手書きの楽譜
カーテンの隙間から降り注ぐ夏の日差しは、いつも熱くてあまりいいものではない。
特に運悪く顔に直撃した朝は、無理やり起こされた感が半端ない。
本日もその類だ。
何か溶岩帝国のような熱い世界で、干からびながら死にそうになる夢だった。目を開くと眩しく差し込む光が辛かった。
変に火照った顔を持ち上げながら起き上がる。
クラクラする。喉がカラカラする。
ツイていないな全く……。
早急に水分を補給しないと。
立ち上がると足元がフラついた。転ばないように足元に注意しながら歩き、引き戸を開けた。
「……」
第一印象は荒れていた。豚小屋かな。
荷物や服、飲み物や菓子が辺り一面に散乱していた。床の見えている部分が少ない。
ひどい。人の家を私物化してんじゃないのか。
込み上げる憤怒を抑えながら、床の見える部分に足を置くように進んでいく。
するとふと気が付く。
椅子に腰かけ、電子ピアノに向かって、うつ伏せになって寝ている人間。
カジだった。
鍵盤の扉を開けたまま(鍵盤は見えないが)顔を正面からつけて眠っていた。腕はブラーンと下に伸ばしたままだ。
そして楽譜台にあったのは、五線譜に手書きで音符が描かれていたノートだった。その上には多くの指示や書き込みがあった。
徐に手を伸ばしていく。
雑に書かれた五線譜、ガタガタな形の音符、その上に一つ一つ音階が書き込まれている。雑で歪な形をしている記号。消しゴムで何度も消してひどく黒くなっている部分。
「嘘だろ……」
一から書いたのか。しかも一晩で。
耳コピなんて、全くできなかったはずだろ。前のピアノ弾いた時なんて、最初の一音目すらまともに弾けなかった奴が……。
あれからそんな必死にやったのか。
たぶんそうだろう。これだけの証拠と状況が証明している。
必死に頑張ったんだろう。俺が怒ったことを少しは気にかけてくれたのは分かる。
でも純粋に頑張ったと完結させることが出来ない。
初心者が頑張ったというには、出来過ぎている気がしてならない。
何だろう。理解してやりたいのに理解できないこの感覚。
カジのことを直視できなくなった。
一旦、視線を他に移す。
窓際に横たわっているのはソラだった。
彼の耳にはイヤホン、そして左手にはボールが二個、右手には鉛筆が握られていた。
そして彼の目の前には一枚の紙があった。
奇妙な組み合わせだった。無意識に足を進めた。
ソラの前に落ちていた紙、それはカジの楽譜台に置かれていたのとほぼ同じものだった。手書きで音符が書かれていた演奏曲の楽譜だった。
即座に拾い上げ、顔の正面に持ってきて確認する。
ガタガタの音符、憶測で書いた意味の分からない記号。
指が震えた。
ジッと見つめた後に、手書き楽譜をそっとテーブルに置いた。
酷く喉が渇いていくのが分かった。水を求め台所に向かう。
だが、直前に角からヌッと伸びてきた脚のせいで、更なる気疲れが増える。
ゆっくりと覗き見ると、久江と紫髪の女子生徒が互いに背を向けて床に寝ていた。
「何があった……」
想像だにしていなかった。しかも何とも幸せな表情を浮かべて寝ている。
波長が合ったのか、趣味が合ったのか……。
いい方向に進んだのなら、まあいいんだけど。展開が急すぎる。
俺は二人を踏まないように、脚を忍ばせながら進んだ。
また目につくものがあった。二人の頭付近に手書きの用紙が置かれていた。
ギュッと抉られる様に胸が痛む。
その光景から目を背けた。
コップに水を注ぎ、何かを誤魔化すように水を飲み干す。
喉が未だに渇いたままだ。潤ってこない。
あの時、二人に怒鳴り散らかしたことは後悔していない。というか、あれはどう見たって向こうが悪い。
けどこの形容しがたい感情は何だ。
もう一杯コップに水を注ぎ、一気に飲み干す。
変わらない。最悪だ。こんなの最悪だ。
ギスギスする心に渇く喉、夏の朝の太陽光はいつも最悪な気持ちにさせられる。
本当に最悪だ。
俺は、並んで眠っている二人の頭近くにある用紙を拾って、リビングに戻る。
ソラのもカジの目の前にある用紙を拾い上げていく。
最後にソラのオーディオプレイヤー本体をイヤホンから引っこ抜いて奪う。
引き戸を閉めて、部屋に戻るとそれらを机の上に乱暴に置く。
今一度手書きの楽譜を確認する。
バカだ。
改めて見ると汚すぎて何かわからない部分が多い。符号なのか指示記号なのか。どこで調べて書いたんだ。手さぐりなのは分かるが、もっと頑張れるだろ。
「本当よくやるわ。あいつら……。本当に全く……」
口元が緩む。
ごみ箱を机の横に置く。
紙を棚から引っ張り出し、シャーペンを筆箱から引っこ抜き、イヤホンを引き出しから掴みとる。
そして静かにペンを動かした
