―カヤの話―
強引に押し開けられた扉は蝶番が外れてしまったようで、閉まることなくきぃきぃと揺れている。
一人部屋に残されたカヤは、今日何度目か分からないため息をついた。
――どう言えば良かったと言うんだ。
答えの出ない疑問を、こうして何度考えたことか。
どんなに手を尽くしても、彼女の悩みが解決されることはなかった。
カヤは手元の資料を見下ろす。
何度も手を加えて吟味したお手製の資料は、今日も最後までめくられることは無かった。
正直この紙が最後まで読まれ切ったことは、今までに一度も無い。
この分厚さなら当然と言えば当然なのだが、それはこれまでに案内した転移者からの質問事項を全部書き出し、答えた結果だ。
つまりどの質問も誰かにとって必要な内容だったと言うことで、彼女にはそれを削るつもりはさらさらなかった。
「またチャートの内容、考え直さないといけないな……」
いたずらに紙をばらばらとひらめかせながら、彼女は独り言を呟く。
結局半分ほどしか読まれなかった『ゴミ箱への質問に対する回答チャート』。
ここから先にも重要事項は色々書かれていたのだが、それに目を通すことなく彼は去って行ってしまった。
それでも。半分読んでくれただけでも、かなり進んだ方だ。
無理に背中を追いかけて引き戻さなくても、絶望しているであろう勇者に追加の説明をしなくても。
――きっと、大丈夫だ。
カヤはそう信じた。それが手前勝手な信頼だと知っていたが、それでも動きたくはなかった。
何もああいう反応をされて心苦しく思うのは、当の本人だけではないのだ。
何故彼女がこんな分厚いチャートを作っているのか。
それは同じ事を何度も口で説明するのが面倒だと思っているからでもあり、自分の言葉によって激怒する転移者をこれ以上見たくないからでもあった。
そんなの話が違う。
ふざけるな。
そんなことを何度言われたか分からない。
カヤはふざけてなんかいないし、その日出会うまでは何の話もしていないというのに。
転移者の多くはラビッシュワールドに夢を見ている。
あんなにもつらかった世界から移動してきたんだからいいことがあるはずだ、という、希望に満ちた表情をしている。
カヤにはそれがよく分からなかった。
見知らぬ土地に謎の力で連れてこられるという現象に、今後ここで生きていかなければいけないという事実。
どう考えたって恐れるべきだろうと彼女は思う。
もしかしたらそれすらも『神様』の采配なのだろうか。
だとしたら、それはカヤにとっても転移者にとってもひどく残酷なのだが。
カヤは席を立ち、寂しく音を立てている扉の調子を確かめに行きながら考える。
今日拾った勇者は、最近は久しく会っていないタイプの転移者だった。
転移への疑問、現在置かれている状況への戸惑い、元の世界へ帰らなければならないという意思。
最近の転移者は、もはや転移であることを不思議がりもせず、あるがままを受け入れる事が多かったからだ。
あぁ、これが噂の異世界転生ってヤツ?
別に説明とかいらないよ、今まで色々見聞きしてて知ってるし。
ところでチート能力は? アンタが神様なの?
そんな台詞を、何十回、何百回聞かされただろう。
そこから『神様』の説明とラビッシュワールドの話を聞いて、怒り狂う人を。
何十人、何百人、何千人、見たのだろう。
転移者からしたらたまったものじゃないのは分かっている。
だがその説明をしているカヤにしたって、同じことだ。
転移者とって状況説明役なんて、怒りの感情をぶつける相手でしかない。
考える余裕も無いだろうから仕方がない、といえばそれまでだが。
それでも彼女がこれまでに受けた被害は相当である。
殴られそうになったり。
首を絞められかけたり。
魔法を正面から放たれたり。
存在そのものを消滅させられかけたり。
あまりにも理性的でない理不尽な行動は、数多くあった。
めちゃくちゃな現実は、生き物を凶暴にさせるのだろう。
何があろうと、カヤは自分の役割を全うし続ける。
それでも君たちの方が私よりマシだろう、と何度も言いたくなったか分からない。
――私は『神様』からの仕事でこんなことをさせられているというのに。
転移することで、『神様』から見放されることで――『神様』の支配から逃れられているじゃないか、と。
カヤは扉の状態を確認した。
蝶番の部分が壊れてしまっていて、今日の時点では綺麗に閉まることはなさそうだった。
それでも別にかまわない、と思う。
どうせ次の昼が来れば、この世界の物は全てもとに戻るのだから。
ラビッシュワールドに廃棄された物には、時間が存在しない。
いや、そう言い切ってしまうと語弊になる。
厳密に言うならば、時間の経過によって変化するはずの事象が発生しない、といったところだろうか。
この世界は十二時間おきに昼と夜を繰り返し、昼になる瞬間に一度物質的な面は元の状態に戻るという性質を持っている。
何かを食べても、壊しても、使い切っても。それらは基本的に次の昼が来れば復元される。
それは生きているモノでも同じだ。
傷つく、死ぬ、粉みじんになって吹き飛ぶ、干涸らびる、急激に老化し老衰する――どんなに意味不明な状態に陥ろうと、昼と夜が一周すれば、『神様』に棄てられた状態に戻ってしまう。
不老不死だ、といえば聞こえがいいかもしれない。
だがそれは、どんなに真実に絶望しようと、逃れる術がないと言うことだ。
なぜそんな仕組みになっているのか。
それは、彼らは廃棄された時点以降の時間へと進むことを、『神様』に許されていないからだ。
