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ラミーロ王子

 私の仕事は、ソフト開発のエンジニアである。いわゆるプログラマーであるが、SEにはならずにいる。会社では、かなりわがままな態度ではあるが、音楽活動をするためには、これが必須条件なのだ。

 SEになってしまうと、膨大な残業に飲み込まれ、自分の時間を確保するなど、とても無理なのである。

 しかも案外知られていないが、プログラムの世界は日進月歩なので、どんなにキャリアが長くても、常に勉強をし続け、新しい言語を習得していく必要があるのだ。それだけでも、通常勤務だけでは終わらない自己努力の塊で、自分の自由な時間を制限され続けるのである。

 その上、何人かのプログラマーを従え、システム開発の責任者になるなんてことは、「仕事人間一筋」の烙印を、自ら押すことになる。会社はそれを当然の様に求めてきたが、断り続けて来た。

 代わりに、昇進・昇級はあきらめ、肩書も後輩にどんどん抜かされていき、後輩SEの下で働き続けている。まぁ、彼らは彼らで、年上の私は使いづらいとは思うのだが、そこはビジネスとしてお互い割り切っていた。


 歌が歌っていたかった。ただそれだけである。そこに後悔はない。


 私のアパートは、谷也さんの家から車で、首都高を使って1時間以上かかる。公共交通機関でも、駅から駅で1時間以上かかる。会社は、私の家と谷也さんの家の中間辺りにあるのだが、私のアパートは、通勤のことを考えて選んだので、駅に割と近いのだが、谷也さんの家は、駅から遠いのだ。下手をすると、朝の通勤で、2時間近くかかる可能性がある。む、無理だ……。つらつらと考えながら、今日も仕事に向かっている。


 あの日、谷也さんが「一緒に暮らそう」と言ってくれたことは、私にとっては晴天の霹靂だった。考えてもいなかったといっていい。あとから、とてつもなく幸せな気持ちに満たされたのだが、その時は、とっさに言葉も出なかった。

「ちゃんと、考えて欲しい」と言われ、あの日はとにかく帰ったのだが、どうにも返事に困っていた。

 週末だけ通ってはダメなのか、いや、どんどん忙しくなる谷也さんにとっては、その方が逆に落ち着かないかもしれないし、第一、彼が望んでいるのは、それではダメな気もするし……。と、堂々巡りである。


 東先輩と久しぶりに会社で会った。東先輩は、1年上の先輩で、新入社員の時の、私の教育担当だった先輩である。優しくて、家庭的な女性なので、5年もしない内に結婚退職された。その後、お子さんが私学の中高大一貫校に入学されたのを期に、職場復帰されたのである。

 とにかく、エンジニアの世界は人手が絶望的に足りない。だから、かなりのブランクがある人でも、会社は直ぐに採用してくれる。ましてや、元正社員となれば尚更である。

 また、古い言語を分かっている先輩には、その時代のプログラムのメンテナンスや、新しい言語へのリニューアルも容易になり、ニッチな需要で重宝されるのである。ただし、待遇は本人の希望で、契約社員扱いになっている。1番の理由は、やはり残業時間だ。お子さんの手が少し離れた年齢になったとはいえ、やはり正社員の様には働けないからとのことらしい。


