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八番目のあとの澪

作者: こうあま

 作道(さくどう)葉月(はづき)の祖父が亡くなった。

 知らせを受けて久方ぶりに訪れた「島」は終日、大粒の雨がどしどしと降っていた。何もかも灰色で、すべてが雨音と潮騒に飲み込まれていた。

 葉月はその光景に安堵し、気づけばそのまま祖父の家に住むことを決めていた。

 夏がようやく終わろうという頃のことだ。


「……明るすぎるわ」

 天気の激しさは、島中の色を奪うだけではなかった。憎らしいほどの晴天の日には、水天に色と光を余すことなく与える。

 葉月は職場の大きな窓越しにその輝かしい碧霄(へきしよう)を眺め、幼い頃に聞いた言葉を今さらに思い出すのだった。

 ――ここは、空がきれいに見えると有名な島なんだよ。

 尤も「有名」という部分の真偽は今でも知らない。外より見れば、本土から遠く離れた諸島の、ごく小さなひとつに過ぎないのだ。

 だが空がきれいに見える島というのは間違いないだろう。晴朗の日には、天の際まで抜けてゆくような広がりのある青空と、実に様々な表情の雲が見通せる。その景色はたぶんひとを魅了するものだろう。葉月にとってありがたいものではないというだけだ。

 せっかく隠逸してきたのに。一面照らされていると、まるで見張られているかのようでどうにも居心地が悪い。

「眩しいのは苦手?」

 窓の外を恨めしげに睨む葉月に、一足遅れて出勤してきた(ほうり)が尋ねた。おはよう、と続く。上司に人相の悪い顔を向けないよう、人並みの表情を意識してから振り返った。

「おはようございます。そうですね……いえ、慣れないです」

「島の光は眩しいよね。朝も、夕方の西日も」

 祝が置いた新聞が乾いた音を立てた。

 葉月は移住してすぐ、諸島で唯一の社会福祉法人に就職した。高齢者の入所施設で働くのは初めて、おまけに資源も全く把握できていない地域での就職であっても、国家資格の力は分野共通、全国共通らしかった。

 履歴書を見れば、葉月の職歴は相談援助職として十分とは言いがたく、その上ブランクがあることも明らかなはずだった。そのことを特に質問もせずに葉月を採用したのが祝だ。まだ入職してひと月の葉月は、そんな教育役かつ相談室長である祝と事務所で時間を共にする間中、感謝と不信を半分ずつ胸に据えながら、祝を観察し続けていた。

 祝という珍しい苗字の人物は、この小さな島にふたりといない。過去を聞くほど親しくないが、祝は移住者なのだろう。姓だけであれば葉月のほうがここではよほど馴染む。面接のとき祝が葉月の個人的な部分に触れたのは、「もともと島にルーツがあるんだね。帰ることにしたの?」というひと言だけだった。同じ姓の祖父はまさにこの施設から支援を受けていたらしいし、祝が葉月のことを下の名前で呼ぶのも、祖父が亡くなってなお同姓の利用者がいるからだ。

 それ以降も特に誰何されたことはない。葉月は祝の印象を「気さくだけど煩わしくないおとな」と固めつつあった。

 祝が新聞からふと顔を上げる。

「先週からの天童さん、どう?」

「今日話してきます。今のところ特にトラブルないですよ。でも……」

 祝は上司で、周囲の評価を鑑みれば「優秀な」という枕詞もつく。葉月は、気になることをせっせと口にするよう心がけていた。

「本当に認知症なのかなあと思っていて……」

「何か気になる?」

 だがその心がけが胆力を要するものでもあると実感することは、毎回避けられない。葉月は上司の促しに頷いたが、こころに渦巻く言葉は飲み込んだ。

「……でも、些細なことで。見立てというほどじゃないんです」

 葉月が隠した気持ちに反して、祝の返答は軽やかで支持的だ。

「そう、じゃあまた教えて。あと地域交流の企画、やりたいことがあったら教えてね」

 葉月は再び頷いて、眩しい窓辺から退避するように部屋を出た。廊下はひんやりと薄暗く、知らず溜め込んでいた吐息が抜ける。

 考えを口にするのはひどく疲れる。的外れなのではないか、批判されないか。忙しい祝を呼び止めるに値することか――いろいろな恐れが胸中に湧く。それらといちいち対峙し、踏みつけてようやく言葉は喉を通っていく。この恐れはずっと心当たりがある。幾分ましになったことも自覚している。それでも、疲れは疲れなのだ。

