慣れるまでには、また時間がかかる。顔が苦痛に耐えられなくて、歪む。
じっと聞いてくれていた谷也さんの顔が、笑顔で崩れる。
「信用ないなぁ、僕。結構これでも、一途なんだけどな……」
と言って、私の両手を握り直す。
「ずっと、この手は離さないって、言ってきたでしょ」
――そんなこと言われたら、手が離せなくなるよ
――この手は、離さない。絶対
――どんなに、醜くても、君の傍にいる
あぁ、そうだった。ずっと、そうだった。
「待ってていいの……、この家で。谷也さんが帰ってくるの……」
「カリリンのいるところに、必ず帰ってくるよ」
と、抱き締めてくれた。もう、ダメだ。悠斗……。もう少し、この人の傍にいたい。
谷也さんは子供をあやすように、いつまでも抱いていてくれた。泣き止むまで。
1週間後。
「うちの両親が来るっていうんだけど、今日来られる?」
谷也さんから電話があり、慌ててやってきた。
「ごめんね。突然で」
という谷也さんに、
「ううん、ちゃんとお話がしたいと頼んだのは私だから」
とお礼を言う。
その日の午後、谷也さんのご両親とお兄さんがやってきた。車での送迎を、お兄さんがしてくださるようだ。
意外にもバリトン声のお父さんと、イケメン谷也さんにそっくりな綺麗なお母さん、公認会計士を絵にしたようなお兄さんとご挨拶をする。
「はじめまして。修二さんとお付き合いさせていただいております、牧原花梨と申します」
「あら、声が何だか修ちゃんと、似てない?」
驚くようなことを言うお母さんである。
「いやいや、男と女なんだから、1オクターブは違うから」
と笑いつつ、でも「鋭いな」という顔をしている谷也さん。えっ、そうなのか?
「修ちゃん、巨峰持ってきたから、生ジュース作って。好物でしょ」
と何やら含みのある言い方をする。
「え〜!」
といぶかる谷也さんを、台所に押し込めてしまった。
谷也さんは行く前に「大丈夫?」と顔で聞いてきたが、「大丈夫」と笑顔で答えておいた。私と話がしたいのだと分かるので……。
「どうしても、一緒に住ませていただく前に、お話をさせていただきたくて、ご無理を申しました。こちらから、お伺いするつもりだったんですが」
改めて私は頭を下げた。
「いいの、いいの。出掛けるついでだから」
と気さくなお母さんである。
「こちらのお家は、皆様にとっては、沢山思い出の詰まったご実家だと思いまして…。ご承諾いただけなければ住めないと、修二さんにはお伝えしました」
と、私の気にしていたことを話す。
「いえ。気になさることはありません。私たちの家は、今のマンションですから。仏壇も移してありますし、もう、家に縛られる時代ではありませんよ」
と、ゆったりとお父さんが言って下さる。
「そうですよ。修ちゃんひとりじゃ、どんどん荒れていって、そのことの方が心配だったんだから、ねぇ」
「そうです。必要なものは、それぞれ全部、今の家に持って行ってますから。ここに残っているものは、どう処分してもらってもかまわないくらいです」
と、お兄さんが言う。
「いえ、処分だなんて、とんでもない。ただ、お祖父様のレコードは、私も聴かせていただけたらなぁと思っておりました」
とお願いしてみると
「どうぞ、どうぞ。その方が義父も喜びます」
とお母さんがおっしゃる。
「これで、家のことは終わりね」
あっけらかんとお母さんが次の話題に移る。
私の悩みは、皆さんの優しさによって、杞憂に終わったらしい。ただし、どうやら、次の話題の方が本題っぽい。
「ところで、牧原さんはいつ修ちゃんとお会いになったの?」
「初めてお会いしたのは、14年程前でしょうか……。谷也さんのロッシーニを聞いて、一方的にファンになったんです。それから少ししてから、TM合唱団で何度かご一緒して」
「あら、随分前なのね。だから、あの子『僕の声のことを、一番知ってる人』って言ってたのね」
私は逆に驚く。そんな風に思ってくれてたんだ。
「ってことは、牧原さんも歌を歌われるのね?」
「ええ、でもほんの趣味です」
「いや、TM合唱団ってことは、オーディションに受かってるんだから、趣味だけではないな」
