夜と一人と四匹と
「はぁっ、はぁっ……!」
息切れが激しい。足ががくがくしている。
それでも、進むのをやめようとは思わない。
木の生い茂る中を、脇目も振らず走る。何度も躓きそうになり、身体もあちこちをぶつけたが、がむしゃらに進み続けた。
足下なんて少しも見ていない。俺の足がいろんな物を踏みつけて、派手な騒音を立てる。
いつもなら絶対にしなかった、無警戒すぎる動きだ。
普通ならこういう場所には魔族が多く住んでおり、これだけ荒らし回ったら出てくるものだが――現状、そんな気配は全くない。
そう考えて、吐き気がこみ上げる。
あの空間で聞いた、ゴミみたいな真実がよみがえる。
――ここは、俺の生きてきた世界じゃないんだ。
だから、自分の世界でどうだった、なんて常識は通用しない。
そういうことなんだろう。分かっている。
このラビッシュワールドには、俺の世界にいたような理屈で魔物が存在するわけじゃないんだ。
何の注意も対策もせず、物音を無意味に立てながら。
こうして走ることで、自分で証明してしまっているようなものだ。
何でもいいから魔族が出てきてくれさえすれば、どんなに良かっただろう。
やっぱり、これは現実で――。
「――――――――!」
――ダメだダメだダメだダメだ考えるな!
思考を振り払って、走る。走る。走り続ける。
思想に追いつかれないように、前に進んだ。
そうやって、どれぐらい進み続けたのだろう。
枝がぶつかる痛みがなくなったのに気がついて、俺は足を止めた。
それまでも目を開いて走っていたはずなのだが――立ち止まってようやく、周囲の風景の変化に気がつく。
いつの間にか、俺は草原に出ていた。
最初の荒野とは違って、障害物は一切無い。見渡す限り、草以外には何もなかった。
地平線の区切り目は、夜と同化して真っ黒だ。
……森の中はさして光が入ってこなかったせいか気づいていなかったが、いつの間にか夜になっていたらしい。
しんとした空気が辺り一面を占める中、何かの生き物の鳴き声だけが聞こえている。
魔物だろうか。それ以外の――俺の世界に存在しなかった何か、だろうか。
「はぁ……はぁ……」
荒々しい呼吸もそのままに、俺はその場に座り込んだ。
草は夜の空気にさらされて冷たくなっている。
その冷たさは、仲間と外で野宿したときのあの草木の感触と一緒で。
それよりも昔、家族と眠っていた時の岩肌のものにもどことなく似ている気がして。
「…………畜生……」
考えないなんて、思い出さないなんて、無理だ。
だって、俺のこれまで生きてきた経験は、全てあの世界にあるのだから。
何をしたって、記憶がつながる。
すでに遠い世界になってしまったそこへと、つながってしまう。
ここが異世界ではない証拠はない。
だが、ヴェーダニア大陸ではない根拠や理屈は、すでに俺が身をもって体験してしまった。
――だとしたら、認めなきゃいけない、のか。
震える両手を握りしめ、唇を噛んだ。
認めなければ、ずっとここから進めない。
認めた上で、どうするかを考えなければいけない。
そうしなければ、何も変わらない。
それは、俺が生きてきた世界で学んだことだ。
考えないのは、もう終わりにしなければ。
ここには今、頼りになる仲間はいない。もう、俺しかいないのだ。
――俺に何が出来る? どうすれば戻れる?
――いや、棄てられた以上、戻る意味はあるのか?
……分からない。
どうする、どうする、と。そんな言葉だけがぐるぐると回る。
目の前にあるのは空と同じように真っ黒な現実だけだった。
あのままカヤのところで話を聞き続けるべきだったのだろうか?