 もう一度ため息をついてから廊下を歩みだし、天童の言葉を思い出した。

 天童とは、先週入所した女性だ。認知症とガンで在宅生活は困難と見立てられていた。

「わたしは空が飛べた……」

 天童は入所の翌日に、生気の乏しい声でそう呟いた。その呟きが葉月の空に嵐を呼んでいる。

 葉月が思う認知症当事者は、過去のことはよく覚えていてそれを捻じ曲げない。誇大な妄想を口にする精神疾患であれば、認知症の他に疑うべきものがある気がする。

 ――だが、自分が未熟で無知なだけかもしれない。

 ものを考ればいつも、隙間からそんなささやきに侵襲される。そのささやきは、ときに音楽でもあった。

 葉月はおのれの生活の様々な場面で、悲愴で破滅的な調べが美しく伴奏しているような錯覚をする瞬間がある。それはおのれをわずかに支え、それ以上に気をふさがせる。陽気な気分になどそうそうなれないのであった。そんな澄清(ちようせい)の空を葉月は思い出せない。

 三回目のため息を、今度は意識して吐く。

 こんな風に晴れたから、余計なささやきが増えているだけだ。天気なんて自分でどうにもできないものによる不調は、気にしたって仕方がない――。そう言い聞かせるが、それですべてうまく律することができるわけでもなかった。

 日頃こころの奥に押し込めている友人の声が、脳裡に反響している。

「芸術にすがらなきゃ生きていけない。葉月は、その心理こそ変えるべきだと思っているんでしょう」

 自分の名を呼ぶ友人の声は、調べのひとつというより主旋律であった。

「だけどそんなのは、葉月がひとのこころについて学んだから……ひとのこころに、手を加えられると思っているからだ!」

 葉月には何もわからない、葉月!

 葉月は友人の声を、必死に遠ざけた。


 葉月が移住した夏の終わりは、雨催(あまもよ)いの空ばかり続く季節だった。それが気温の低下とともに過ぎ去って、やがてすばらしい秋の高空が連日広がるようになった。

 さあらぬ雲居があまりに眩しく清々しくて、葉月の心中には対照的な濁流が渦巻いた。その胸中の洪水は、西日が覗く頃となってもおさまらなかった。

「空を見ていて、答えは出そう?」

「あ……」

 いつの間に席に戻ったらしい祝に問いかけられていた。

 空を睨みつけていたこと、そして明らかに虚を突かれた返事をしてしまっていることにも、気づくのがあまりに遅れた。葉月は苦々しく後悔した。

「どうかした?」

 気遣わしげな声が、葉月の表情のむごさを証明しているものにしか聞こえない。

 なんでもないです、と言えば良いことはわかっていた。だが乾いた喉を、あまり言葉が通らない。「すみません、大丈夫です」なんとかそれだけ口にした。

「いや……考えているところに、悪かったかな」祝は融和的な表情で、一瞬の間を挟んで言葉を続ける。「葉月さんは、本当に眩しいのが苦手なんだな。晴天の日ほど元気がない。今も、西日がきついし」

「そ……」そんなことはない、と言えなかった。

 祝は浅黒く筋肉質な体つきだが、柔らかい押し出しをしている。銀縁の眼鏡は理知的で、瞳の奥の光も穏やかだ。年齢は葉月のひと世代上であろうが、話しにくいところが見当たらない。部下の態度を蒙昧に見逃すような人物でないことは、ともに働いて三か月目の今では、周囲の参照からではなく葉月の実感としてわかる。だからこそ、祝は自分の虚勢も見抜くだろうという諦めが先に立った。

「すみません。ちょっと……確かに眩しいのと、疲れもあるのかもしれないです」

「そうか。結局天童さんのこと、どうしたかと思ったんだけど。今度のほうがいい?」

「いえ。でも……よくわからないままで。気になったのは結局あのひと言だけで、他は確かに認知症と言えると思いますし」

 天童はその後、特に取り上げるべきこともなく過ごしていた。突飛な言動はあるが、むしろ認知症であることを裏付けるような一般的なものだ。

「わたしが……空が苦手だから、気になるだけなのかも……」

「空が苦手なの?」

 それは明らかな失言だった。葉月は血の気が引いたが、祝は笑っている。

「やっぱり疲れてるみたいだね。もう帰ってもいいよ?」

「いえ、そんなに」

「葉月さん。疾患名も症状もそんなに大事なことじゃないさ、俺たちは本人の利益を代弁し、権利と尊厳を保障することが仕事だろう。天童さんがそのように過ごせているかを考えればいいんだ。天童さんの言葉が気になるなら、その言葉が何を表現したかったのかを考えるほうが大事だよ」