ボソッとお父さんが言う。
「あら、そうなの。だから、修ちゃんのお気に入りなのね!」
さらりというあたり、谷也さんは、間違いなくお母さん似だ。
「それにしても、そんな前からあいつはロッシーニを歌っていたんですか?」
逆にお父さんに質問された。
「はい、私も結局1回しか聴けなかったんですが、それは見事なロッシーニでした。あの声で、あんな風に歌える人は、今どこにもいないんじゃないかと、あの時思ったくらいです。その後も、いつ歌うことがあるのか分からないのに、ずっと訓練は欠かさずに、あの均整のとれた声を保ち続けてこられました。本当に地道に努力を重ねられてきたんです。今の修二さんは、彗星のごとくなどではなく、成るべくして成ったのだと、私は思ってます」
「なるほど……」
お父さんは、感慨深げに頷いた。そして、お母さんの方を向き、ニッコリと笑いながら、更に付け足した。
「お気に入りだな」
だそうだ。
「僕は歌のことはよく分かりませんが……」
今度はお兄さんも話に加わる。
「あいつ、顔はいいから、結構女の子にはモテたんだけど、性格ひねくれてるからなぁ。みんな離れてっちゃうんだけど、大丈夫ですか?」
これまた何気に気になることをおっしゃるので、私も思わず笑ってしまった。
「はい。なんとか反撃できるように、鋭意精進中です」
と返せば、驚いたお兄さんが
「こりゃ、ほんとにお気に入りだな」
と笑う。う〜ん、この家族は手強い。が、とても仲のいい素敵な家族だと分かる。
「もう1つだけ」
と姿勢を正して、私が1番気にしていることを話す。
「どうしても、これも、お考えいただかなければと…。まだ修二さんにはお話ししてないのですが、ご両親が納得されなければ、これ以上お付き合いしていてはいけないと思っています」
深呼吸をひとつして、続けた。
「私、今年で39歳になります。年齢的に、もう子供は望めないと思うのです。本当に、私はそれが1番気になっていました。修二さんは、私でなければ、あきらめる必要はありません。ちゃんと、反対なら、修二さんにお伝えいただきたいのです。わたしでは、修二さんを説得するのは、きっと難しい……」
沈黙が落ちる。奥歯を、噛みしめていた。言葉にすると、こんなに辛いのか。
「それも、修ちゃんから聞いてましたよ。あの子は、『今の僕にとっては、何よりあなたが必要だから、父さんや母さんには申し訳ないけど、孫は増やせない』って。『でも、あなたじゃなきゃ、僕は幸せになれないから、それをどんなことの理由にも、しないで欲しい』って」
「……」
「だからもう、そんなに苦しまないでね」
お母さんもお父さんも優しく微笑んでいた。
「うちの家には子供が3人もいてね。孫はそれで、充分です」
お兄さんまで言ってくれた。
ビックリして、言葉にならなかった。谷也さんが、そこまで全部考えてくれていたのだと思うと、感情が抑え切れない。
「ありがとうございます」
両手を付いて頭を下げた。声の、震えが止められなかった。
スロージューサーの音は、とっくに止まっていた。きっと彼は今、じっと待っている。食器棚に背を預けて、立ったまま腕を組んで、じっと待っている。手に取るように分かった。自然に、言葉になっていた。
「修二さんを、迎えに行ってもいいでしょうか?」
3人の笑顔が弾けたかと思ったら、
「ええ、そうしてあげて。きっと、待ちくたびれてるわね」
とお母さんは優しく許して下さる顔をして、
「あの子を、お願いします」
とおっしゃった。
「はい」
と答えて、台所に駆け込む。
谷也さんは、想像した通りの立ち姿で、呼びにきた私を驚きで迎える。思わず我慢が出来ず涙が溢れてしまった私は、谷也さんの胸に顔をうずめてしまった。「ありがとう」とだけしか、言葉にできなかった。
私の頭を撫でながら、谷也さんは言う。
「なんでもないよ。カリリンが悲しむ顔を見たくないだけ」
「ありがとう」
私はもう一度、繰り返した。
「さぁ、このジュースおいしいんだよ。カリリンも一緒に飲もう」
と言って、皆のいる部屋に運んだ。