「おはようございます、先輩。珍しいですね。会社にいらっしゃるの」

 現在先輩は、クライアント先に直行直帰しているはずだ。大きなシステム開発の場合、プロジェクトを組んで、その会社の一室に、しばらく常駐させてもらうのである。

「ちょっと、総務との手続きがあって、クライアントには午後から行くことになってるの」

 とのこと。

「それよりさ、なんだかさっき、ボーッとしてなかった?」

 と、さすがに鋭い先輩である。

「人生の岐路って、やつです」

 冗談めかして言ってみるが、きっぱりと切り込んでくる。

「なに、結婚? 牧原さんにも、とうとう春が来たかー!?」

「いえいえ、そこまで大げさなことではありませんが……。先輩、今通勤、どれくらいかかってます?」

「1時間くらいかな。なに、引っ越すの? 人生の岐路って、立ち退き?」

 いや、話が飛び過ぎです、先輩。

「立ち退きではないのですが、もしかしたらの引っ越し先が、2時間弱かかるところかもしれないんです……」

「それは無理。続かないよ」

 即答である。

「よくさー、通勤時間2時間です! って、自慢気に言う人いるでしょ〜。あれ、ほぼ間違いなく男性。食事の用意も、洗濯もお風呂の掃除も、毎日やらない男性専用のセリフ。会社行って、帰ってきて寝るだけの人。なんだかんだいったって、結局女に家事は回ってくるわけよ。「その人」のこと大事なら、絶対しちゃいけない選択だよ」

 すっかりこっちの事情をのみ込んでいる。さすがです……。

「いっそ、在宅勤務の申請してみたら。年収は減るけど、家賃や光熱費なんか、かなり減るんじゃないの?」

「先輩……」

 うるうるしてしまう。ナイスなアドバイスです!

「そういえばそんなシステム、うちの会社にありましたね……」

 ソフト開発の会社は、ブラック企業の総元締めに近いが、それゆえに自由なことも多々あるのだ。自分には全く縁がないと思っていたので、視野の外だった。

「ありがとうございます!調べてみます。先輩、やっぱり神様です!」

 両手を掴んでお礼を言うと、

「可愛い後輩には、幸せになってもらわないとね。ちょっと、スタート遅いぐらいだよ」

 とあしらわれ、でも「がんばれ! なんでも2人なら、何とかなるよ」と勇気をくれた。


 実際に検討してみると、案外上手くいくように思えてきた。今までSEをしてこなかったことが、返って功を奏したようで、プロジェクトを抱え込んでないので、身動きが楽にできそうなのだ。

 よかった……。これで、少し前進したよ、谷也さん。


 次の問題は「家」である。谷也さんの家は、谷也家にとっては大事な「実家」といえる。今までずっと、家族の思い出を刻んできた家なのだ。そこに、他人が勝手に入ってもいいものか。その点も、私にとっては大きなハードルになっていた。


 今期、最も大切なコンサートの1つ、歌劇団の定期ガラコンサートの日になっていた。毎年行われる恒例のコンサートなので、出演は1年前から決まっていた。谷也さんが、しっかり準備していたのは知っている。

 ガラでは、歌劇団所属のトップ歌手が集うことになるため、自然に観客は聴き比べることになる。これが、リサイタルとの最大の違いであり、ごまかしの効かない勝負になってしまうのだ。


 人は1つの音を聴いていると、耳が慣れる。それが下手な音だろうが、慣れてしまえば、「こんなものかな」と、案外聞き続けられるようになる。ある意味、人間の凄い能力だと私は思っている。相手に合わせられるということだ。

 しかしガラの場合、1曲ずつ人が入れ替わるので、その時点で耳がリセットされてしまい、実にしっかりと、上手い下手の区別がついてしまうのだ。比較する対象があるというのは恐ろしい。


 その場合、出演する順番が全てを語ることになる。もちろん、実力者が後になるのである。要は、上手い人の後には、下手な人は歌えないということだ。

 今回、谷也さんの出番は、男性の中では最後から2番目という、最近活躍しだした谷也さんにとっては、大抜擢な順番になっていた。しかも、ソロである。なにせ、出演者が多いため、2重唱や3重唱にして、なるべく多くの人を舞台に乗せたいという、主催者側の意図なのだが、その中でソロなのである。いかに、注目されているか分かる。


 谷也さんはそこで、ロッシーニを歌うという。最初はモーツァルトの予定だった。もちろん、ボイトレとも相談し、主催者や指揮者に了解は得ている。曲によっては、使用する楽器の編成にも関わってくるため、確認は必要なのだ。周りとの調和も大切なのである。

 しかし、ロッシーニは舞台での実績がない。それを、ガラにぶつけるというのは、どんな気持ちなのだろう。想像すらできない。谷也さんにとって、勝負の舞台になることは、多分間違いない。