「せい」
「ウッ」
背後による衝撃で顎を机に強かぶつける。
真っ暗の中でグラングランに視界が揺れて、気持ち悪くなる。
最近、すっきりした目覚めをした記憶がない。
それに今回は背中に重みを感じる。比喩ではなく物理的に。
目を開いて振り向くと訝しげな顔の紫髪の女が、背中に拳を突き付けていた。机の光が下から映り、ちょっと幽霊ぽく見える。
目つきの悪さが更に拍車をかけている。
本当に呪われてる気がする。
「なんだ。昨日の文句でもあるのか」
威嚇を試みる。
「あるよ。全くあんなに怒鳴らなくてもいいじゃん」
「……?」
紫はすっと目線を逸らし、クルッと自分の髪の毛を左人差し指で巻き取る。
言葉は尖がっているが、行動が別人だ。
「そうか」
「愛想ない……。あんたのせいで、こっちは大変だったんだから」
「そうかい」
八つ当たりなのに、目つきだけ鋭く、髪の毛をひたすら指に巻き付けていることに、突っ込むのは止めよう。
「どうした? それを言うためだけに殴ってまで起こしたのか」
「バカ」
「は?」
「あんたらバカだよ。本当にバカだよ。何でそこまで必死になれるの? 怒鳴られて目の色が変わって、やる気を出して、そしたら私まで巻き込まれて、もうしんどかったんだから。あんたは私と同類かと思ったら、起きたらあんたもやっているから。本当にバカ」
両指を使って髪を巻き始めた。
わからん奴だな。俺は机に向き直りペンを持つ。
「そうかい。それは怒っているのか褒めているのか」
「ほ、褒めてない! 呆れてんの」
「怒ってないんだな」
「ふん!」
背中に彼女の拳が刺さる。
さっきの倍以上の衝撃が走り、瞬間的に動けなくなった。
徐々に痛みが怒りに変わっていき、椅子を倒す勢いで彼女の胸倉を掴む。
「何してくれてんだ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
一瞬で後ろに下がり、びたっと壁に背中と両手も張り付いたあと、すぐ膝を折りたたんだあと頭を下げる。
必死に謝っている様に見せるが、俺は拳を目の前に構えたままで残す。
「お前。最初っから思っていたことだけど、性格が読めない上に、言動がバラバラ。何だよ一体」
「ああ。ごめん。性格は元から」
「元からかよ」
呆れる。お前が俺らに対して思っている呆れより更に深刻な呆れだ。
「変な顔で見ないで。そういうあんた達もよくわからない」
「よくわからないか……。俺にも俺自身がわからん。それに正直あいつらの事もようわからん」
俺だって居眠りするまで、耳コピして楽譜に書き起こすという面倒くさい作業を能動的にやっている事実に驚いている。
それにあいつらは本当にわからん。掴みどころが分からない猪突猛進女のカジ。ジャグリング好き以外はのほほんとしているソラ。子供っぽい上にやたら俺に構ってくる久江。あいつのことはそれくらいしか知らない。
「はあ? 何それ。よくそれで友達やってるの」
「友達……。いや一方的に向こうが友達と思っているだけだ」
彼女は首を傾げる。妥当な反応だ。
俺は椅子に腰かける。
「じゃあ何故一緒にいるの? それに知りたいとも思わないの?」
彼女の質問は的を得ていた。けど俺はカジと出会ってから一度もその感情が湧いたことがなかった。
「知りたいか……。今まで鬱陶しいと思っていたから、そんなこと考えたことがない」
静かに天井を見つめる。
「何それ。分からないから知りたい。反射的に思うものじゃないの」
「一般的にはそうかもしれないが、俺は生憎、人との交流が乏しい上に、人間嫌いだから深く聞きたいとは思わない」
「ふーん。そんなドライな関係で、なんで一緒にいるの?」
「何でだろうな。流れというか、そんな感じか。けどまあ強いて言うなら……」
彼らの書いた手書きの楽譜を手に持って見つめて、改めて隣の部屋を開く。口を大きく開けて眠る人たち。
俺は楽譜を持ちながら彼らを指さす。
「あいつらバカだから」
「それ私も言ったじゃん」
「あ、そうだな」
無意識にも笑みがこぼれた。こんなに自然でてきたのはいつぶりだろう。本当なんだろな。
目の前の女性は変なものを見る様に、少し後ろに下がっている。まあそうだろな。
改めて思うと俺も自分自身に引いている。
「もうあれね。あんたたちの行動を考えるだけ無駄か」
彼女の心は諦めたのか、ハアと深く溜息を吐いた。
「そういやおまえの名前は何だ」
不意に初歩的な疑問が浮かびあがり、とりあえずそれで話を進める。
「えー。名乗る前にまず自分の名前を言うべきでしょ。響ちゃん」
「知ってるなら。おまえの番だろ」
「突っ込んでよ」
「お前もカジと同じこと言うんだな。めんどくせえ」