知らぬところで、自分が廃棄したときと見た目の状態や持っている能力が変わることは『神様』にとって不都合なのだろう。
その、カヤ自身にすら一度も姿を見せたことがない『神様』は。
ラビッシュワールドに捨てた物を拾いに戻ってくることがあるからだ。
この『神様』が棄てたもの対する一連の話は、カヤの勝手な想像だ。
だが、おおかた間違っていないだろうとも思っている。
誰よりもこの世界との付きあいが長い彼女は、誰よりも『神様』の汚い側面を知っていた。
カヤにはもといた世界という物が存在しない。
彼女は気がついたらこのラビッシュワールドで、転移者に事情を説明するための存在として、ここにいた。
つまり、彼女には振り返るべき過去も、向かうべき未来も存在していないのだ。
だからカヤは、先ほど目の前から走り去っていったどこかの世界の勇者を、少し羨ましいと思っていた。
彼には、もがいてでもなんとかしたい何かがある。
彼には、なんとかしたかった世界が確かに存在するのだ。
それはここに来るまでの道中で彼から聞いた話で、なんとなく分かっていた。
カヤは壊れた扉を強引に閉める。風が漏れてくるが仕方は無い。
次いで彼女が目をやったのは本棚だった。
「……ヴェーダニア大陸、ヴェーダニア大陸……」
レナードが言っていた大陸名を忘れないように声に出しながら、彼女は本棚の間を歩きはじめる。
レナードは文字が読めなかったため、本棚を見ても気がつかなかったのだが――あふれんばかりの蔵書は、すべてラビッシュワールドの共通文字以外の言葉で書かれている。
これらは転移者とともに落ちてきた、あるいは『神様』が廃棄した、元の世界の遺産だ。
カヤは転移者の出身地が分かったとき、彼らがやってきた世界の書物がないかを確認する。
そして見つけることが出来たときは、本を引っ張り出して転移者に渡していた。
どんな転移者も、自分の世界にあったものを見ると多少なり心を落ち着けることが多いからだ。
『神様』のつくる物語には不要物はつきものらしく、同じ世界からの転移者が同日にやってきたり、もといた世界の物質だけが先に来ていたりすることも珍しくない。最初に混乱していようとしていまいと、そういう物を見せることができれば、比較的話を聞いてくれやすくなるのだ
それでも最終的に激昂してしまうことには変わりないのだが。
蔵書一冊一冊の間には白い紙が挟まっている。これはカヤが書いたメモだ。
彼女自身は、ラビッシュワールドの文字ではないこれらの蔵書を読むことができない。だから理解できる転移者に言葉の意味や出身世界を聞き、彼女なりにメモした物を本の間に挟んでいる。
そして、暇があればそれをひたすら眺め、蔵書の全てを覚えようとしていた。
転移者から聞いた言葉で、すぐに本を引っ張り出せるようにするためだ。
だが、最初にレナードからヴェーダニア大陸という言葉を聞いても、カヤはぴんとこなかった。
そして今。本棚を全て見回っても、その単語が載っている本は、見当たらなかった。
「…………」
他に道中で聞き出した単語のことも思いながら、もう一周する。
だが、やはりそれらしい物は何も見つからない。
「…………」
彼女は本棚を離れ、椅子に深く腰掛けた。
肺から酸素を全てはき出すような勢いで、本日最大級のため息をつく。
「……あの勇者、彼の生きてきた世界で本当にただ一人、棄てられたのかもしれないな」
思っていても本人には決して言わなかったことを、改めて自分しかいない部屋で声に出す。
だとすれば彼は、自分と同じ正真正銘のひとりぼっちなのかもしれない。
そう思って、カヤは自嘲する。そんなことはあり得ない。
だって、彼にはもといた世界に仲間がいるけれど。
私にはただの私しかいないのだから。
不意にカタカタ、という音が聞こえてくる。
カヤは部屋の角へと目をやり、そこに自分が普段置いている物をまだ戻していなかったことを思い出した。
ポケットに手を入れる。取り出したのは、薄汚れた金色のコンパスのような物だった。
赤と青で構成された針が二、三回くるくると回ったかと思うと、ぴたりと止まる。
この針が指すのは方角ではない。赤い針の先に、落ちてきた転移者がいるのだ。
彼女はゆっくりと立ち上がる。
今すぐそこを目指して出発するつもりはない。
まだチャートは一ページも直せていないし、先ほどの騒ぎで扉は壊れたままだ。
それに、『神様』は廃棄物への扱いが乱雑だ。
きっと今回も、空高い場所から適当に放り投げているに違いない。
今見に行ったところで、そこにあるのは原形をとどめていない何かだけだろう。
向かうのは、次の昼が来てからだ。
カヤの今日の仕事は、あの勇者を助けたところで終わりだ。
説明義務を完璧には果たせなかったが、ラビッシュワールドについて伝えるところまでが正式な彼女の運命である。
それ以外の説明はカヤにとって、彼女自身へ向けられる転移者からの攻撃を減らすための蛇足であり、リップサービスに過ぎない。
カヤはチャートの表紙に針の指し示す向きをメモすると、コンパスのような物のふたを閉じた。
そして【『神様』について知っていますか】という文面が載っているページに大きくバツをつける。
ページ番号もまた振り直しだ。
そうして、カヤは毎日を繰り返す。
『神様』に運命づけられたとおり、転移者を拾い続ける。
ラビッシュワールドに希望も絶望も見いださないまま。
生きる意義を持った転移者にわずかな羨望を抱きながら。
それこそが、『神様』によって与えられた彼女の存在意義だから。