 とにかく、今は私のことは、頭から追い出しておくべきである。だから、こちらからは連絡を取らない。そして、今回ばかりは、谷也さんからも連絡がないまま、当日を迎えた。

 開場と同時に、席に着く。指定席のため、急がなくてもいいのだが、最近私が座る場所を、谷也さんが確認するようになったため、なるべく早く席に着くようにしているのだ。今回のチケットは、谷也さんが用意してくれたので、場所は分かっているはずだ。

 きっと、舞台下手入り口のドアの覗き窓から、私の姿を確認しているはずである。少しでも、ほんの小さなことでも、不安はなくしておきたい。楽屋に入ると、携帯は切ってしまう。ちゃんと、到着したことを知らせておきたかった。


 今日は私も正装に近い。ひざ丈のフォーマルドレスを着こみ、ロングネックレスを身に着ける。こんなに大事なコンサートは、こちらも心が折れないように武装する必要があるのだ。

 女性の場合、衣装は大きな武器になる。それぐらい、私も緊張していた。谷也さんのロッシーニの凄さは、分かっている。それでも、胃が痛くなってきた。まるで、自分が出演するかのようだ。谷也さんが舞台に上がるまで、まだたっぷり2時間はある。耐えられるのか、私。自信がなくなってきた。深呼吸を繰り返した。


「ラ・チェネレントラ」のラミーロ王子。「シンデレラ」の王子様役である。といっても、我々が知る童話「シンデレラ」とは、内容が随分違う。魔法が登場しない。なので、ガラスの靴もカボチャの馬車も登場しない。

 しかし、意地悪な姉2人にいじめられているシンデレラ(チェネレントラ)が、王子様と恋に落ち、王子様が彼女を探し出すという大筋は同じである。ガラスの靴の代わりに、腕輪が決め手になる。


 谷也さんが歌うのは、シンデレラを探しに行くときに、王子が「必ず探し出す」と皆に宣言するアリアだ。

 最後に2点Cのロングトーンで締めくくられる。


 よく、フィギアスケートを見ていると、4回転が上手くいくのか、アクセルは転ばないか、皆手に汗を握って見ているが、テノールの歌唱もそれに近い。しかも、完璧が当たり前なのだ。

 しかし、失敗も実際にある。声が裏返ったり、音程が届かなかったり。テノールではないが、かのマリア・カラスですら、本番の舞台上で失敗した場所を、歌い直したという逸話もある。


 1部のステージが終わる。休憩になり、私もホワイエに寄りコーヒーを飲む。手が冷たくなっている。大丈夫、きっと上手くいく。静かに祈る。私たちのこの想いは、エネルギーとなって必ず舞台上の本人に届く。そう! きっと上手くいく!


 谷也さんの登場だ……。あちこちで、若い女性が今までと違う拍手を送っている。燕尾服に白タイ。舞台衣装を着けなくても、王子様姿は完璧です。


 トランペットのファンファーレが鳴る。声が、響きが、綺麗にハマっている。大丈夫!

 それにしても、あらためて、なんてキラキラした響きなのか。滑らかにアジリタを掛け登る。誰でもできそうに思えるほど、簡単そうに聴こえる。これが、本物!

 そして、もう一つジラーレし「C」。アクートの張りのある、とんでもなく美しい声! 全く苦しさを感じない。

 オケが合唱部をかき鳴らす。何度も同じ言葉とアジリタが繰り返される。もっと聴きたい。まだ聴きたい。そしてもう一度、あの「C」を! 期待の上をいく声だ!

 チェネレントラの腕輪を胸に、「必ず見つける」「愛が導いてくれる」と、歌い上げる。そのまま続く強い響き。最後の声が、オケを引き裂くように響いた!