 なるほどと思うのに、凝り固まった体では頷くことさえ満足にできなかった。

「それとも、さっきの空が苦手という話、聴いてもいいのかな」

 黄昏の光が、祝の輪郭とわずかに頬の筋肉が隆起したところをなぞる。均整の取れた自然な笑みだ。

 気後れする。

 葉月の脳裏では、夕陽はすでに宵闇に取って代わられている。到底ロマンがあるとは思えない陰鬱なノクターンの譜面が、その夜の帳を編み出しているような想像をした。

 思いつめた表情でにわかな返事をしない葉月に、祝は深い配慮を湛えた表情を浮かべつつ、不似合いにいたずらっぽく述べた。

「暴露療法でもしに行く?」

「……え?」

 夜の暗幕の隙間からするりと、いとけない目の演者が覗きこんでいるようだった。


 祝が開錠する音がして、扉に切り取られた屋上に、貯水槽と配管だけが悠々と佇んでいるのが見えた。

「苦手であっても嫌いではなさそうだし。大丈夫、せっかくなら夕陽を拝もうか」

 祝が一歩踏み出すと、その体を柑子色の光が照らす。誘うように振り返って葉月に声をかけた。床に視線を落として追従すると、フェンスの影が長く伸びて幾何学模様に染め抜かれているのが見えた。

 顔を伏せても、光と温度で正面から照らされていることがわかる。一度目をつむり、大きく息を吸いなおしてから顔を上げた。

 島の急な坂道を滑り落ちたその果て、海の向こうに沈んでいよいよ明るく燃え尽きようという陽光が目を焼く。丁寧に、どこまでも薄く繊細な重なりで色を変えていく空と、その非現実的までに均質なグラデーションの平面を、奥行きある芸術に仕立てていく立体的な色と形をした雲。

 葉月は言葉を発せられなかった。思いつめて、という理由ばかりではない。眩しさに目をすがめながらも、無心に見つめた。

「みんなこの眺めが好きなんだ。この眺めを共有するとき、いろんな話をしてくれた」

 祝がささやいた。

「たくさんの方がここへきて、旅立った。穏やかなひとも激しいひともいたけれど……みんなこの眺めを、こころの奥深いところで宝物のように大切にしているみたいだったよ」

 祝の視線が、葉月の瞳に映る夕空を見た。

「葉月さんはどう感じる?」

「……わたしは……」

 頭の中の調べが変わった。礼拝堂に響く、敬虔なコーラスだ。悲しみと祈りの調べ。畏敬と、静かで固い決意の。

「この島の空を、初めてちゃんと見ました。空はつながっているなんて言いますけど。全然……別物ですね。空の切れ目の景色も、雲の形もちがう」

 祝の瞳が言葉を促している。

「でも空を見つめて、みんないろいろなことを思って、言うのはわかる」

 空を飛べたとか、空を切り取らなきゃ生きていけないとか。

 入所者も友人もむちゃくちゃなことを言う。そんなに何もかも託し、重ねられるものか。空など何もしてくれやしない。手は届かず、交わらず、ただ頭上に鎮座して気まぐれに色を変え、どこに行っても追いかけてきて、葉月の不安を深めるばかりだ。

 ああ、でもたぶん。

 祝が興味深そうな佇まいで葉月を観察している。不快に含んだものがない瞳。全身さりげなく聞く準備を整えておくことがどれほど大変なことか。それを知っている葉月にさえ、祝はその苦労の片鱗も読み取らせない。祝の聞く準備はとても上手い。だから。

 祝にいろいろなことを打ち明けてきた人々は、空ではなく、たぶん祝に向けて言ったのだろう。

 天童や(あかし)は、自分に。

「――あ」

 ん? と絶妙な相槌を挟んでくる。

「いえ、ちょっと。でも島の空……本当に広くて、とてもきれいなんですね」

 天童が「空を飛べた」と言ったのは、まるでこの広がりと深さを手中に収めるようにあらゆることが自在に行えたかつての自由のことを、例えていたのだろうか。

 日々老いて、からだもこころも変質していく過程はきっと、翼を失うような思いをすることなのだ。

 天童はこの島の美しい空の下でどう過ごしてきたのだろう。そして、これからどうなっていく?

