赤き女性
気が付いたらここにいた。
誤解されそうだから一つ訂正するが、別に寝て起きたらここにいたとか、そんなファンタジーや夢遊病な類でない。日が出る前に起床し、意識を持ったまま出かけた。ただ目的もなくどことなくフラフラと歩いていたら、ここに辿り着いた。
結果的には良かったかもしれない。近いうちに行く予定だったから。
新聞に載っていた十五年前の事件の場所。
町を展望できる山の上の公園と、その崖下。木で作られた展望台が崖にせり出すようにあり、体半分位の高さの木の柵が三方を囲むようにあり、そこに手を置く。木々の匂いが鼻を擽り、開けた空間から風が吹き抜け、皮膚を、髪を撫でていく。眼下に広がる街はミニチュアみたいに小さく見える。
下にいるのと違い逆に空が大きくなる。雲一つ一つの動きがはっきり見える。赤みがかかった雲と青い空が混じり合い、幻想的な世界へと誘われているようだ。
朝焼けなんて初めてかもしれない。
「黄昏というやつか」
少ない知識を絞ってそんな言葉を呟く。でも「黄昏」は夕方に使う言葉だったような。まあどっちでもいいか。
まともに空を見るのは久しぶりだった。何も考えず、時間を忘れ、この景色を眺めていた。暫く経ち、辺りを見回すと、ふと展望台の角に視線が止まった。
一束の花束が置かれていた。
それが十五年前の事件の献花だと考えた。
悼む人が今になってもいるのか。
感心と嘲笑。
「今。笑ったね」
心臓をギュッと掴まれたような圧迫感に襲われる。振り返った瞬間、目と鼻のがぶつかるくらい近くに女性がいた。
咄嗟に下がろうとしたが両腕をガシッとつかまれた。喉を絞めつけられるように息苦しくなる。
一体何だというんだ。
燃えるような赤い瞳が俺を舐めるように睨む。
「ふーん。あなたはもう受けているか」
何か気が付いたように言葉を吐いた。鑑定は終わったのか、赤い瞳を俺から逸らして、ゆっくり両手を離す。同時に体に襲っていた恐怖から解放された。地面に膝が落ちていき、ガクッと前のめりに倒れた。手の平にはべっとりと汗が浸っていた。
「へえ。この格好で意識を保ったのあなたが初めてかも」
一歩下がりながら、物珍しい目線でフムフムと頷く。
「おまえ」
体がガタガタになりながらも、敵意を向ける。
「何? あなた、さっきあの花束に対して一瞬でも笑ったね」
赤髪の女性は、赤い瞳を大きくし、見つめ返してきた。途端に周りの空気が重くなる。今度は地面に押し付けられるような圧迫感。崩れそうな体を必死に歯を食いしばって堪える。
「別にいいけどね。私もあなたと同じ気持ちあったから」
パッとまた拘束を解く。体の緊張が解けて、地面に腕をついた。四つん這いにならざる終えなかった。
顔だけは何とか起こすことができた。
セーラー服姿の彼女は、のうのうと後ろで腕を組んで突っ立ている。あいつが何者か分からないが、普通の人間ではない。それだけは分かった。
「頑丈ね。アレの影響で強くなったとかではなさそう。元々精神は強い方なのかな」
先程の攻撃と言えるような現象は、やはり品定めしていたみたいだ。女性は含んだ笑みを浮かべる。
「この時間帯に来るなんてね。普通の人とは違う目的だね。最もこのように私に会えることすら特別なんだけど」
彼女は全てを知っているように違う次元から話を続けている。
「……」
「何か言いたいことあるみたいな表情だけど」
今更かよ。色々あるが込み上げる言葉を喉元で止める。今回は言葉を選ぶ必要がある。何か彼女の琴線に触れると先程の威圧を食らうわけにはいかない。
「お前が何者なのか知りたい」
女性は口角を上げたあと口を開いて笑う。
「あなたはそれを知っていて訪れたわけではないの?」