女子ってこうも見え透いたボケを堂々と置く癖でもあるのか。
「で?」
「あ、はい。あたいは、星浦希美好きに呼ぶといい」
「じゃあ。ホシな」
「え。ちょっとその部分を残すの? 『のぞみん』とかもうちょっと可愛くしてくれないの」
「さっき好きに呼べと言ったよな」
「はい。はい。すみません」
ガンを飛ばしてやるとすぐにぺこっと頭を下げる。反応面白いな。カジと似たようなこと言うが、俺が強気に出ると反応が真逆だな。
まあそれは置いといて、今こいつと二人。訊きたいことが多くある。
ホシは俺の思考を察したか、怪訝そうに見つめる。
「何?」
「アレだ。お前が本当に家の鍵を忘れたのか気になった」
「ごめんそれもマジ」
「ウソ?」
「嘘じゃない。もっとマシな嘘つくって。昨日も言ったけど、夜に帰るところがないのにそんな嘘を付く余裕なんてない。必死だったんだから」
顔を少し歪め声を大にして弁明する。
真っ過ぐに見つめる瞳、嘘を付いていないと思う。実際ここに来るときもかなり必死に懇願していたし、でもそれでも不信感が残る。
「じゃあ。何故俺を含めバカな連中の所に助けを求めたんだ? ついでに言うとあんなに笑われたはずだが」
「それは……。何か腹立ったから」
「へ?」
そっぽを向くホシ。近くにあったクッションを持って、恥ずかしそうに顔を下半分隠し始める。
流石の俺も理解が追い付かない。もう一度聞き直す。
「何て言った」
「あーもういい。恥ずかしいから聞かないで。何かチョロそうだからついてきたの!」
「ウソだろ」
ホシはクッションを床に投げつけ、隣の部屋にそそくさと逃げた。
「ぎゃああ!」
耳が痛む悲鳴の後、ホシは誰かと一緒にぶっ倒れた。
ホシに折り重なるように倒れ、両者ともに腕を振ってジタバタしている。
相変わらず騒がしい連中。
「プハ」
「うえ」
二人とも起き上がり、互いにひどく咳き込んだ。
落ち着くと今度は頬に手を当てて顔をカーッと赤くする。
「あああああああああああああ」
絶望を撒き散らしたような、二人の悲痛な叫び。
「ファーストとられた」
今度はみるみると顔が青ざめていき、目からポロポロ涙が零れていくカジ。
開いた口が塞がらずただ茫然とするホシ。
沈黙の時間の後、徐々に現実を認識し始め。
「何てことしてくれたの?」
「それはこっちのセリフ! 扉に突撃するバカが一体どこにいる!」
「こっちはちょっと響ちゃんの状況を確認しに来ただけだから」
「確認するって、あんなダイビングジャンプをする必要性でもある? 扉ぶっ壊すつもり」
「何? あなたが他人の家の破損を気にするなんて、いつからそんなケチ臭い人間になったの?」
「はあ。あんたは人の家をぶっ壊して言いというわけ」
「私のファーストキスぶっ壊したくせにどの口が言うの?」
「ファ、ファ、ファーストって、あんたそんなに気にしていたの。そんなの結局はあんたが突っ込んできたせいだから」
「うるせえわ!」
俺は二人の首根っこ掴んで、無理やり二人を引っ付かせた。そしてそのまま二人抱えて、布団に投げ飛ばした。
激しい衝撃音の後、二人はピクッと体が震えた後、伸びて動かなくなった。
「ハア。ハア」
呼吸音だけが部屋に木霊した。ガラガラと扉を開ける音。
「あー。大丈夫?」
ソラがひょっこりと顔を覗かせる。何故か安堵感が湧いてくる。
本当にお前だけは、俺の唯一の心の安らぎだよ。
「大丈夫というには程遠いな」
「そう? 二人が喧嘩しているときから見たけど、声は怒っていたけど、二人を投げるとき若干笑っていたのは気のせい?」
笑っていた……。
正直ただウルサイ以外何も考えていなかったし、純粋に怒っていた。
けど、その言葉に何か胸の一部がほどかれていくように、心が軽くなった気がした。
「そうか。じゃあ悪くはないかもな」
「良かったですね」
「じゃあ。残りを書き起こすわ」
「え。ああー。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げるソラの姿を見て、違和感を覚える。
「何だ改まって」
「いや。何かその無理やりさせている気がして」
頬を指で掻きながら申し訳なさそうにチラチラと奥の楽譜と俺を見る。
何だそんなことか。
「気にするな。俺が書きたかったから書いただけだ」
そう言い切ると、ソラはパッと笑顔を見せたのだ。いつもの愛想笑いではない笑顔。
「で、二人はどうします?」
ベットで気絶している二人を指さす。
「ほっとけ。そのうち起きるだろ」
「だよね」
俺とカジは互いに頷き、ソラは練習、俺は楽譜に書き起こす作業を始めた。
久しぶりに充実感というのを感じた気がした。




