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フォーレの「レクイエム」

 至福の時間は、ある日突然降ってくる。


 今日は演奏会前日の本番会場での練習だった。地下鉄に直結したビルの中にある、比較的新しいホールである。席は600くらいと聞いている。ここで歌うのは、初めてだった。


 この演奏会への参加は、音楽仲間の谷也さんから誘われた。アルトが珍しく少ないとのことで、声が掛かったのだ。フォーレのレクイエムは何度か歌ったことがあったし、練習も日曜日が中心ということで、参加を決めた。

 参加してみると、メンバーはかなり上級者が多く、音大出身者も多い。ただ、結婚したり、音楽とは違う職業に就いたりと、現役でソロ活動している人は少なかった。この中から、何人かレクイエムのソロを歌うようだ。

 いわゆる常設の合唱団ではなく、演奏会のたびにメンバーを集うイベント合唱団に近い。「口コミ」メンバーのなせる業なのか、結構色んな声が混ざっていた。


 谷也さんはテノールのソロを歌い、合唱にも参加するらしい。久々に一緒歌えるのもうれしかったが、谷也さんの歌う声が聴けることも、とてつもなく楽しみにしていた。

 彼の声は「天性のレジェーロテノール」だと私は思っている。偶然聞いた日から、彼の声に対する思慕は、変わることがない。できることなら、とっととCDでも出してもらい、毎日それを聞いていたいと思わせる「美しい」声だった。

 それが1ヶ月に何度か、タダで、しかも近くで聴けるのだから、歌人生のご褒美に近かったのである。半年ほど至福の時を過ごし、今日の日を迎えたわけである。


 舞台に上がると、まだ、合唱用ひな壇での並び順が決まっておらず、皆好きなところで歌うことになった。「前日なんだから、場所くらい決めといてよね」と内心毒づきつつ、ひな壇に付いた。


 声の響きはどうやって生み出すのか。乱暴な言い方を承知で言ってしまえば、「息の通り道」で決まる。その場所が違う人の声は、どんなに各々が正しい音程だと思っていても、同じになることがない。俗に言う、「ピッチが合わない」のである。

 この「息の通り道」が正しいアルトに、私は今だかつて、ほとんど会ったことがなかった。

 私がアマチュアなので、当然所属している合唱団もアマチュアなのだから、仕方がないことかもしれない。しかし、音大の歌科(うたか)まで出て、まがりなりにもソロ活動をしている人達ですら、違うのである。

 もちろん、プロとして活躍している一流の歌手や、イタリアに留学して、その部分を開拓してきた人達は、当然できている。逆にできていなければ、生き残ることはない。

 つまり、趣味で歌っている人達の、到達できない「壁」なのである。不遜にも、私はそれができていると自負している。但し、それ以上のテクニックもなければ、訓練も受けていないから、そこまで、なのだが。


 それが見つけられるまでに、10年掛かった。音大で勉強すれば、誰もが4年で手に入れられると、勘違いしていた。それ程までに、それは手に入るまで、分からないものなのだ。

 あることすらも、分からない。そして、手に入れば、もうそこ以外では歌えない。


 ピッチが合わない苦痛を少しでも和らげるために、私はいつもパートの端で歌うようにしている。両隣を囲まれると、修行の心境に陥る。1音の1/32とか1/16程度の音程が、ずっとズレたまま歌っているようなものだ。それならいっそ、自分の片側だけでもテノールかソプラノにして、歌う音そのものを変えてしまえばいいという魂胆である。今日は、テノール側の端の、一番後ろに陣取った。


 演奏会の1部は、ソリスト達が、それぞれアリアやデュエットを歌い、ガラコンサートになる。2部はピアノソロ。3部でレクイエムとミサ曲を1曲ずつ歌う予定である。フォーレのレクイエムは曲自体が短いので、よくあるプログラム構成である。