質問に質問で返される。
「なんとなくだ。確信にならない」
「それは私の口から言っても確信に変わるわけではない。私が嘘をつく可能性だってある。言葉だけで信じられる程、あなたは純粋ではない」
突き返された。そう簡単に答えてくれるわけではないか。自然と眉間に皺を入れて考え込む。
「そんな難しい顔しない。考えなくていいって。それより今日の朝焼け綺麗じゃない?」
呑気に東の空を指さす。
オレンジ色に染まった空に、溶け合うように染まる雲。
「今日のはじまりを祝福しているよう」
赤い髪が風により後ろになびく。ほんのりと白い肌を赤く染め、うっすらと微笑んでいた横顔。
「君もそう思うよね」
すっと振り向いてウインクする。
「……」
無言だ。だが景色が心を震わされるのは否定しない。こいつも全く行動が読めない。警戒心を強く鋭い視線を維持すると、女性は背を向けて歩き始める。
「ずっとこんな景色を何も考えずに見続けられたらいいのに」
彼女は空を見上げた。
こいつも何となく訳ありな人間なのは何となく察する。
「あなたはずっとそんな険しい顔しているけど」
振り返って、不思議そうな笑みを浮かべる。態とか、それとも本当に気づいていないのか、それはないか。
「二回も敵意を向けられたら、警戒するだろ普通」
少しは分かってくれると色々助かるが。
「そうね。確かにそうだけど。そんなことで一々警戒していたら人生楽しくないんじゃない」
「何を」
そんなこと……。と言いかけて口ごもってしまう。
「あら。図星だったかしら」
「そんな訳……」
ねえ、と言い切れなかった。口から出る瞬間に何か引き留められるこの感覚。
ただこいつの口車に乗せられているだけだ。そう思わせておいてまた何か攻撃してくるに違いない。けど、なんだこの嫌な気分は、言葉にならない感覚は。
「葛藤しているね」
「……」
「それもそうね。これは時間がかかりそう」
ゆっくりと両腕を横に広げ、一歩ずつ近づいてくる。途端に体が縛られるように動けなくなる。
彼女は微笑んでいる。
だがそれが恐ろしい。
「そんな警戒しない。あなたは私に似ている。だからちょっと力を貸そうと思ったの」
一歩ずつまた一歩距離を縮める。
そのたびに心臓の鼓動が上がり、気持ち悪くなる。
「……ッ」
全神経を使うが全く抵抗できない。
「だからそんな警戒しないって言ったじゃない。もっとポジティブに」
笑いかける赤髪の女性。だから尚恐ろしい。
女性との距離は這いつくばる俺の目前で足を止めた。そしてスッとしゃがみ顔を鼻の先まで近づける。
女性の息使いが届く、甘い匂いが鼻をそそる。それは如何に心地よくも思えても危険だ。
「ふふ」
優しくうっとりとした表情。憐れむような眼差し。そしてそっと俺の頬に手を伸ばしてくる。逃げたい。けどそれができない。
「一体何なんだ。お前は」
震える口がギリギリの抵抗を示した。けどそれしかできない。
「私、私は……」
女性はそこで言葉を切った。
「……ふ」
微笑みをやめて、無表情に移り変わる。何かに気が付いたのか他所の方向を一瞥する。その瞬間、女性は深いため息を吐いた。女性は立ち上がり、何も言わずに俺に背を向けて歩き始めた。
「おい。どこへ行く」
返答は返ってこなかった。
彼女はそのまま無言のまま歩き去った。
「!!!」
直後壮絶な眩暈が俺を襲った。満身創痍の俺は抵抗できずに体は地面に崩れた。目を瞑っても回っている感覚。抜けない徒労感。そしてやけに熱い日差し。全身をあらゆる方向から襲う。意識が保つことなどできなかった。ゆっくりと意識が暗闇に吸い込まれていく。
「……ょう……ん」
最後に遠くから聞こえたのが何なのか。知る由もなかった。