いや、そんなことをしていたら……きっと俺の心は壊れてしまっただろう。
少し頭が冷えたから、こうして少し平静になっただけだ。
それにしても静かだ、と思う。
無我夢中だったせいもあるかもしれないが、森の中でもなんの声も聞こえなかったし……結局、一匹の魔物に会うこともなく、ここまで来てしまった。
思えば、この世界――ラビッシュワールドに落ちてきてから。
俺はカヤ以外の生きている存在に、出会っていない。今も何かの鳴き声は聞こえているが、姿一つ確認できていない。
カヤから見せてもらった文書には、転移者は自分以外にもたくさんいると書いてあった。しかし、そういった人間にもやはり出会えていない。
まぁ、俺はまだ森を一つつっきった程度の範囲しか動いていない。
空から見たラビッシュワールドは相当広かった。まだまだこの世界の全域を見ることは出来ていないから、何にも会わなくても不思議ではないのかもしれない。
――背後からカサ、という音が聞こえたのは、その時だった。
「――ッ、誰だ!?」
静かな夜に響き渡った俺の声。同時に聖剣カリブルヌスを右手で勢いよく引き抜く。
暗闇の中に見えたのは、三つの影だ。
顔つきはよく見えないが、わずかな星明かりが外観だけは把握させてくれている。
「うわぁ、人が来たのは久しぶりだよ!」
そんな声が、三つの影から発された。
それらは全く同じ大きさで、そろって横に並んでいる。
とがった耳のようなものに、前に出っぱった鼻。
人と同じように二足足で立っているそれらの大きさは五十センチ弱ぐらいだろうか。
「お前ら――ゴブリンか!」
俺は直感的に把握する。
こいつらは数多くいる魔物の中でゴブリンと呼ばれる種族だ!
剣を両手で構え直す俺に、その三匹のゴブリンは全く同じタイミングで首を右に傾げる。
「おにーちゃん、こんばんは! なんでそんなに怒ってるの?」
どのゴブリンが喋ったのかは分からなかったが、そう話しかけられる。
その口ぶりからすると子供だろうか。
子供のゴブリンになんてあったこともないから分からないが。
――いや、そもそもゴブリンなんて魔族に会ったことが、ない。
少なくとも俺の世界では出会ったことのない魔族だ。存在しているかどうかも怪しい。
このラビッシュワールドに生息する魔物――あるいは、カヤの言っていた言葉を借りるなら。
こいつらもまた『神様』に捨てられた転移者、かもしれない。
――こいつらも、俺と同じ境遇なのか。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
俺は頭を振って雑念を追い払う。
魔物は魔物だ。俺が打ち倒すべき存在。
人々を支配し、苦しめている存在!
「――黙れ魔族め! お前らは、ここで仕留める!」
「え? 何で?」
俺は強く聖剣カリブルヌスを握りしめる。
魔物を討ち滅ぼすのは、俺の使命なのだ。
同時に、『神様』という言葉が頭の中をちらついた。
「おにーちゃん、どうしてそんなに怖い顔してるの……?」
――本当にこれは、俺自身の意思なのか?
――その使命は棄てられても尚、やらなければいけないことなのか?
「――くらえええええええ!」
迷いが生まれそうになるのを振り切って、俺は猛然とゴブリン達に詰め寄っていく。
ここには回復魔法を使えるエミリはいない。
下手な一撃をくらえば命の危機につながる。
迷うな。相手の命を絶て!
そんな俺の攻撃姿勢に、ゴブリン三匹はまたしても一斉に同じ動きをした。
怯えるように身をすくめ、半歩左足を後ろに下げて。
「――とうちゃーん、たすけてええええええ!」
そいつらは夜の大空に向かって、大声で叫んだ。
耳を劈くような音に、思わず耳をふさぎたくなる。
大声による撹乱攻撃だろうか。
だがそんなことでひるむわけにはいかない。
俺はゴブリン達の目の前まで踏み込む。
連中は自分の身体を両腕で抱きしめて震えている。距離が近くなったことで、ようやくどんな顔をしているのか見えるぐらいになった。
――ためらわずに、思い切れ!
俺は斜め後ろに振りかぶった剣で、三匹まとめて横殴りに切り裂こうとした。
だが。
「――オイゴルァアアアアアアアアアそこのオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
大声に、空気が震えた。
ガァン、と鋭い金属音が鳴り響いて、聖剣カリブルヌスが止められる。
「――っな……!」
いつの間にか。俺とゴブリンの間に割って入っている、巨大な影がある。
見た目はそこにいた三匹と同じだが、いかんせん体格が比べものにならないぐらい大きい――俺の倍以上はあるのではないだろうか。
そしてそのゴブリンは右腕につけた金の腕輪で、俺の聖剣カリブルヌスを受け止めていた。
――この剣で切れないなんてなんて、なんて強度してんだ!