 一瞬静まり返った会場が、次の瞬間、割れたかのようなブラボーコールに包まれる。拍手が止まらない。次の出演者が出てこられない。こんなことは、ガラではあってはならない。何度もお辞儀をする谷也さん。スタンディングオベーションしている人達までいる。ブラボーコールの中、指揮者も次の曲が始められない。


 あぁ、本当にこれが谷也さんのロッシーニ! 昔聴いた、あのロッシーニの何倍も綺麗に、強く、洗練されたロッシーニ! どれ程訓練して、あのアクートを掴んだのか。ここまで、一度もオファーがなくとも、ただただ練習を重ねてきたのか。涙が止まらなかった。心臓が弾けそうだ。


 谷也さんが、一度だけ小さくガッツポーズをした。私に、向かって! 満面の笑みで! その笑顔は、一生忘れない。本当に、すごい! おめでとう!!


 全ての演奏が終わった。私は、急いで楽屋に向かう。人混みを割き、少しでも早くと楽屋に向かう。

 この1分が長い。この1秒が惜しい。やっと、会場を出てすぐの、楽屋入り口まで到着する。扉を開けて、中に入ると、もうすでに関係者でごった返していた。

 早く、顔を見たい。どこにいる……。ここ、通して! 心で叫びながら、走る。


 いた! 谷也さんも私に気づく。小走りに、人を避けながら、途中で何人もの人に止められそうになりながら、私の方に走ってくる。あぁ、やっと手が届く。思わず抱き付いていた。谷也さんの腕が、強く背中に回される。

「やったよ!」

「うん! すごかった! おめでとう!」

 お互いに一度顔を見て、もう一度、抱き締め直す! 周りの皆さん、ごめんなさい。邪魔ですね。でも、許してください。こんなに、嬉しいことはないんです!


 やっと、谷也さんに引っ張られるように楽屋部屋に到着すれば、もうそこは人の渦で、すぐに谷也さんは囲まれてしまった。

 男同士で抱き合い、両手を組んで背中を叩きあったり、女性は興奮した顔で、素晴らしかったと握手を求めたり。きっと、谷也さんを知る音楽仲間や、学生時代からの友人や、谷也さんを応援してきた皆なのだ。共演者までいる。

 皆、興奮していた。お祭り騒ぎの様な、もうただ幸せな時間を、皆で共有していた。


 私は、何故だか分からないが、その場を離れた。どうしてそうしたのか、自分でもその時は分からなかったが、いてはいけない気がしたのだ……。

 この嬉しさのまま、家に帰りたいと思った。できることなら、谷也さんの家に。先に返って、戻ってきた谷也さんを、迎えたいと思った。本当に何故だか、理屈ではなく、そうしたかった。そして、本当に先に谷也さんの家に帰ってしまったのだ。


 鍵を預かっていたわけではないので、外で待った。もう、春も近い。寒さも感じない。ただ、満天の星に包まれて、いつまでも待った。本当に、幸せしか感じていなかった。

 谷也さんにはLINEを入れた。

「先に帰ります。ちゃんと、打ち上げ参加してね」

 既読が少し前に付いたから、もう安心だ。あとは、ゆっくり谷也さんの帰りを待つだけ。


 どれだけ経ったのか。そこに、谷也さんが戻ってきた時のことは、今でも忘れない。

 花束を一杯抱えてタクシーから降り、私を見つけると、まっすぐやってくる。それは随分早足だったのに、まるでスローモーションの様に記憶に残っている。そして、掻き寄せるように私を抱きしめてくれた。

「バカヤロー、黙って先に帰って! どれだけ心配したと思ってるんだ」

 と、静かに怒る。

「こんなに、冷たくなって……」

「ごめんなさい……。でも、幸せで、ちっとも寒くなんかなかったよ……」

 今度は私がもう一度、首に手を回して強く抱きしめた。


「こっちに、帰ってくれてたんだね。ありがとう……」

 やっと、落ち着いて離してくれた谷也さんが優しく言う。


「おかえりなさい」

「ん、ただいま」

 2人で手を繋いで、家に入った。


 その時、ふいに分かった。なぜ、あそこにいてはいけなかったのか。

 あれは、皆の谷也さんだったからだ。

 私は、私だけの谷也さんと、一緒にこの幸せを味わいたかったのだ。


 谷也さんの世界が、一変した。

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