「暴露療法、大丈夫だったようだね」

「おかげさまで」

 自然に、ほんの少し笑うことができた。その勢いで、思いついたことをひと息に告げた。

「あの……地域交流の件なんですが。空の写真の展示とかどうですか。入所者さんが撮った写真だけでなくて、公募というか……上手く広報して、ほかの島や外からも少しは集められたらいいなと思うんですが」

 祝は即座に「とても良いね」と言った。葉月は同じ微笑みを返すことで、先ほどより笑みを深めることができた。その後、祝にも気づかれないほど静かに、唇を結んだ。


 写真展の企画はすぐに進められた。久々の多忙は身に堪えたが、なんとか日々を駆け抜けていく。やがて秋が終わる気配が近づき、陽があっという間に落ちてゆく頃に、写真展の前夜を迎えた。

「思いのほか、作品来ましたね」

 体が動く入所者と協同して昼間のうちに展示作業をする予定だったが、すでに外には月が浮かんでいる。だが今日ばかりは、帰れと言われても残業する心づもりであった。

「そうだね、全部収まるといいけど」

 祝とふたり、せっせと梱包を解いては壁に据え付ける。同封された作者名のカードを、葉月は内心緊張しながら検めていた。だがほとんど展示し終えても、葉月が思い浮かべるものには当たらない。祝が開封したほうにあるのかもしれない。もしくは……。

 そう思った頃、葉月の視線は一枚の写真に吸い寄せられた。

 空の写真ではない。その写真は地面を向き、一輪の花が接写されている。

「祝さん」

「ん?」

「もう空は暗いですけど。わたしの話を……聞いてもらっていいですか」

 緊張で喉が動く。「もちろん」という快諾が返ってきても顔を向けられず、代わりに見つけたばかりの写真とカードを向けた。

「これ……わたしの友人のものです。朱っていう子なんですけど」

「地面の写真なんだ、変わっているね」

「わたしも驚きました。空の写真を……特に晴れの空を欠かさず撮っていたから、その中から送ってくると思っていたのに」

 その空を思い出すと、胸の辺りが痛い。

「日記みたいに、写真と一緒に心情が添えられていました。それを送ってくるんです、毎日。朱は家が複雑で、いいことはほぼ書いていなくて……呪詛めいてるんですよ」

 脳裏では、いつもと同じくソナタのように固い格調の、優美で悲愴な音楽が鳴っている。だがそこに朱の声はしない。

「苦しかったけれど、わたし以上に苦しんでいる朱を、何か支えられると思ってた。けれど大学で学ぶうちに、朱がそのつらさから抜け出そうとしていないように見えました。逃げていいのに、渦中にとどまろうとしているようで。写真を……芸術というものを逃避のために使うのに、現実はそのままにしているように思えて……。卒業して仕事をはじめる頃には、どんどん苦しさが増した」

 祝は何の変哲もない態度ながら、葉月が望むものを、望むところへと据えている。

「それであるとき、『地に足つけろ』って言ってしまったんです。だからわたしにとって空とは芸術で、朱に芸術を捨てろと言ったとき、わたしも芸術を捨てないといけないと思いました。わたしは楽器が好きだったんです、けれどもう演奏してはいけないと思った。空も、朱の写真や、あの頃の苦しさを思い出して、恐ろしくて……いつの間に、晴れの日が苦手になっていました」

 矢継ぎ早にしゃべって、胸がざわつく。ふいに由無い語りに不安になると、ようやく祝が言葉を挟んだ。

「うん。それから?」

 簡素な促しがこれほど有効なのはなぜだろう。こんなに必死でなければ、ぜひに学び取らなくてはならないのに、とよぎる。

「いろいろだめなものが増えて、しばらくしたら仕事もできなくなってしまって……けれど半年ほどしてなんとか次のことを考えはじめて。これからどうしようって思っていた頃に、祖父が亡くなったことを知りました」

「それでここへ来たんだ?」

「はい。もちろん住むつもりで来たんじゃなかったけれど、なんというか勢いで結局居ついてしまって……」あのとき何に安堵したのかは、今でもつまびらかにできない。「島に来て何かが大きく変わったわけじゃないです。けれどもうあの子と上手く付き合うことはできないんだろうって、どこかで思いました。あの付き合い方が、行き過ぎだった」

 罪戻を突きつけられるような言葉を口にしたとき、何か音が変わった気がした。

「それでもあのように終わらせることが心残りで。勝手だし、危険な賭けだとは思ったけれど……この展示の知らせを送りました」

「それでこれが届いた」

「わたしが地に足つけろと言ったから、地面の写真を撮ったのだと……わたしは思います。あのときの言葉……やはり許してくれていないのかもしれない」

 祝が一瞬きょとんとした表情を浮かべた。

「この写真、葉月さんはそう受け止めているの?」すぐに微笑みに変えて言葉を継ぐ。「きみの友達はきみの言葉を受け止めた。そのことと自分の芸術を折り合わせたのが、その写真だと俺には見えるけれど。ほら」