俺は歯ぎしりする。両手で力おししているというのに、全く動かない。
「とうちゃーん!」
大ゴブリンの背後から歓声が上がった。
そういえばあいつら、さっきもとうちゃんとか言っていた。
全く気にしていなかったが、あれは攻撃じゃなくて救援要請なのか?
そしてそれが『とうちゃん』なのか?
……ということは。
「オイゴラァ、そこのボウズ! なんで俺のかわいいガキどもを攻撃してんだぁ!?」
目の前の巨体の台詞で確信する。
このゴブリン――後ろのゴブリンとの差別化のために大ゴブリンと呼ぼう――は、後ろにいる三匹の父親だ!
――くそ、こんなでかいのが出てくるとは……!
「オイ、なんとか言わねェかボウズよォ!」
大ゴブリンの声は体格に負けず劣らず大きい。
鼓膜が破けそうな気がして耳をかばいたくなる。
が、そんなことをする余裕はない。今力を抜けば、聖剣カリブルヌスをはじき飛ばされるだろう。
なんせ両手で振るった一撃を右腕一つで止めるぐらいに、コイツの腕力はある。
気を抜くわけにはいかない。
「オイゴラァ無視すんな! 質問にはちゃんと答えろ!」
「うるさい! お前ら魔族は人間の敵、理由なんてそれで十分だ!」
腕の力を緩めずに、相手の声に負けないように俺は叫んだ。
剣を握ったまま目の前の大ゴブリンの顔に、意識を集中させる。
剣がダメなら、魔法がある。
手を使えないから標準がうまく合わせられる自信は無い。けれど、今俺は一人なんだ。やるしかない!
「――雷魔法『サンダー』!」
俺の声と同時に、大ゴブリンの頭上に走る閃光。
「ア゛ァ!?」
大ゴブリンが頭上を見ようとするのと、同時のタイミング。
大ゴブリンの顔面にクリーンヒットするように雷が落ちた。ヤツの腕からかかる力が抜ける。
ひるんだ。だが、ここで無理に剣を押し込んでも、大ゴブリンに傷をつけられるかどうかは怪しい。
俺は剣を退き、大きく後ろへと距離を取った。
「と、とうちゃん!?」
「うるせえ、大丈夫だガキども!」
ゴブリンたちの慌てたような声とは裏腹に、大ゴブリンの方の調子は変わらない。ごしごしと顔面を両手でぬぐうと、こちらをにらみつけてきた。
不意打ちにはなったものの、俺の未熟な魔法ではたいしたダメージになっていないようだ。
くそ、と俺は舌打ちをする。
――あんまり、良い状況じゃない。
後ろのゴブリン三匹はどうとでもなりそうだ。
が、大ゴブリンに関しては正直きびしい。
正面切っての力勝負じゃ勝てないし、魔法にしたって今見たとおりの結果だ。
自分からふっかけておいて弱腰な判断だが――ここは、逃げた方が良さそうだ。
味方のいない状況で、見知らぬ場所で、たった一人。
勝ち筋の見えない試合をまじめに続ける必要なんて無い。
生きることが最優先なのだ。醜いだとか情けないだとか、そんな感情二の次だ。
俺はきびすを返して走り出す。
「あー! とうちゃん、あいつ逃げてるよ!」
そんな声が聞こえるが、振り返りはしない。
森の中でもずっと走りっぱなしだったが、身体は妙に元気だった。
普段と変わらない速度で動けている。
ここは撤退して、もう一度作戦を練り直そう。
ただ、このとき俺は肝心なことを忘れていた。
逃げる、ということは相手よりも素早いのが前提として必要なのだ。
そしてその相手は、一瞬の間にゴブリン三匹と俺のあいだに割り込んできた大ゴブリン。
つまり、その移動速度は尋常じゃなく速いと言うことだ。
「オイゴラァ! オメェそんな理由で俺が納得するとでも思ってんのかァ!?」
その声が、やけに近くで聞こえると思ったときには。
俺の頭上に、夜よりも深い大きな影ができていて。
「――オメェの尺度で勝手に周りを潰すんじゃねェ、この『勇者』がァ!」
グシャア、というめちゃくちゃな音が耳元で響いて。
――あ、今の、俺の頭とあのゴブリンの腕がぶつかった音、か?
そう思ったときには、目の前が真っ暗になっていた。