「もう、全部参加って、ひどい……」

 谷也さんがゲッソリしながら、ひな壇最上階までやってきた。

「前半で別々のソプラノとデュエットが3曲で、ソロが1曲。3部のコーラスの2曲共はねぇ……」と、同情をこめて返事をする。

 いくら指揮者が友達で、テノールのソリストが今回1人だけの参加とはいえ、

「ちょっとありえないよねぇ」

 と付け加える。

「でしょ。もう、今日はフォーレまともに歌ってやんない。響き、閉店!」

「えぇ。その方が、喉に悪いでしょー」

「だよなぁ。あいつ、そこんとこ、分かってないんだよ。今日は、軽く歌ってくれればいいからって」

「マエストロ?」

「そんな、いいもんじゃないだろ。ただの、棒振り。困ったもんだよ」

 大きなため息とともにヘコたれてるので、こちらも苦笑いするしかなく、提案する。

「本当にフォーレ、歌わずに聞いてたら?」

 すると、「あれ?」という顔になり、なにやら思わせぶりに一呼吸おいて、

「いいの? 2曲目、Offetorium ―奉献唱―。アルトとの掛け合いだよ」

 と、にやけ顔で聞いてくる。

「ふぎゃ!」

 思わず口にしてしまい、谷也さんが「どうする〜?」顔でご機嫌に、上から目線を送ってくる。


 そうだった。この曲は、アルトが数少ない主旋律を担当する曲なのだ。しかも、途中でテノールが入ってきて、2声だけで曲が進行する。カノン風に繰り返され、実は意外と難しい曲なのである。

 もちろん、谷也さんが歌わなくても、今回のテノールのメンバーはかなり優秀で、特に問題はない。しかし、彼が入ると音が明らかに変わるのである。響きに艶が加わり、安定し、アルトとの境目も消えていく。


 思わず口を尖らせ、頬を膨らます。「むぅ」と、文句一杯の顔になってしまった。自覚のある良い声の持ち主は、タチが悪い!


「じゃ、2曲目だけ歌って下さいますでしょうか……」

 上目遣いでお願いする。何だか満足げな笑みになり、

「しょうがないなぁ。一番、どこが必要なの」

 と、楽譜片手に、更に追い討ちをかけてくるので、(こいつ!)と内心睨んだまま

「全部でございます」

 と、慇懃(いんぎん)に答える。

「いいよ。カリリンに聞こえればいいんだから、隣で歌う。そしたら、そんなに息乗せなくてすむし」

 わぁっ、と機嫌が一瞬でよくなる。今日の星占いは、きっと1位だったに違いない。

 谷也さんはいつも一番前で歌っているし、私はほとんど一番後ろだから、隣で歌えることは、めったにないのだ。というより、今まで一度もなかったかもしれない……。

「ははぁ、恐悦至極に存じます」

 と座ったまま、拝礼してやった。

「よい、よい。よきに計らえ」

 だそうだ。


 私に聞こえれば、私の音が安定する。今回のメンバーならば、私が安定すれば、アルト全体が安定し、それに呼応するように4声全体も安定していく。内声パートの、大事な役割なのだ。それをよく分かっているのである。

 そして、今回のメンバーのように、個人の技量が高いほど、この連鎖反応はあっという間に起こる。


 タクトがあがる。音が、始まった。

 1曲目。「Kyrie ―主よ―」テノールパートとソプラノパートの美しい掛け合いに、思わず目を閉じる。

 今日も、中性的な宗教曲のための声、健在! と、ひとりほくそ笑む。ソロのときとは、また違った歌い方になる。人間的な部分が削れているというべき声。祈りのための声。

 それを、今、隣で聞いているのだから、特等席もいいところである。アルトは、ハーモニーのための音だけ提供すればいい。それで、十分魅力的な曲。やっぱり谷也さんの横は、歌い易い。JKならハートマークを付けたい気分だ。


 いよいよだ、2曲目。オケならばチェロからヴィオラに移る旋律。冒頭の伴奏の音が止む。

 オルガンパートとアルトの低音の主旋律が、「O Domine ―主よ―」と歌う。すかさずテノールが入る。


 えっ! 体が……。思わず、全身を鳥肌が包む。


 体が、響きに包まれる。


 驚きとともに「Jezu Criste rex glorie −イエス・キリストよ、栄光の王よ−」と続けるが……。もう、何なのだ!