 祝が指さした部分には、花から零れ落ちる大粒の水滴に紺碧が映り込んでいる。その落ちてゆく先の地面に張った水たまりにも、土に色を分けた控えめな空が姿を映していた。

「その写真は紛れもなく空の写真だよ」

「あ……」

 知らず頬を、水が伝った気がした。この水にも空が映るのだろうかと、片隅で思う。

 ――いや、たとえ映らずとも、わたしの内側に空はある。悲愴な音楽は、されど一度たりとも離れなかったのだから。

 祝はさりげなく作業に戻っていたが、ほどなく再び振り向いた。

「これ天童さんのだよ。作品は見た?」

 天童は数日前、喜んで空にレンズを向けていたらしい。その後ほどなく急変し、今も天地の境でまどろんでいる。看取り期の判断をしたのはつい昨日のことだった。そのあれこれに追われ、作品もまだ見られていない。

 祝が示した天童の作品に目を向けると、真昼の白い月が写っている。そのすぐそばに、片翼のような形の雲が寄り添っていた。

 彼女が空を駆けていた翼だ、と思った。


 ささやかな写真展は一週間の会期を無事に終え、ほどなく天童は亡くなった。

 死後の事務を終え、最後のカンファレンスで総括を祝に求められたとき、考えを述べる恐ろしさが依然として焦げつきながらも、葉月はひとすじの涼風を感じていた。

 あっけなさ、繰り返しの途方のなさ、わりきれないたくさんのもの。それらを持て余しながらでも、さきゆくひとの空を地上より見上げる。天童が設えた空の舟は、今頃雲外まで進んでいることだろう。その目に見えぬ澪にこころ馳せることは、まだ長く地上にとどまる葉月にとっても、指標となる思いがした。


 秋が過ぎ去った休みの日、葉月は祖父の墓参りに行き、霊園の入り口で祝に出くわした。

「あれ……祝さんも、誰かに?」

「ああ」祝は軽やかに返した。「演劇に別れを告げ、いちばんつらかったとき、助けてくれた恩人に会ってきた」

 演劇家であったのか、と初めて知った祝の個人情報に驚く葉月に、祝は相好を崩す。

「晴れているからきみの顔がよく見えて、壮さんはきっと喜んでくれるだろうね」

 自分では口にしない祖父の名前の響きが懐かしい。なんと返したものか迷って祝の表情を窺った。休日は眼鏡を変えるらしいという第二の個人情報だけを取得する。赤い縁で少し色の入ったレンズの眼鏡ごし、相変わらず理知的で、だけど温かく、夏より親しみを覚えるようになった瞳が葉月の手荷物を見た。

「花じゃないんだな。だけどいいものだね」

 そう残して笑みを深め、じゃあと去っていく。その背を見送って祖父の墓へ向かった。

 墓には、あげたばかりの線香と、生き生きとして枯れる気配もない花が供えられている。

「ひょっとして……祝さん?」

 演劇をしていたという言葉に気を取られていたけれど、そのあと何と言ったっけ。

 そうだ、あのひとも何かを。

 この空の下で様々なこころのうちを聞いたといったあのひとは、『いちばんつらかったとき』のことを、同じように空を見つめて誰かに語ったのだろうか。祖父に?

 ――わたしも聴けるだろうか、あのひとの語りを。もう今さら思い出話としてしか、聴かせてくれないにしても。多様な空のどれかにある、祝だけの演目を。

 葉月は首を振り、深呼吸する。

 ――ううん、それより先に。今はわたしの音楽だわ。

「おじいちゃん。こんな冬晴れなら、ちゃんと顔も音も出せるわ。遅くなってごめんね」

 楽器ケースを下ろすと、静かな緊張と興奮を自覚する。

 葉月は高揚に震えながら自分の芸術に手を伸べ、確かに抱き寄せた。

お読みくださりありがとうございました。

本作は『アンソロジー空』pmに寄稿したものと同一ですが、誤字の修正など細部が異なる可能性があります。

冊子は校正も版組もしっかりしているので読みやすいですし、ほかの方々の作品も素敵です。機会ありましたらぜひご覧ください。

(アンソロジー「空」のサイト:http://clew09.web.fc2.com/sora/)

また、本作は今後改稿する可能性があります。葉月の名前なんかも変わるかもしれないので、その際には予告なく掲載を取り下げるかもしれません。よろしくお願いいたします。

☆2020/9/11追記 一部改稿しました

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