 いつも私の体の中だけにある響きが、私の体全体を取り囲んでいる。キラキラの粒子が、目に見える様だ。

 どうしたら、こうなるのか。自分の声と、谷也さんの響きと、ワンワンと頭の周りが洪水のよう……。

 すごい! もう、何でもいい。このまま、終わらないで欲しい!


 いつの間にか、バスのソロになっていた。


 曲が終わってもいないのに、夢の続きを見ているように、横を、谷也さんの顔をゆっくりと見つめてしまった。ほうけた顔だったのだろう。「何?」と、表情だけで谷也さんが聞いてくる。

 そうなのか! 彼は分からないんだ。自分が起こした、奇跡が。

 私は「何でもない」と言うように頭をふるふると振って、楽譜に目を戻した。


 バスソロの後は、4声でのカノンになる。本来はソプラノに旋律が移るが、テノールはどこまでもアルトの補佐に回る作曲になっている。谷也さんは、ずっと、ずっと、支え続けてくれるのである。

 最後に一緒にゆっくり駆け上がるパッセージでは、こちらの歌いやすいように、呼吸まで合わせてくれる。まるで、バレエのプリンシパルを支えるかのように。やさしく、そっと、でも確実に。

 もう……、こんな幸せ……。胸が一杯になる。泣けてきた……。


 声の恋に、落ちました。


 休憩になって、まだぼぉとした顔だったのだろう。谷也さんがパート内での打ち合わせを終えて、隣に戻って来てくれた。フォーレの練習は続く。

「曲の途中で、いくらいい男だからって、見惚れちゃダメでしょ」

 と、茶化してくる。

 さっきの「何?」を確認している。ここでも、「うん」と、小さく頭を振ることしかできない。


 谷也さんは小さくため息をつくと、

「カリリンは、同じ響きだと、思ってたよ」

 と、誰にも聞かれないように、そっと呟く。

「知らないと、思ってた?」


 もちろん、声なのだから、誰の耳にも届いている。しかも敏感な耳の持ち主ばかりなのだから、誰がどんな声なのかは、すぐ認識できる。

 でも、この場合の「同じ響き」というは、「通り道」のことだけではない。持ち声の質、つまり、喉や顔の骨格、その筋肉の使い方にまで関わってくるのだ。高価なバイオリン同士でも、反発し合う事もよくある。

 以前、隣で同じ「通り道」を持った数少ないアルトと歌った時も、「あれ」は起こらなかった。

 ましてや、アルトとテノールである。実声が近いとはいえ、響きしか共通点はない。こちらが一方的にファンになった、天性の声の持ち主である。「通り道」は同じでも、響きが同じなどと思いもしなかった。


 私が谷也さんの響きに包まれた事を、彼はちゃんと分かっている。これが実力の差なのだろう。彼にとっては、きっと日常茶飯事のことなのだ。同じ響きならば、包み込むことができる。自分の響きで、周り全てを埋め尽くす……。

 もう、本当に降参だ。ため息しか出ない。今日は、ダメージが大きすぎて、いつもの返しができず、うつむくしかない。


 ふっと、真顔で笑った谷也さんが呟いた。

「僕も、気持ちよかったよ……」

「えっ!」

 驚愕を通り越した顔をしたら、頭をぽんぽんとされてしまった。

「ああいうの、めったにないから」

 やさしく微笑んでこちらを見ていた。


『共鳴』していたのだ。あれを体感したのは、私だけではなかった……。鳥肌が、止まらなくなり、また泣きそうになった。彼にとっても、特別な時間だったのだ。


 本当に、恋に落ちました。


 次の日、演奏会当日。並びが決まり、私はアルトの中心に据えられ、谷也さんは定位置の1番前で、二度と彼の響きに身をゆだねることは、できなかった。

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